「お大事になさってくださーい」
愛嬌のある笑顔で受付に座る女性が見送って来る。同じく笑顔を返し、首の後ろで揺れる黒髪とシンプルな眼帯で左目を隠した男性――篠月 若太(しのづき わかた)は眼科病院から出ていった。2月中旬の空気はまだまだ冷たく、若太はマフラーに顔を埋めながらお釣りをサイフにしまおうと手を傾ける。その時、突然腰に衝撃を受けた。
「おわっ!?」
「あ、ごめんねー」
物凄い勢いで突撃してきたのは4〜5歳ほどの男児。やんちゃな坊やは笑顔で謝ると先と同じ速さで走り去ってしまう。
「こらマー君! ごめんなさい、うちの子が……っ!」
後から慌しく駆けてきたまだ若い母親が申し訳なさそうに頭を下げてきた。衝突の衝撃で手から零れた小銭を拾い集めようとしゃがんでいる若太を手伝おうと彼女もしゃがみかけるが、若太は笑顔でそれを制する。
「大丈夫ですよ、小さい子のすることですから。それよりほら、行っちゃう」
子供の姿がさらに小さくなっていることを改めて認識した母親は短い悲鳴を上げた。よほど手を焼いているらしい。またあの子は、と嘆く声が聞こえてくる。もう一度若太と向き合った母親は「本当にごめんなさい」と謝罪を繰り返してから再び駆け出した。母親は大変だなぁとしみじみしながら、若太は周囲にばらまかれた小銭を一枚ずつ拾い始める。
「えーっと、お釣り435円だったから後100円1枚……」
手の中に335円分の小銭が戻ったことを確認し、若太はきょろきょろと周囲を見回した。左目が完全に失明してしまっているため、物を探す時は普通よりも視線を動かす範囲が増えてしまう。
「はい」
すっ、と死角側から手が差し出された。手の平に乗っているのは100円玉だ。
「あ。ありがとうございます――って、あれ。千紘ちゃんじゃん。ひっさしぶりー」
差し出し主に向き直り礼を口にした若太は、その途端に驚いたように笑った。そこにいたのは明るい茶髪のウルフカットの青年。若太の友人である七原 千紘(ななはら ちひろ)だ。千紘は明るく笑う。
「うん、久しぶり〜。今日は定期検査?」
100円を受け取りお互いに立ち上がると、千紘は若太の後ろにある眼科に目をやりながら尋ねてきた。若太は「そ。問題なしよ」と笑い返す。若太と千紘が初めて会ったのは視線の先の眼科の待合室だった。当時ものもらいが出来てしまった千紘と、健全な右目の検査に来ていた若太は何気なく会話をし、気が付けばそのまま友人になっていたのだ。お互いに物腰が柔らかく穏やかな性分であったため波長が合ったらしい。時折会っては緩く会話を楽しんでいる。今日は今年2、3度目の顔合わせだった。
「千紘ちゃんは? お買い物?」
病院の前では邪魔になる、と、目的地もなく2人は歩き出す。その途中で、若太は千紘の手に提げられている大きめのエコバックから推測し尋ねた。千尋は頷きバックの口を開いて中を若太に見せる。入っているのは大量の画用紙や折り紙、厚紙などだ。
「そろそろひな祭りでしょー? だから、自分たちでお雛様作ろうってことになっててさ。その材料の買出し。別の先生たちがダンボール貰いに行ったりもしてるんだー」
「おー、そういや後2週間もないんだもんねぇ。保育士さんは子供が喜びそうなイベントの時大変だー」
楽しいけどね、と千紘は言葉通り楽しそうに微笑む。千紘は保育士の職についており、彼の職場ではイベントに力を入れているそうだ。外から見ると大変だ、という感想が先に来てしまうが、子供好きの彼には苦ではないらしい。
「クリスマスにー、お正月でしょ? 2月のイベントは――……節分泣いた子は?」
笑いを堪えるように若太が尋ねると、千紘はさっと目をそらした。
「……今回は、大丈夫だった子もいたよ」
「あ、でも泣いたんだ。ドンマイドンマイ」
声に出して笑いながら若太は千紘の背中を叩く。今年はじめて会った時に聞いた話だが、どうやら千紘は職場でのクリスマス会でサンタ役をやったらしい。その際、物心つきはじめた2歳児以降は素直に(千紘と気付く者も多々いながらも)サンタを受け入れプレゼントを受け取った。しかし、他人に敏感な乳幼児たちはすっかり怯えてしまって大号泣されてしまったそうだ。
「うぅ、今回は可愛い感じの鬼のお面を斜めに被っただけだったのに……子供たちに怖い人だって覚えられちゃったらどうしよう」
指をつき合わせて落ち込む姿に半ば本気で落ち込んでいると気付き、若太は慰めるように笑いかける。
「ごめんごめん、俺が悪かった。大丈夫だよ、千紘ちゃんが優しいのなんてみんな分かってるから、もっと大きくなったら鬼の面被ってても『遊んでー』って寄って来るようになるって」
予想を口にしただけなのだが、どうやら実際に年少以降の大きい子供たちはそのような対応だったらしい。思い出したように顔が明るくなる。
「そっかな? そうだといいなぁ」
その時のことを思い浮かべて千紘はほんわかとした笑みを浮かべた。若太は内心で安堵の息を吐く。
「あと2月だとあれかな、バレンタイン?」
つい先日過ぎていった乙女たちの聖戦の日。今では早くも男たちに「さぁ悩め」と言わんばかりのホワイトデーディスプレイが店という店を彩っていた。
「あ、うん。先生たちでみんなの分を買って用意したんだー」
「千紘せんせーは誰かにもらえたー?」
からかうように背の高い千紘を見上げ尋ねると、千紘はあっさりと肯定してみせる。
「うん。子供たちでしょー、お母さんたちでしょー、同僚の先生たちでしょー。すっごく大量だったよー」
ほくほく顔で幸せに浸っている千紘。甘いもの好きな彼には天国のような日らしい。もっとも、幸せなのはそれだけ貰えるほど周りの人々に慕われているがゆえだが。
「若太君は?」
「俺? 一応もらったよー。店の客のマダムたちと近所のおじょーちゃんたちと母親」
千紘以上に触れ幅が大きい上に丁度いい年頃から貰っていないという事実に、若太は目を逸らしながら笑う。学生時代が懐かしい。あの頃は義理ばかりとはいえ同年代からたくさん貰えていたのに。
「おー、若太君も大量だねー」
しかしそんなことに気付かない千紘は素直に感心した。その素直さに若太はこっそり目頭を押さえる。
「あれ、でも若太君甘いの苦手じゃなかったっけ?」
「あー、くれる人は大体知ってるから煎餅とかビターとかそっち系だったから。特にマダムたちはうちの店のじーさんに持ってきてるついでだからさ」
若太が勤めているのは近所の個人商店・柊屋。そこの元気な会長こそが、じーさんこと柊 敏清(ひいらぎ としきよ)だ。何事もきびきびしている年甲斐なく若い老人は老若問わず人を惹きつける。常連兼本人や会長夫人の茶飲み友達である中年以降の女性陣は訪れるとほとんど全員がバレンタインの贈り物をしてきた。若太はそのついでに貰ったに過ぎない。
ああ、あのおじいちゃん。以前顔を合わせたことのある千紘はパワフルな老人を思い出して納得した様子を見せる。
「ところで千紘ちゃんこれから暇? お茶飲んでかない?」
「お、いいね〜。付き合うよー」
どこに行こうか、と案を出し合っていると、不意に若太の携帯が鳴る。取り出したスマホのディスプレイには友人の名前が表示されていた。相手の声の大きさを予想し、若太は通話状態にすると耳から放して「もしもし」と応答する。
『おーっす若ー! 暇か? 暇だなー?』
予想通りの大声にスピーカーにしているわけでもないのに耳を放していてもよく聞こえた。それはどうやら千紘も同じようで、「流生君?」と電話の相手を訪ねてくる。若太は苦笑して頷いた。
電話の相手は蒼薙 流生(あおなぎ るお)という若太たちの同年代の友人だ。ゲーム好きで明るい性格をしている青年で、何かあるとよく若太に電話をかけてくる。用事は大体においてホラーゲームに付き合え、というものだが。怖がりなのに怖いものをやりたがるのだから困ったものだ。
「はろー流生ちゃん。一応暇だけど今ち――」
『あれ、今の声千紘? 一緒なん? おっす千紘ー!』
「話早くて助かるけど俺の話も聞こうね!?」
「やっほー流生くーん」
若太のツッコミ虚しく成立してしまうマイペース同士の会話。
『じゃあ丁度いいや。お前らちょっと俺んち来いよ』
「俺らもどこ行こうかって話してたから別にいいけど、どしたの? またホラゲー?」
ありえる一番の可能性を口にするが、電話口の流生は否定を唱える。
『ちげー。俺の従妹と幼馴染がさー、こないだのバレンタインの時に失敗してもいいように、って大量にチョコの材料買っててさ。全部使ったと思ったらまだ残ってたのに昨日気付いたんだと。んで、今日俺ん所持ってきたんだけど大量だし苦ぇーのあるしでさー。つーことで処理しに来て』
どうやら本人たちも同じ場所にいるらしい。電話の奥から「流生兄うるさい!」と怒鳴る声と「流生君そんなことまで話さないでください!」と慌てた声が聞こえてくる。ははは、と笑いをこぼしてから、若太は千紘に目を向けた。
「んじゃ行こっか」
疑問系にはせずに誘いかける。もはや千紘の目は目的地にある大量のチョコに対する期待しか浮かんでいない。
「おー!」
『待ってるぞー』
千紘は片腕を振り上げてハイテンションで返事をし、電話口からは誘いが成功したことにご満悦の流生の声が聞こえた。何もないはず休日が一気に慌しくなり、若太はまた笑いをこぼして歩き出す。