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   「風月記」 サンプル    

 その昔、()(げつ)の大地に六百年続いた国があった。

 名を『(こう)』。『(ぎょう)』姓の王族の元、一時期の断絶を除き長く華月の一等国であった。

 先王朝『(さい)』国が亡国の王・()(しょう)(ほう)の頃世は乱れ、仁は廃れ、節は消え、礼は忘れ去られた。

 そしてその頃、後に煌国建国の立役者となる者達が、志を同じとし一つの旗印の下に集まり始めていた。

 そして(のち)に、「百辟(ひゃくへき)戦国(せんごく)時代(じだい)」と銘打たれる長き闘争のその始まりを、煌の建国史はこう語り出す。

 

『はじめに、風月の交わりあり』

 






 

 

 見上げた空が静かに泣いていた。

強過ぎる光を放つ(せい)(げつ)に頬を伝ったのは、上がったはずの雨の雫。

 生まれてからはじめて、自分が起こした雨だった。

 






其の一「清き風明き月と邂逅する」

 

 街の喧騒は耳慣れたものだった。

商品を売り捌く粋の良い声。通りを行き交う人々の足音、話し声。時に談笑が響き、時に言い合いが盛んに起こり。そこは確かに人が生きる『場』であった。

それでもその中で男の心を一番安らがせるのは、いつでも所構わず響く剣戟の音だった。そしてその音が聞こえて来た時こそ、男が生きている証明が立てられる瞬間でもある。

 男の名は清風(せいふう)。ここ(さい)の都秋城(しゅうじょう)に住みつき人斬り稼業を勤しんでいる。

清風にとって剣とは生きるための道具であり己の存在の証であった。それを示すために、もう幾人……否、幾十幾百の命のその手で斬り捨てて来たかなど覚えていない。

 この霽は華月の大地にある唯一の国であり、華月初の統一国の流れを汲む由緒ある国。しかし、近頃は治安の悪さが目立ちはじめている。国主が民を顧みない人物であるからだ。

 そして暗愚な王による現状は、清風に生き易さと、蟠りを与えている。

「清風、起きているか?」

 河原橋の下に立てられた掘っ立て小屋の、その戸口代わりとなっている襤褸(ぼろ)の向こうから潰れた男の声がした。清風は身体の向きを変えず刀に手を当てる。

「――――何だ」

 名の如き澄んだ声を返すと、男は余計なことは一切言わずに仕事だと告げて襤褸の下から金と汚れた紙を差し入れてきた。そしてそのまま、受けるか否かの確認をすることもなく立ち去る。清風は起き上がりながら自分への対応に慣れた仲介屋に鼻を鳴らし、三枚重なって麻紐に括られている銀子を胸にしまった。

 毎度大金を渡してくるあの男。秋城内のとある名うての商家の家人のようだが、依頼人に一切の興味を抱かない清風にとってはやはりどうでもいいことだった。

 とにかく金さえ入ればそれで良い。

 清風は置きっぱなしにしていたもう一束の銀子を見た。紙と括られていた三枚の銀子はこれからやる仕事の前金。こちらは、数日前に終わらせた仕事の成功報酬。あの商家が最も嫌う輩(・・・・・)の一人を片付けたのだ。―――幼い子供もいたというのに、その道(・・・)を選ぶなど本当に愚かだ。清風は軽く首を振ってそちらの銀子を膝の側まで引き寄せ、もう一方に括られた汚れた紙を取り上げるとざっと目を通す。

いつもと変わらない、殺害対象の名前だけが書かれている依頼書にそれ以上の興味は寄せず、清風はそれを鉢の中に捨てた。

「――――下調べに行くか……」

 言下に立ち上がり、襤褸を払って外に踏み出す。斬る対象のことなどどうでもいいが、何も考えずに向かって行くほど清風は馬鹿ではない。仕事の前には必ず一調べいれるのが普通だ。そして最高の時と判断した時に、見事な赤い花を咲かせる。それが、霽に名高き兇手(きょうしゅ)・清風の仕事の仕方だ。

 暗闇の中、降りしきるのは鉄の匂いを(まと)った紅雨。清き風と名を持つ青年は独りそこを歩く。

 近く秋を迎えようとする晩夏の風は、沈黙の中に彼を見守っていた。

 




備考


2009年1月15日 発行