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   「千篇万花」書き下ろし「天狗の社」 サンプル    

 自身の前に跪き頭を垂れた存在が何≠ネのか、まだ六歳の幼い少女である春陽(はるひ)にはすぐには理解出来なかった。

 確か、春陽は家の裏庭で一人遊んでいたはずだ。そこに突然強風が吹き荒れ、かと思うと体が浮かび上がった。そして、気がつくとどことも知れぬ山の中に春陽は立っていた。ここはどこなのだろう、と不安に思った所で現れたのは、今目の前で春陽に跪く存在。

 綺麗だが時代の古い服を纏った彼(恐らく)は春陽よりもずっと大きな、父と同じくらい大きな体だった。だが、彼が人でないことを春陽はすぐに理解する。何せ、体は人で、けれど顔は烏のもの。いくら春陽が幼くとも、この形状を「人間だ」とは流石に呼べない。

 彼は頭を垂れたまま、まだ若い声で懇願する。

「春陽殿、私は(すい)(らん)。この山の主となった烏天狗でございます。突然の非礼、どうぞお許しいただきたい。ですが、あなたにどうしても頼みたいことがあるのです」

 真剣な声が下から押し上げられてくる。含まれる難しい言葉の意味は分からなかったが、春陽は彼――翠嵐――が本気で願っている何かがあることを理解し彼の前に両膝をついた。

「翠嵐……お兄さん? お願いって何? 私に出来ることかな……? あの、これ以上下にならないで。お顔見えないの」

 春陽が地面に膝をついたと見るや慌てて翠嵐は土下座の姿勢になろうとする。それを春陽は止め、肩を押して体を起こさせた。翠嵐は少しそわそわしているが、これ以上待たせては申し訳ないと判断して姿勢正しく正座する。

「申し訳ございません。あ、春陽殿、私のことはどうぞ翠嵐と。――はい、あなたにしか出来ません。まずご説明いたしますと、私は二百年前に生まれたばかりの若輩者でございます。大天狗様の跡を継ぐために生まれたと言われておりまして、先ごろその大役仰せつかった次第でございます。ですが、恥ずかしながらこの山全域をお守りするには私の妖力では足りません。そこで杜の賢者と呼ばれる我が一族の大婆様にお知恵を拝借しました。大婆様に曰く、この山における人側の守人の一族に大変な霊力を持って生まれた方がいると。その方――つまりあなたに……あの、春陽殿、大丈夫でしょうか?」

 勢い込んで喋っていた翠嵐は眉を寄せる春陽に気がつき言葉を止める。表情に眠気は見えないが、必死に理解しようとしているのがよく分かるほど難しい顔をしていた。

「…………ごめんなさい…………」

 理解しきれずに春陽は目を潤ませ心底申し訳なさそうに頭を下げる。翠嵐は慌てた様子で身振り手振りしながら彼女を慰めた。

「と、とんでもない! 私こそ申し訳ございません春陽殿。少々小難しく話しすぎました。私の悪い癖でございます。ええと、簡単に申し上げますと、あなたのその膨大な霊力を、山を守るために使う宝珠に注いではくださいませんか? その代わりに私はあなたのために何でもいたします」

 翠嵐はさらに噛み砕いて説明する。曰く、春陽は一族の中でも最も強い霊力を持っており、それが年々増加しているのだ、と。人間の身で強すぎる霊力があっても危険なだけなので、過剰な分を、山を守護する要の宝珠に注いで欲しいらしい。なお、この宝珠というのは妖力に不安がある翠嵐が自身で別の山の神から貰ってきたものだという。

「これが宝珠です。まずこれにあなたの力をもらい、山に保管します。その後は、こちらの数珠を春陽殿に身に付けていただき安定した供給――ええと、力を与え続けます」

 差し出されたのは金の枠と台に収められた、成人男性の拳大の透明な水晶と、それの縮小版のような小粒の球体が連なった数珠だ。

「あなたの力は本当に大きい。これに注ぐぐらいでは問題ないほどに。(あやかし)の話など信じがたいでしょうが、どうかこの山のためにも力を貸してください」

 地面に両手と額をつけ、翠嵐は再び頭を下げる。ゆっくり行われた説明のおかげである程度理解出来た春陽はちらりと二人の間に置かれた水晶と数珠に目を向けた。それから、翠嵐の名を呼ぶ。翠嵐が「はっ」と鋭い返事と共に機敏に顔を上げると、春陽は彼女が唯一望むことを小さく伝えた。

「…………お、お手伝いするから、私と、その、お友達になってくれる……?」

 顔を真っ赤にしてもじもじしながら伝えると、翠嵐は一瞬ポカンとした。駄目だろうか、と春陽が肩を落とすと、翠嵐は再び慌てる。

「あっ、も、申し訳ございません春陽殿。嫌なわけではないのですが、まさか人の子である春陽殿に友人に、などと言っていただけるとは思わず……」

「……それじゃあ……?」

 期待をこめて見つめると、翠嵐は少し照れたように嘴を指先で掻いて笑った。

「私などでよければ、どうぞ春陽殿のご友人の一端にお加えください」

 了承が得られ、春陽は心底嬉しそうな笑みを浮かべるとさっと小指を立てて右手を出す。翠嵐は一瞬それが何なのか分からず首を傾げるが、春陽が「指きりだよ」と教えてやると、すぐに応じた。

 その瞬間、二人の間に光が弾ける。

「きゃっ」

「なっ、何事!?」

「何事じゃないわい馬鹿者」

 光に惑いつつも翠嵐は春陽を背に庇い、懐から取り出し手の中で回して伸ばした錫杖を構え戦闘態勢に入った。その彼に向けて、上方から呆れた声が落ちてくる。翠嵐が反射のように上向くと、春陽もつられてそちらに顔を向けた。視線の先にあるのは木の枝。そこに膝を曲げしゃがむように座っていたのは、翠嵐よりもずっとがっしりした体躯の何か≠セ。

「……天狗様?」

 しかし翠嵐の背に隠れている春陽はその正体にすぐに気がつく。翠嵐は春陽が絵本などで見てきた姿と違かったので分かりづらかったが、彼は赤い顔、長い鼻、白い髪と髭、山伏の衣装、黒と白の羽、一本下駄、手には葉団扇という完全に絵本に出てくる天狗の様相だ。

「うむ、桐生の末娘だな。ワシはそやつの前の山の主だった大天狗の()(うん)(まる)だ。就敬(なりたか)は元気かえ?」

 就敬は春陽の祖父の名前だ。春陽は言葉なくこくこくと何度も頷く。そうか、と飛雲丸はしっかり揃った歯を覗かせた。

「ひ、飛雲丸様。今のは一体――?」

 事態が把握出来ない翠嵐が混乱を隠せない様子で尋ねると、飛雲丸は呆れた表情を隠さない。

「全く、抜けておる抜けておるとは思っていたがここまでとは……。主と桐生の娘の間で契約が成立してしまったのだ。主が『何でもする』と誓い、娘が要求し、主が応えた。霊力や妖力が上の相手と喋る時は気をつけいと申したであろうに。主は言霊を甘く見すぎだ」

 指摘され、翠嵐ははっとした様子を見せる。自分は何か悪いことをしてしまったのだろうか、と春陽は不安になって彼を見上げた。それに気付き、翠嵐は彼女を元気付けるように笑ってみせる。

「大丈夫ですよ春陽殿。確かに契約は成ってしまいましたが、叶えきればすぐに解除が――」

「出来るが、出来んぞ」

 さらりと飛雲丸が否定を口にすると、春陽と翠嵐の視線が同時に彼に向かった。

「馬鹿者。主は今娘に何と乞われた? 友人になれと言われたのだろう? それは財を与えてやるのと訳が違う。娘が契約を破棄せねば主はずっとそのままだ」

 やれやれ、と飛雲丸は葉団扇で顔の半分を隠す。

「す、翠嵐、ごめんなさい……」

 やはり自分のせいでおかしな話になっているのだと理解し、春陽は涙ぐんで翠嵐の服を引っ張った。

「と、とんでもありません春陽殿! 私は春陽殿と友人になれて大変光栄です。春陽殿が私を嫌うまで、私はあなたの友人ですとも! ……あ」

 慰めると同時に契約の強化をしてしまったことには、さすがに翠嵐でもすぐに気がつく。飛雲丸は今度は顔を全部団扇で隠し嘆息した。

「ああもうよい。とりあえず力を注いで貰え」

「はっ、はい。春陽殿、よろしいでしょうか?」

 再度確認され、春陽は小さく頷く。安堵した翠嵐が水晶を春陽に差し出し、春陽がそれに小さな手を乗せると、その途端に手から強い強い光が溢れた。それは徐々に水晶の中に吸い込まれていき、全ての光が飲まれると、水晶の中ではまるで海が閉じ込められたように光が揺蕩(たゆた)うている。

「よろしい。では娘――春陽よ、その数珠は今後なるべく外さぬようにな。山に主が不在となるゆえ、一層この宝珠が重要になる」

「そう、重要なので――え、主が不在?」

 春陽に笑顔を向け、願い直そうとした翠嵐は聞き間違いだろうかと思いつつ飛雲丸を見上げた。しかし、飛雲丸はついに駄目な子供を見るような目を返してくる。

「契約した、と言うたであろう。主人と離れる従者がおるか? ちょうどよい、ちいと下界を勉強してこい。その間におばばに契約放棄の手段を調べてもらっておく。主の代行はワシがやっとくから心配するな。ああ、主は下界では雛烏にでもなって徐々に大きくなっていけ。それならずっと一緒でも怪しまれまい。あと下界では人の言葉を使わぬようにの。ええと、あとは何があっただろうか……おおそうだ。桐生の家は社でつながれておるからやり取りはそこで行える。安心せい」

 あれやこれやと注意を重ねながら、飛雲丸は葉団扇を振りかぶった。制止を叫んだ翠嵐の声も虚しく、それは思い切り振りぬかれ、台風のような大風を巻き起こす。

 最後に飛雲丸の耳に届いたのは、彼を呼ぶ翠嵐の叫びと、翠嵐に守るように抱きかかえられた春陽の「お邪魔しました」という斜め上の別れの挨拶だった。

 それから家に戻された春陽は実に五日間行方不明になっていたらしく、烏を連れて戻ってきたこともあり、地元では「天狗様の神隠しだ」とまことしやかに囁かれるようになる。



備考


2013年10月20日 発行