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●TOUYAさんからのいただいたイラストを元にで小説を書いてみました!



「おはようございます。…え?もうお昼なんですか?」(TOUYAさん宅より抜粋)



 所は両国時は江戸。太陽が中天に身を置く時分、模造刀を腰に差した中年の男がそわそわとした様子で居並ぶ見世物小屋に連なる自身の見世の前をうろついていた。

「笹浜の旦那、どうしたんスか? さっきから落ち着いてねぇけど」

 大概気になって声をかけたのは隣の見世の若い軽業師だ。男――――笹浜亭の主は声をかけられたのに気付くと少し困った顔をしてみせる。

「よぉ新垣の若ぇの。いやさ、今日は剣術の先生が来るってぇ話だったんだけどまだ来ねぇんだよ。五つ半(午前9時)に約束してたんだがなぁ」

「五つ半? もう昼九つ(午後12時)だぜ。その先生とやら忘れちまってるんじゃないんすか?」

「いや。うちの若いのに確認に行かせたら家は出たそうなんだ。多分また寄り道してんだろうが心配でなぁ」

 そう言うとまたそわそわと歩き出す笹浜の主を見て、新垣の軽業師は肩をすくめた。また、ということはその”先生”とやらは度々こんな風に主の気をもませているのだろう。まるで子供の無事を祈るような主の姿を滑稽に思う反面、そんなことを平気でする”先生”に嫌気が差した。

「おはようございます」

 その時、緩やかな響きを伴ったやわらかい挨拶が主の背後から渡される。ひょいと身体を曲げて体躯のよい主の向こう側を見ると、そこには光を反射するような美しい髪をした少女が立っていた。

 髪はくくらず背中に垂らされ、可愛らしく切りそろえた前髪の下では少し大きめな目が細まり、紅を差したわけでもないのに赤い唇には柔和な笑みが刻まれている。黒地に赤の衿という着物は地味だが印象的だった。

 しかし何より軽業師の目を奪ったのは彼女が手にしているものだった。

 やはり黒の柄巻きに青の目貫、鞘も漆黒の一振りの刀。それが彼女が手にしているもので、見た目のゆかしさにあまりにそぐわないもので軽業師は半ば呆然としてしまう。

 するとその前で、主が心底安心したように表情を緩めた。

「ああよかったお嬢さん。もう昼ですぜ。何してなさったんです?」

 主が責めるというより心配するような口調でそう尋ねると、少女は「え?」と頬に手を当て目をぱちくりさせると、周りを見回し、さらに目元を手で隠しながら空を見上げる。

「もうお昼なんですか? 朝五つ(午前8時)におうちを出たのに……ごめんなさい笹浜のおじさま」

 心底驚いた様子を見せると少女は眉を垂れさせしゅんとして主に謝る。そしてそんな彼女にこそ軽業師は驚いていた。笹浜亭の主は武技見世の中でも指折りの御仁だと記憶している。また、彼の一座の面々も彼に及ばずとも然りの腕前だ。

 にもかかわらず、剣術の教えをこのような少女に乞うというのか。

「ええと、確かおうちを出てからこちらへ向かっていて――――ああそうです。きれいなお花が咲いていたんですよ。それで、通りかかった猫ちゃんが随分ふっくらしていて、思わず追いかけてしまったんです。そしたらその先にたくさん猫ちゃんがいて――――」

 刀をたたんだ腕で押さえながら少女は両手を合わせて晴れやかな顔をし、主は「そうですかそうですか」と楽しそうに頷き話を聞いている。持ち上げているというより孫の話を聞く祖父の顔に近い気がした。

 何でこんな女なんだろうか。軽業師は独特の時間の中で生きているような少女を主の後ろからジロジロ眺めて悪意ではなく純粋な疑問で首を傾げる。

 すると、少女は軽業師に気が付いたのか視線が合うとにこりと微笑んだ。軽業師が反射的にへらへらと頬を緩めた、その時だ。少女の後方から女の悲鳴が上がった。

「ひったくりよ! 誰か捕まえて」

「そこのほっかむりした野郎だ!」

「待ちやがれっ」

「そっち行ったよ! 誰かぁ!!」

 町行く面々の騒ぎに一同が振り返ると、汚れた手ぬぐいを頭に被りつぎはぎだらけの服を着た男が両腕に風呂敷包みを抱えて疾走している。顔はよく見えないが、軽業師よりも年上で主よりも年下と言ったところだろうか。

「げっ、こっち来る」

 主の脇から再び身体を曲げて覗き込んだ軽業師は一直線にこちらに向かってくる男に心底嫌そうな顔をする。こんな面倒が一番嫌いだ。軽業師は男の処理を主に任せようとこそこそと後ろに下がった。

 が、こういう時は岡っ引きよりも行動が早いと評判の主は動こうともしない。

「笹浜の旦那? 来てますぜ?」

 ちょいちょいと指で主の腕をつつくが、主は「まあまあ」と軽業師を落ち着かせるような動作をしてくる。一体どうしたことかと思考をまとめられずにいると、少女が「あら」時の抜けた声を出した。

「ひったくりさんはよくないですねぇ」

「え、あ、おい。あんた何する気だよ!?」

 のんきなことを口にしたかと思うと少女は軽い足取りで迫ってくる男に向かっていく。軽業師は思わず止めようとして足を踏み出したが、逆に主に止められてしまった。

「ま、見てろって」

 にっと歯を見せて年の割りに若い笑みを閃かせた主に少し戸惑いながらも、軽業師は少女に視線を戻した。ちょうど男が間近に来たところだ。

「どけガキィィ!」

 獣のような威嚇をすると、男は少女に向けて固く握ったこぶしを振り上げる。しかし、少女は焦る様子もなく刀の柄に手をかけた。

「盗みはよくありませんよ」

 言下、風が鳴る。抜き放たれ衆目に晒された刀身は眩い銀の輝きを放ち、下弦の月を描いたかと思うと再び漆黒の鞘の中にその姿を消した。同時に少女が男の正面から1歩分脇にそれると、見計らったように男が大きく前のめりに倒れる。というより、派手に転んだ。一体何がと見てみれば、足を包んでいたわらじの紐がきれいに切られていた。

「ま、まさかあのお嬢が……!?」

 あの一瞬で、これほど的確に、わらじの紐だけを狙い切ったというのか。取り押さえられた男が縛り上げられその場から引きずられていくが、血の一滴もこぼれていない。そこ以外切られていないのは(まが)うことのない事実だ。

 軽業師はいつの間にか主の陰から出て目の前の現実に見入っていた。すると、隣に立っている主に肩を叩かれる。

「な? 大丈夫だろ」

 自信満々に、まるで自身の行いのように誇らしげな主に軽業師はまだ信じられない思いのままに頷いた。それに気をよくしたのか主は聞いてもいない……否、呆然としていて訊けずにいたことを教えてくれる。

「あのお嬢さんは俺が剣を習った剣術道場のお孫さんでな。子供の頃からその才覚は兄弟の中でもずば抜けてたもんだから、師範は『巴御前の生まれ変わりだ』と酒が入るたびに自慢してたよ」

 笹浜の主が剣を習った道場は実力を伴う者が多いため幕府の覚えもめでたい。隣同士で宴会をやると、酒が入るたびに主がそんな自慢をしているので、それは軽業師にもすでに馴染んだ話だ。

「そんな所のお嬢さんねぇ」

 人は見かけによらない。そんなことこの両国にいればいくらだって味わえるのに、見た目(と内面)と技量の差が激しい少女を前に、軽業師は久々にそんなことを本気で思うのだった。

「あ、わんちゃん」

「ちょちょちょ、お嬢さん! うちの指南終わってからにしてくだせぇ!!」

 ふらふらと歩き出す少女を慌てて引き止める主を見て、軽業師は笑いをこぼす。

 ああ、変な娘。