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 うだるような暑さの中、自然と眠りから覚めた西本(にしもと) 青(せい)雲(うん)は開けたはずの視界の暗さに疑問を抱く。まだ覚醒しきらない頭は反射のように手を自身の顔に差し向けた。そうすると指先に当たったのは冷えたタオルの感触。ゆっくりそれを持ち上げてから、青雲は見慣れた自宅の屋根をぼやけた視界に写す。昔ながらの日本家屋は開け放たれた窓から差し込む強い日差しで濃い陰影を作っているようだった。首を巡らせて視線を動かすと、すぐ横には青雲の頭から足を冷やすように扇風機が首を振っている。その近くには青雲の眼鏡が転がっていた。青雲はそれを取り無造作にかける。
 そこでようやく覚醒してきた頭ははてと疑問を抱いた。記憶を辿るに、青雲は午前中お盆に備えて墓の掃除をしてきている。その後家に戻ってきて、ここに倒れこんだ。そこから先の記憶がない。ということは、間違いなく青雲はそこで寝落ちたはずである。なのに何故、このような暑さ対策がされているのであろう。
「起きましたか?」
 扇風機と逆側から声がかけられる。一人暮らしのこの家には青雲以外人はいない。だが、その声に覚えのある青雲は特に驚くことなく視線の向きを逆にした。
「どーも柴引(しばひき)さん」
 そこに立っていた青年は、青雲が教師として勤める影(かげ)咲(さき)学園の警備員をしている柴引 伶(れ)央(お)だ。夏休みに入って比較的家にいることが増えた青雲と違って彼は警備の仕事が交替で入っているそうだが、私服ということは本日は休日らしい。
「お邪魔してます。お茶貰いましたよ」
 寝転がる青雲の横に胡坐をかいて座ると、伶央は持っていたお盆を隣に置く。乗っているのは麦茶の容器とコップが二つだ。一応青雲の分も持ってきてくれていたらしい。
「勝手知ったる人の家〜ってか」
「あなたが来るたびこき使うからさすがに覚えました」
 きっぱり言われ、青雲は違いないと軽く笑った。伶央も一人暮らしであるため、時々思い立つとこの家で夕飯を共にする。その際の調理は青雲の仕事だが、あるものは使えと言わんばかりに青雲はちょくちょく伶央に頼みごとをしていた。覚えのいい彼は、よく使う物の置き場などすでに聞かずとも分かることだろう。
「そいやこれありがとな」
 タオルと扇風機をそれぞれ手で示して礼を述べると、青雲用に注いだ茶を盆に置いた伶央は肩を竦める。
「どういたしまして。……驚きましたよ。呼び鈴鳴らしても返事はないのに鍵は開いていて、中に入ったらこの状況でしたから。熱中症で倒れでもしたのかと思いました。それに――」
 不意に伶央の言葉が止まる。身を起こしコップを傾けていた青雲が横目に何事かを問うが、伶央は「何でもない」と首を振った。自身の分の茶を注ぎ終わると、まるで出かかった言葉を飲み下すかのように喉にそれを落としていく。これは完全に言わない流れだな。そう判断し、青雲は再び喉を潤した。
「あれ、ところで柴引さん何の用だった?」
 思い出したように伶央に視線を向けると、呆れたような視線を向けられる。
「昨日、先日借りた本を返しに伺いますとメールしたと思いましたが」
 覚えてないのか、と目で問われ、青雲は思考を巡らせることなくそのことを思い出した。昼過ぎに返しに来ると確かにメールを貰っている。だから墓掃除を午前中に済ませて早々に帰ってきたのだった。壁の時計に目をやると、すでに針は十三時を半分近く過ぎている。「おー」と間の抜けた声を上げる青雲の横で、伶央はため息混じりに「本は居間に置いてあります」と告げた。
「すまんすまん。どうだった?」
「面白かったです。西本先生は普通の小説も読むんですね」
 青雲が伶央に貸したのは歴史物の小説で、比較的硬い文体で書かれているものだ。青雲の趣味がオタク物に偏っていると思っていた伶央には意外だったらしい。しかし、その感想に青雲は伶央の肩をぽんと叩く。
「俺が一部の本しか読まないなら図書館の面々にあんなに追い回されたりしない」
「納得しましたが堂々言うのはどうなんでしょう?」
 納得と正論が返され青雲はさっと目をそらした。
「本は一期一会と思うとつい手にとって借りて来ちゃうんだよな」
 借りたものは返すし借りる時のカードもちゃんと書く。ただし、借りたものを返すのは何冊か読みためた後で、借りる時も司書が誰もいない時や忙しい時にさらっとやっている。時々ちゃんと借りて返してもやるが、ほとんどがこんなことをしているため、ことあるごとに司書たちや図書委員たちに追い回される羽目になる。以前総動員で追い回された時はさすがに肝が冷えた。
 コップの中身を飲み干して、青雲は再び寝転がり額にタオルを乗せる。
「あー、さすがにもう冷えてねーか」
 酷暑のためタオルはすっかり温くなっていた。寝返りを打ってうつ伏せになると、青雲はすでに外面に水滴が浮いているコップにタオルを巻きつける。すると、その途端に隣に座っていたはずの伶央がタオルを持って席を外した。はて、とその後姿を見送ってから五分もしない内に彼は再び戻ってくる。
「どうぞ」
 差し出されたタオルは再度濡らされていた。手に取ると、思った以上に冷たい。恐らく最初に用意した時に氷水でも使って、それを残したままだったのだろう。
「あざーす。……てかマジ倒れてたわけじゃねーよ?」
「分かってます」
 それにしては随分気を遣われている気がするのだが。再び隣に座って麦茶を飲み始める伶央を青雲は怪訝そうに見やった。気付いているだろうに、伶央は視線を合わせようとしない。完全に踏み入れない状態になっていると判断し、青雲はそれ以上興味を寄せることをやめる。気を遣われているのであれば別に損があるわけではないと判断したのだ。そうなると、青雲の懸念事項は別件に移る。上半身を起こして体を伸ばすと、懸念事項の主たる腹が空腹を訴えてきた。
「腹減ったから飯にするわ。柴引さんも食ってく?」
「俺は食ってきたので」
 そういえば昼過ぎに約束だった。この男ならば食事をしてから来るだろう。納得を示して立ち上がろうとすると、突然玄関から騒がしい声が聞こえてきた。
「青雲兄ちゃん入るよ!」
「西本先生ー、恵(え)実里(みり)ちゃんが倒れたー!」
「た、倒れてないですよー。ちょっと暑くてふらっとしただけですー」
 慌しい声の主は沖島(おきしま) 陽(よう)介(すけ)、熊(くま)岸(ぎし) ユリカ、天(てん)願(がん) 恵実里の、影咲学園二年生トリオのようだ。本当に熱中症の患者が来たと青雲は慌てて立ち上がろうとするが、先んじて立ち上がった伶央にそれを制される。
「俺が行きます」
「は? いや別に」
 反論する言下、伶央は青雲の頭を鷲掴みにして畳に押し付けた。手がどくと同時に眼鏡が外され、代わりにタオルが被せられる。
「えー、俺いつの間に伶央っちルートのフラグ立てた?」
「フラグ? 旗が何ですか?」
 ゲームネタの一般人への伝わりづらさに嘆きつつ、青雲はタオルをどかしつつ玄関に向かおうとする伶央に声をかけた。
「つーかマジで何? らしくなさ過ぎんだろ」
 怒りでも戸惑いでもなく純粋な疑問だけをぶつけると、伶央は眉を寄せて振り向く。
「そんな顔で生徒の前に出たら心配させるだろ」
 そんな顔で今まで生きてきたんだぞ。と冗談で返そうとした青雲は、しかし心当たりに気付いてタオルに顔を埋めた。
「確認すんのすげー嫌なんだけど、俺モシカシテ泣イテマシタカネ?」
 返答はない。確認したくないとは言ったがまさか無言で答えを出されるとは。
「……恥っず……」
 タオルを顔に押し付けたまま青雲はごろりと横向きに転がる。涙を流す心当たりがないわけではない。午前中は丸々亡き母や祖母のことを考えて過ごしたのだから。その後に必ずと言っていいほどやって来るやるせなさのため、動く気力がなくて倒れこんだのだから。しかし、だからといってそれを易々とは受け入れられない。
「……何年引き摺ってんだって話だわ」
 ぼそりと呟く。含まれる嫌悪は自分自身に向けて。母が亡くなったのは小学三年生の時、祖母が亡くなったのは約二年前。いくら唯二の家族を亡くし一人きりとはいえ、どちらももう振り切っていい年数だ。にもかかわらず、青雲の心は未だに去ってしまったふたりを放さない。大の男が情けないことだ。自らをそう断じて、青雲はぎゅっと目をつぶる。
 するとその背中に軽い衝撃を覚えた。顔を上げると、もういないと思っていた伶央の見下ろす視線と目が合う。彼の足を若干下敷きにしていることで、蹴られたのだ、と遅れて気付いた。
「ご母堂方のことで落ち込むことは悪いことではないんじゃないですか? もちろん、毎日毎日四六時中どこにいても落ち込む様子を見せていたら正直いい加減にしろとは思うかもしれませんが、あなたは普段そんな様子を見せないじゃないですか」
 普段の西本 青雲は飄々とした男だ。変わり者、とあちらこちらで憚ることなく言われる彼には普段影など見えない。「悩みとかなさそうだよね」と言う者すらいる。
「たまに気を落とすぐらい、許してやったらいいでしょう」
 言い終わると、伶央は大股で玄関に向かった。青雲はタオルで目元を覆ったまま彼らのやり取りに耳を澄ます。
「天願さん、大丈夫ですか?」
「え? 柴引さん? あ、はい、大丈夫です」
「柴引さん、青雲兄――西本先生は?」
「寝ているようです。俺も今さっき来たんです」
「そうなんですか? 西本先生ってばまた夜更かししたのかな?」
「そうかもねー」
 なるほどそういう設定か。どうやら家に上がってきたようだから、青雲は伶央が使っていたコップを壁際に置かれた小さい机の上に置いた。机の上には色々と小物が置かれているので、コップくらいなら余裕で紛れる。余計なことかもしれないが、第二の我が家同然に入り浸っている陽介辺りは、気負いがない分こちらに様子見にやってくる可能性がある。その際せっかくの伶央の気遣いが無駄にならないようにするため、青雲とやり取りしていた形跡は隠しておく必要があった。
 不意に机の上の四角い手鏡に気付く。花柄があしらわれた古いそれは、母の遺品だ。青雲はそれを開いて間近に寄せた鏡の中を覗き込む。中に映った自身を見やり、伶央の言葉の正しさを理解した。眼鏡がなくても見えるように寄せた鏡の中に映るのは青雲の目元のみ。しかしそれで充分だ。目尻がまだ赤い。随分治まってはいるが、昔なじみと気の回る少女二人には気付かれる可能性が十分あった。
「ま、せっかくだからしばらく任せるか」
 再度同じ場所に寝転がり、時計を確認してから青雲は目元にタオルを置いて目をつぶる。そうすると、玄関方面から来訪者たちのやり取りがよく聞こえた。



 タオルをどかし、ポケットから取り出したスマホに目をやる。時刻は十四時近い。先ほど目をつぶったのが十三時五十分ほどだったので、大体十分ほど経過したようだ。四つん這いで小さい机に近付き再度手鏡を覗き込む。映る目尻は赤みが随分引いていた。
「これならいいか」
 眼鏡をかけ直して立ち上がると、青雲はひとまず洗面所へと向かう。ささっと洗った顔をタオルで拭いていると、不意に廊下を歩く音が聞こえてきた。目を向けると、誰かが歩いてきている。よく見えないが、シルエット的に陽介だろう。そう予想すると、同じくこちらに気付いた相手が声をかけてきた。
「あ、やっぱり起きてた。恵実里ちゃんが倒れ――そうだったからお邪魔したよ。ユリカちゃんも一緒。あと、柴引さんも来てるよ」
 予想通り陽介だ。青雲はいつも通りに彼に対応する。
「おー。何か声すんなと思ったらお前らか。天願どうした?」
「熱中症になりかけてたみたい。今は居間のエアコンつけさせてもらって休んでる。っていうか、人の気配感じてたんなら起きてきなよ危ない――」
 呆れた様子を見せた陽介が不意に言葉を止めた。おっとさっき同じことあったぞ。内心でそう思いながら青雲は眼鏡をかけ直してこともなげに「何だよ?」と問いかける。陽介は言葉を飲み込み首を振った。
「何でもない。もうこっち来る?」
「ああ、行く行く。あーでも俺腹減ってんだよな。飯作ってていい?」
「別にいいよ。こっちが勝手にお邪魔してるんだし。ずっと寝てたの?」
「午前中に墓掃除行って戻ってきてから記憶がない」
「そうなの?」
 何てことないやり取りを繰り返して居間に向かい、締め切っていた障子を開いて中に入る。途端にひんやりと涼しい空気が身を包んできた。心地よさを覚えると、座っていた恵実里とユリカが顔を上げて視線を向けてくる。
「西本先生おじゃましてます」
「おはようございます西本先生。おじゃましてまーす!」
「おうおはよう、そしてよく来たな勇者たち。ここを通りたくばこの俺を倒して」
「何でいきなり敵キャラ風なのさ」
 入り口で両手を広げ鶴のポーズをした所を陽介に押され、青雲はよろめきながら中に入る。後ろでは同じく入室した陽介が障子を閉めていた。
「お前寝起きの俺に何てことを」
「入り口でふざけたりするからですよ」
 恵実里たちと机を挟んだ逆側に座っていた伶央がため息混じりに声をかけてくる。視線を向けると、伶央は思い出したように「お邪魔してます」と告げてきた。
「千客万来だな。とりあえず俺は腹減ったので飯作ってくる。天願は後で車で送ってやるから待ってろ」
「えっ、いや、そこまでしてもらわなくても本当に大丈夫ですから」
 台所に行こうとする青雲に恵実里が慌てて引きとめる。それに肩越しに視線を向け、青雲はひらひらと手を振った。
「そのまま帰す方が俺には問題なの」
「先生私はー?」
 笑いながらユリカが元気よく手を上げる。
「元気な子はそのまま帰りなさい……って言うとまた周りの声がうるさいから送ってやろう。その代わり飯の準備手伝え」
「はーい」
 元気に返事をすると、ユリカは早速立ち上がり青雲の後ろについて行った。普段はガラス戸で仕切られているのだが、今は開け放たれているため台所もエアコンの恩恵に預かっている。
「何作るんですか?」
 流しの下から取り出した鍋を渡されたユリカは指示された通りに鍋に水を張り始めた。その間に冷蔵庫に向かった青雲は夏の風物詩・そうめんを答える。聞こえていたらしく、居間では陽介と恵実里が自宅でのそうめん事情を話し始めていた。
「先生そうめんどこー?」
「後ろの棚の前に置いてある一番上の箱。開いてる袋あるから全部入れて」
 野菜とチーズと油揚げを持って戻ってきた青雲は、取り出したそうめんを持ち上げて確認してくるユリカに頷く。正面に向き直ったユリカは手にした袋の口を留めていたピンを外した。しかしお湯が沸くまでにはまだ時間がかかる。火の側を離れるわけには行かないので、ユリカの視線は自然と隣で包丁を動かす青雲の手元に向かった。
 にんじん、アスパラガス、チーズが手際よく棒状に切られていく。全部切り終わると、青雲は包丁を置き、カウンターのキャビネットの小さい段を開けた。中から取り出したのは目が細かく薄い白布のようなもの。
「それ何ですか?」
 興味を引かれてユリカが尋ねる。青雲は袋状になっているそれににんじんを入れながら視線をユリカに向けた。
「さらし縫ったやつ。あれだ、漫画とかでキャラが胸とか腹に巻いてるやつ」
「えっ、何でそんなの使うんですか?」
「本当は煮崩れして欲しくないものを煮る時に使うんだけど、今は後で拾うの面倒だから、だな」
 話の内容が気になったのか居間にいた恵実里が後ろから覗き込んでくる。陽介は見に来ない。まあ、見慣れているのも当然だろう。このやり方を教えてくれたのは他でもない彼の母親だ。
「投入」
「「ええっ」」
 そうめんを茹でるために沸かしていた鍋ににんじんの入ったさらしが投下される。見ていたユリカと恵実里からは驚きの声が上がった。湯立ちはじめていた鍋のそこに白い布が沈み、布の中ではにんじんが踊っている。
「えー、先生これそうめん茹でるんじゃなかったのー?」
「茹でるよ? どうせ腹に入るし一緒に茹でたって問題ないって」
「確かに楽だけど……」
「俺はとりあえず早く飯食いたいんだって。熊岸、もうちょいしたらそうめん入れといて」
 第二弾のさらしを取り出し、今度は中にアスパラガスを入れた。終わったら油揚げを順に開いていく。その間にそうめんが投入されたので、ユリカが麺を回しているのを少し眺めてからアスパラガスも投下した。
 本当に大丈夫なのかと驚き半分面白半分ではしゃいでいるユリカと恵実里。そのふたりに一旦鍋を任せて、青雲はもう一度冷蔵庫に向かう。途中静かな居間に視線を向けるが、残された伶央と陽介も別に手持ち無沙汰な様子ではなかった。先ほど伶央が返しに来た本について話をしている。どちらにも貸したことのある本だったのが幸いしたようだ。
「あ、梨だ。いいなぁ、先生ひとつください」
「私もー」
「僕にも」
 梨を持って戻ってきた青雲を見てユリカと恵実里が目を輝かせる。居間からは陽介がすかさず声をかけてきた。青雲は思わず笑いをこぼす。
「俺一人で食うつもりなら四つも持ってこねぇって。食べてけ食べてけ。……っとその前に俺の飯」
 二段組の水切りラックの上の段に梨を置き、鍋で茹だっているにんじん入りのさらしとアスパラガス入りのさらしを引き出す。中からそれぞれの野菜を取り出したらチーズと合わせて油揚げの中に入れ巻き、それに爪楊枝を刺して口を閉じた。
 全てを入れ終わると、青雲は出来上がった油揚げ巻きを全てオーブントースターに放り込み焼き始める。
「先生それは?」
 オーブントースターを覗き込みながら恵実里が尋ねる横で、青雲は早速梨を剥きにかかっていた。
「野菜とチーズの油揚げ巻き。気になるなら検索してみ。簡単に見つかるから」
 各種料理のレシピは明子から貰っているが、せっかく広大なネットの海が目の前にあるのだ。活用するに越したことはない。
「あ、先生焼けましたよ」
「ひっくり返してもっかい三分くらい焼いといて」
「先生茹でるのもういい?」
「どれ――ああ、もういいわ。ざる準備。流しの下」

 指示されてそれぞれがさくさくと動き始める。流しにざるが用意されたのを見て、青雲は鍋を持ち上げそこに中身を空けた。透明とは言いがたい色になったお湯が全て流れきると、湯気を上げるそうめんだけがざるの中に残る。
「流水ぶしゃー」
「洗うなっしー」
 有名所の某ゆるキャラをもじって蛇口を捻ると、理解したユリカがさらに重ねてきた。そうそう、この合いの手が必要なのだ。青雲は心の中で伶央の遊びのなさに呆れる。脳内のみのことなので、本来呆れられるべきが彼自身だというツッコミは残念ながら入らない。
 それから数分後、そうめん、油揚げ巻き、梨の用意が全て終わり、青雲たちは居間に戻った。青雲が遅い昼食を、伶央たち来訪者が梨を食べながら談笑していると、場を割るように玄関チャイムが鳴る。直後、がらりと音を立てて玄関が開けられた音がした。近所の誰かかと腰を上げた青雲だが、次に聞こえてきた声に彼も含めた全員が顔をそちらに向ける。
「へー、凄ぇホントにマジもんの日本家屋だ」
「いいのかなぁ、休みの日にいきなり来て……」
「お前が案内してきたのに何を今更。まあ西本センセーなら大丈夫なんじゃねーの?」
 玄関口がにわかに賑やかになった。立ち上がった青雲はそちらに向かい、予想通りの来客たちを迎える。
「ベスティアに、蒼薙(あおなぎ)に、四季(しき)咲(ざき)か。別に大丈夫だけどまずはアポ取る習慣つけろよお前ら」
 訪れてきたのは影咲学園中等部三年の四人組。ベスティア、蒼薙 瑞樹(みずき)、四季咲 千(ち)秋(あき)だ。
 怒られなかったことに安堵する反面、まさか会話が聞こえていたとは思っていなかった瑞樹は引きつった笑みで、千秋は舌を出して視線をそらせた。ベスティアは「まあまあいいじゃん」と堂々としている。
「そんで? ごよーけんは?」
 俺昼飯食ってる途中だから手短にな。と付け足すと、瑞樹と千秋は揃ってベスティアを示す。
「西本センセーん家が日本家屋だって瑞樹が言ったら、そういやちゃんと日本家屋見たことねぇなって話になって、じゃあ見に行こうぜって」
「うん、行動派なのは感心だがまず家主の俺に確認を取ろうか」
 この豪胆さは今時の中学生特有なのか彼らだからなのかはたまた青雲が相手だからなのか。答えは出ないが青雲はため息と共に身を翻す。
「入っていいけど勝手に家の物には触んなよ。迷子にならないようにナビつけるか? YOナビ」
「別にいいけどまず確認する習慣つけてね西本先生」
 居間から顔を出したYOナビこと陽介・沖島が先ほど青雲が告げた言葉を少々変えて口にした。
「あれ、沖島先輩いたんですか」
「はいはーい、先生私たちも一緒にいいですかー?」
 瑞樹が声をかけた言下、陽介の後ろからさらにユリカと恵実里が顔を出す。さすがに彼女たちがいたことには驚いたようだ。
「何かいっぱいいる」
「これまだいるんじゃね?」
 お邪魔します、と中学生組が全員上がって居間に向かった。そこで最後の梨を食べ終わって皿を片付けようとしていた伶央を見つけ、「やっぱりいた」と楽しげな声を上げる。
「じゃあお前らは家の探索でもしてこい。ただし、さっきも言ったが家の物は勝手に触るなよ。約束出来る奴からYOナビについて出発」
「はーい」
 それぞれのテンションで返事がされると、学生たちは陽介の案内で西本邸を探索に出かけた。それを見送ってから、青雲は再び昼食を食べ始める。すっかり温く、また冷めてしまっていたが、別段残すほどまずくはないのでそのまま箸を進めた。少しして、台所から伶央が戻ってくる。どうやら梨に使った皿を洗ってくれていたらしい。
「すみません、何だか長居してしまって」
 年相応の常識人らしい謝罪が寄越されるが、青雲は立てた手を横に振った。
「別に用事なかったし、柴引さんに急ぎの用がなかったんならいいんじゃないすか? ……まあ、最初に長居の理由作ったの俺だし」
 思い出したくなくとも思い出さざるを得ない先ほどの出来事。青雲が青と赤の入り混じった複雑な顔色になり恥を噛み殺した笑みを浮かべると、伶央は「俺は特に用事なかったので」と返して首を振る。
 その後はぽつりぽつりと本の話をしたり学校の話をしたり今来ている生徒たちの話をした。途中梨も挟んだため腹に入りきらなかった最後の油揚げ巻き伶央に押し付け、青雲の食事は終了する。空になった皿を片付けて再度居間に戻ると、ちょうどユリカと瑞樹が入ってきた。
「あー涼しいー。やっぱり文明の利器は最高だね」
「そうっすねー」
 入った途端にエアコンの恩恵に賛辞を送るユリカと同意する瑞樹。他の面々はどうやらいないようだ。
「どうした?」
 問いかけると、思い出したようにユリカが手に持っていたスマホの画面を青雲に向ける。
「先生今日の夜お庭貸してもらえたりしませんか? みんなで花火やろうってことになったんですけど、公園とか河原行くより安全かなって」
「ちなみに来る面子はこの間の夜間学校のメンバーです」
 耳はユリカと瑞樹の言葉を拾い、目は向けられたスマホに表示されたLINEの文面をなぞった。送り主は瑞樹の姉である蒼薙 彼方(かなた)のようで、みんなで花火をやろうという誘いと、場所はどこがいいかの相談。指を動かし画面をスクロールさせると、ここに来ていない面々から「いいね」「やりたい」という回答が返り、ユリカがした「今西本先生の家にいるから庭使っていいか訊いてみる」という返信が驚愕のスタンプ乱舞につながっている。再び通知音が鳴ると、恵実里が他の面々を撮った写真を添付し、「あと瑞樹君もいるよ」とコメントを追加した。「びっくりした」とTLはまだ騒がしい。
「……熊岸、お前は俺の教師生命を終わらせる任務を負ったエージェントか」
「えっ、何で!?」
 天然恐るべし。本気で分かっていないユリカにそう思いながら、青雲は小さいため息を吐き出す。
「別にいいぞ。ただし俺に何かしら甘いものを献上すべし。あとそうなると俺見張りでいないといけないからそのつもりでな」
 条件をつけるが、ユリカは満面の笑みを浮かべて返事をすると、早速スマホに向き合いすっすっと指を動かし始めた。隣の瑞樹は「先に言ってもらえれば何か作ってきたのに……」と唐突な姉への不満を自身のスマホにぶつけている。
「柴引さんも花火してく?」
 状況を見守っていた伶央に声をかけた。「いえ俺までいては――」と遠慮を口にしかけたその時、不意に青雲のスマホが鳴る。この着信音は学校用だ。ポケットから取り出し画面を見ると、表示されているのは「CALL」の文字と影咲学園高等部の保険医・銘苅(めかる) 心(ここ)実(み)の名前。この時間の電話には覚えがある。予測しながら青雲は電話に出た。
「もしもし?」
『西本先生こんにちはー。突然なんだけど今日の夜飲みません? 今のところあっこちゃんと辻(つじ)さんとU(いく)人(と)は確定してるんですよ。これから柴引君も誘うつもりです』
 予想通りの内容に、青雲は連絡が終わったのかこちらを見ているユリカと瑞樹に目をやる。
「あー、すみません俺今日生徒たちの花火監督になったんで」
『あらそうなの? 残念ねー。花火って河川敷行くんですか? 一昨日雨降ったばかりだから気をつけてくださいね』
「すみません。また今度。で、場所は何故か俺の家になったみたいなんで特に危ないことは――」
『えっ、何だ西本先生の家なの? じゃあ私たちもそこで飲めばいいわね』
 はい? 青雲と聞こえていた伶央の声が揃った。
「心実ちゃん俺今急激なティナイタスに襲われたのでもう一回」
『耳鳴りは首こりが原因だったりするからゲームは程々にねー。だからー、私たちもそこで飲めばいいんじゃない? 大丈夫、子供たちにお酒飲ませたりしないから。それに西本先生の家なら西本先生とあっこちゃんの料理食べられるってことでしょう? お酒も飲めて美味しいご飯も食べられて花火も楽しめて子供たちとのふれあいも出来て、一石四鳥! あ、大丈夫よお酒と花火の追加は買ってくから。時間は六時でいいかしら?』
 はしゃいだ声の後ろでは「いいですねー」というわくわくした様子の女性の声。聞き違いでなければ影咲学園大学部二年の辻 早千(さち)恵(え)だ。どうやらあちらも一緒にいるらしい。青雲は視線を伶央に向ける。
【これもう無理っぽい】
【諦めましょう】
 アイコンタクトが交わされ、伶央が完全に諦めた様子で深く頷いた。
「……分かりました。柴引さんはちょうどいるんで大丈夫なんで、他の面々に連絡お願いします」
『分かった! ……え、柴引君いるの? 何で?』
「ちょうど本返しに来てたので」
『あらそう。ま、いいわ。おつまみとかお酒とか希望あります?』
「甘いの」
『女子か!』
 即答した青雲に電話向こうで心実のツッコミが飛ぶ。その後何度かやり取りして、電話が切られた。夕飯の買出しにいかなくては、と考えながらスマホから顔を上げると、そこには目を輝かせた瑞樹のみが立っている。
「あれ、熊岸は?」
「ここで飲み会があると分かった途端に大変嬉しそうに駆け出て行きましたよ」
 答えたのは財布の中身を確認している伶央だ。大抵ここで飲み会をする時は参加者たちが会費と称して材料費を置いていく。最初の頃は断っていたが、青雲が断っても気がつくと皿の下などに置かれているので今は素直に貰っている。先ほどの電話で心実が「あっこちゃん」と呼んでいた、陽介の母であり影咲学園食堂勤務であり青雲の料理の師匠である沖島 明子(あきこ)が作ってくれた物がある時はその分を渡すのだが、ここでも毎回攻防が起こるので終わった後も気が抜けない。
「で、お前は何でそんな輝いてんの?」
「料理俺も作る!」
 残っている瑞樹に理由を問えば勢い込んでその回答。料理好きな彼らしい。
「んじゃお前らの夕飯含めて買いに行くか。何食べたいか訊いとけ」
「はーい」
 答える言下に素早い動きでLINEの更新を始める瑞樹。手元を覗き込むと、すでにユリカがここで大人たちが飲み会をやることを伝えていた。賑やかなTLにさらに瑞樹が燃料を投下すると、次々にリクエストが飛んでくる。
「おお、若人の遠慮のなさよ」
 青雲が思わず口にすると、同じく覗き込んできた伶央は少し考えてから言葉を返した。
「信頼されていると考えたらいいんじゃないですか」
「舐められてるという可能性も大いに」
「ないですよー。俺ら先生大好きですって」
 冗談交じりの口調で卑屈を返すと、テンションが高いせいか瑞樹にしては珍しいことをさらりと口にしてくる。意外な返しに青雲は軽く目を見開いた。しかし。
「たとえ一日の大半PC室から出てこなくても言ってることがたまに十割分かんなくてもオタ会話始めると長すぎても図書の延滞常習犯でも時々奇行に走って何やってんだってなっても時々優先順位がおかしくても、いい先生ですから」
「それで舐めないお前らの懐の深さにびっくりだわ」
 拳をぐっと握って笑顔で付け足されたマイナス要素にせっかく抱いた感動が見事に霧散する。が、これで先の言葉の信憑性が上がる辺り青雲もひねくれた性格をしていた。
「ま、とりあえず買出し行くか。明子さんも連れてけば二度手間にならなくて済むかな」
「あ、俺も行く」
「俺も荷物持ちしますよ」
 瑞樹と伶央が手を上げたので、青雲はまだ家の奥にいる面々に声をかけ出かける旨を伝える。返事代わりに返ってきたのはアイスの要望。高いアイスも含まれているので箱入りアイスでも買ってきてお茶を濁すことを決めた。
 伶央と瑞樹を引き連れ玄関に向かう。荷物と人数を考えると車を出した方がいいだろう、と青雲は靴箱の上においている小さい金庫に開錠コードを入力し始めた。その間に伶央と瑞樹は靴を履く。するとそれとほぼ同時に玄関の引き戸が叩かれた。すりガラスの向こうに人影があるのを見て、近くにいた瑞樹が戸を開ける。
「あれ、明子さん」
 ちょうど呼びに行こうとしていた人物が現れたことに瑞樹は驚いた様子を見せた。鍵を取り出し金庫を閉め直した青雲は、ニコニコとしている明子の手にある買い物バッグを見て首を傾げる。
「そんな地獄耳でしたっけ?」
「四十年以上鍛えてるから色々聞こえちゃうわよ〜。……じゃなくて、陽介から青雲君たちが今から買い物行くみたいだよって言われたのよ。私も一緒に乗せていって貰っていいかしら?」
 陽介本人に言うと心底嫌な顔をされるだろうから言えないが、こういう時の行動の早さは親子だなと改めて感心した。手間が省けたことに心の中で感謝しつつ、青雲も靴を履く。
「ちょうど誘おうと思ってたんです。行きますか」
 青雲の運転で、一同は少し距離のある業務用大型スーパーに向かった。会員制のため会員になるか会員と一緒じゃないと入れない場所なので、主に瑞樹のテンションが跳ね上がる。その彼から何とか生徒たちの希望を聞きだし、一同は必要な食材の買い出しに向かった。入り口に分厚いジャケットが置かれるほど寒い肉置き場を回っている途中青雲に陽介からゲームをやっていいかの問い合わせが入ったので、時間稼ぎも含めて許可を出しておく。
 約四十分ほどの買い出しが終わり、一同は帰途に着いた。明子と彼女の調理に必要な材料だけは沖島邸に置き、残りは全部青雲の家に運び込む。
「おーい、誰か運ぶの手伝えー」
 賑やかな次の間に向けて声をかけると、手が空いていたらしい恵実里と千秋がやって来た。
「随分買ったな」
「明子さんが持って行った分もあるからこれでも少なくなってる方だぞ」
 少々呆れ気味の千秋に対し、瑞樹は未だに目を輝かせている。直前まで興味なさげに返していた千秋だが、持ち上げた袋の中にゼラチンや生クリームを見つけて密かにテンションを上げた。
「作るの手伝いますか?」
 同じく荷物を持ち上げた恵実里に、鍵を金庫に戻していた青雲は軽く首を振る。
「そんな難しいの作らねぇし、蒼薙がやる気出してるから大丈夫だろ。お前らは遊んどけ」
 本当は瑞樹も遊んでていいと思っているのだが、本人が心の底から楽しみな様子なのでそのまま手伝わせることに決めた。
 買ってきた荷物を全部居間と台所に運び終わり、箱アイスを持たせて恵実里たちを戻らせた青雲と瑞樹は早速調理にかかる。手伝おうとしたのを断られて生徒たちの方に連れて行かれかけた伶央は、心実からの呼び出しがあったので今度はそちらの買いだしの手伝いに向かった。



 午後六時少し前、最初の玄関チャイムが鳴る。未だ調理中のこの家の主の代わりに出たのは陽介だ。
「銘苅先生、早千恵さん、U人さん、睡璃(ねむり)さん、いらっしゃい。柴引さんはお帰りなさい」
 手に手に様々な物を持っている年長者たちを陽介は控えめな笑顔で迎えた。順に、心実、早千恵、影咲学園購買部のバイトである八重(やえ) U人、学園内にある図書館の司書である睡璃 千鶴(ちづる)、最後が伶央だ。
「お邪魔しまーす」
「こんばんは陽介くん。他の皆さんはもう来てるんですか?」
「よぉ陽介。西さんは?」
「お邪魔します陽介さん」
「戻りました」
 口々に答えが返され、少々圧倒されながらも陽介は質問の答えを口にする。
「今来てるのは昼過ぎからここにいる恵実里ちゃんとユリカちゃんと瑞樹君とベスティアさんと千秋君です。他のみんなはまだ来てません。青雲――先生は瑞樹君と調理中です。……あとついでに、うちの母親はさっき連絡があってもうそろそろ全部出来るから持って行くようにってことでした」
 ちょうど手に持っていたスマホを軽く振って母から連絡を追加した。それなら取りに行こうかと、陽介は心実と早千恵に連れ出され自宅へと向かう。その間に西本邸に来慣れている大人たちはさっさと家の中にあがった。
 広間に向かうと、艶の出る加工がされた足の低い重厚な木のテーブルが三つ並べられている。親戚一同が集まる時の田舎の家。そんなイメージが浮かぶのは、各地でそうなる時期が近いからだろうか。
 机の上にはすでに出来上がっている料理が並べ始められていた。いくつも皿が並ぶ中、瑞樹が次の料理を運び入れてくる。
「あ、さっき来たの柴引さんたちだったんすね。こんばんはー」
 挨拶を交わしながら伶央たちは買ってきた酒や花火を机の脇や部屋の隅に置いた。
「すげー、でっかいの来た。お、打ち上げも入ってるし」
 大人の財力を発揮して購入してきた大きめなサイズの花火パックを見て瑞樹が楽しげな声を上げる。喜んでもらえるか心配していた大人たちは揃って安堵した。進言したU人だけは「ほらね」と言わんばかりに笑っている。
「次の料理来たかなー。あっ、やべっ、瑞樹いる」
 抜き足差し足で入ってきたベスティアとユリカだが、瑞樹と目が合うと慌てて引き返した。料理を置いた瑞樹は彼らが来た理由を察しすぐにそれを追いかける。直後、次の間から瑞樹が怒鳴る声が聞こえてきた。
「はーい追加よー! みんな持っていってー!」
 玄関から心実が張りのある声を上げると、しめたとばかりに先ほどつまみ食いに来た面々が走って玄関に向かう。一旦追いかけかけた瑞樹だが、まだ仕事が残っているので渋々台所へと戻っていった。
 部屋に残っていた恵実里、千秋も明子の料理を運ぶリレーに参加し、机の上はどんどんと豪華になっていく。
「うわっ、何これ凄い!」
 家の外でリレーの様を見て驚愕の声を上げたのは彼方だ。最後の一品を持ってやって来た明子に招かれるまま、彼方と、彼女と一緒に来た彼方同様高一の八重 美々(びび)、高校三年の四季(しき)咲(ざき) 千(ち)冬(ふゆ)(千秋の兄)、月舘(つきだて) リンジ、ホァン レイ、八月朔日(ほずみ) 愛(あい)香(か)、大学二年の八月朔日 梓(あ)希(き)も、西本邸に入ってくる。広間の状態を見ると、今度は彼方以外からも驚愕の声が上がった。
「おー、さすがにこんだけいると凄いな」
 手に大皿を持ちながら瑞樹と連れ立って広間にやって来た青雲が感心をもらすと、ここでようやく家主の姿を見た面々からは口々に来訪の挨拶や夜半の挨拶がされる。
「ほいほいこんばんは。これで全員か?」
「……二十一。うん、これで全員ですね」
 指を動かし人数を数えていた恵実里が質問に答えた。早速席に、という話になりかけるが、先んじて明子からの「ご飯の前に手を洗ってらっしゃい」が入ったため、一同が揃って洗面所に向かうという不思議な現象が巻き起こる。
 青雲と明子はその間にグラスを用意し、酒やジュース、お茶などをテーブルや脇に置いた盆の上など各所に置いていった。全ての配置が終わる間近に子供たちが順に、遅れて大人たちが順に帰ってくる。最後になった伶央が戻ると、全員が席に納まった。
「はいじゃあみんな席に着いたわねー? 楽しく飲んで食べてくれればいいんだけど、最初にひとつおばちゃんから」
 机の側に立ち、明子は席に座る一同を見回す。彼らの視線が集まる中、明子はぴっと人差し指を立てた。
「お酒は二十歳になってから。大人の皆さんは子供に飲ませないように、子供のみんなは絶対飲まないように。もし破った人いたら――おばちゃん本気で怒っちゃうわよー」
 笑顔の背後に圧力をたたえる明子に、一同は各々の母を、あるいは父を思い出してびくりとする。
「ガチで怒られた経験者が語ろう。この人的確に痛いところついてくるから怒らせない方が身のためだ、と」
 明子の足元に座っている青雲がしみじみと追加すると、室内のあちこちからそれぞれの返事がされた。素直な面々に満足そうな表情で微笑み、明子は両手を前に合わせる。
「じゃあ、早速食べましょうか。デザートもあるから楽しみにしててねー。はい、手を合わせて――いただきます」
 手を合わせて、の部分で給食の時間を思い出したのか、子供たちは顔を見合わせくすくすと笑いながら素直に手を合わせ「いただきます」と復唱した。大人たちも数人は復唱し、数人は手を合わせるのみに留まるが、目には目前の料理の数々への期待が輝いている。
 それからしばらくの間は賑やかな食事の時間が続いた。料理に舌鼓を打ち、酒を味わい、友人たちとの会話に興じ、時にふざけ、時に笑い、時に怒り、時に驚き、西本邸はかつてないほど賑やかな空気に包まれる。
 午後八時が過ぎ、腹も膨れた面々は生徒たち・大人たちがそれぞれ買ってきた花火を全て縁側に運び出した。塀際までがおよそ三メートル、塀際には木や草が生えているが、ほとんどは土と石しかない庭に一同は次々に降りていく。
「私これ!」
「ガキの頃から最初に絵つきの取るの変わんないなお前。……じゃ俺これ」
「私どうしようかなぁ」
「こっちのでかいのどうする?」
「それは後でやりましょう」
「私これにしようかな」
「てんてんサン、僕にもそれちょーだい」
「ベスティア、いきなり三本持ちなんてしてたら怒られるよ」
「何言ってんだ、これでも半分にしたんだぞ」
「六本一気にやるつもりだったの!?」
「千秋君はそれやるんですか? じゃあ私はこっちの色違いを」
「早千恵さんそれ二本まとまってるスよ」
「あ、これ色変わるんだ。私これやろーっと」
「くまちーあたしもそれちょーだーい」
「銘苅先生、酔ってるんですからあんまり人に近付き過ぎないようにしてくださいよ」
「ほら、お前もこれ持て」
「あ。ありがとうございますU人さん」
「皆さん準備はいいですか?」
「火の準備はいいわよー」
「終わったらバケツにちゃんと捨てんだぞ。俺を野ざらしにしたくなくばな」
 呼びかけに花火を選んでいた面々が視線を向けた。庭の真ん中には、受け皿に置かれた太目のろうそくが五本と大き目のバケツが二つ用意されている。準備は完了、と、一同は揃って火に向かった。
 色とりどりの火花と煙と歓声が月の光の差す庭に満ち、平和な硝煙の匂いが広がっていく。大人が複数いるならと一旦室内に戻った青雲は、開いた皿を順に片付け始めた。同じことを考えた明子も部屋に入ってくる。千鶴が気付いて手伝おうとするが、完全に客人である彼に手伝わせるのは気が引けたため、それは丁重に断った。代わりに子供たちを見ていてくれるよう頼めば彼は納得して引き下がる。
 場慣れした明子がメインで動き、青雲はそれをサポートして片付けはものの三十分ほどで終了した。
「さすがプロ」
「褒めても明日のおやつにババロアが出るだけよ〜」
 素直な感嘆を口にすれば思わぬ収穫。青雲はこれでもかと明子を褒め称え始める。現金ね、と笑った明子はそれを制しながら広間へと戻っていった。彼女の背中を途中まで追った青雲は、不意に足が向く方向を変える。気付いた明子が一度振り返るが、その目的に気付くと何も言わずに再び前を向いた。



 明るい廊下をつっきり暗い室内に入る。開けっ放しにしていた窓からは月の光が差し、吹き込む風が端に寄せたカーテンを揺らしていた。
「今までも友達呼んで騒いだことなんて何回もあるけど、こんなに賑やかなのははじめてかもな」
 親しげに話しかけながら胡坐をかいて座り込む。穏やかな眼差しが見つめるのは、月の光を反射する仏壇。ささやかな光に照らされる写真は何枚もあるが、手前にあるのは二枚。一枚はまだ若い女性。柔らかくも儚げな笑顔を浮かべている人。二枚目は老年の女性。凛とした笑みを浮かべる強い瞳の人。彼女たちは青雲の母と祖母だ。実の親子なのにその雰囲気はまるで違う。
「花火のにおい分かる? さっきも言ったけど、今日生徒たちと同僚の人たちが来てて、今は花火してる。俺ももう少ししたら行くよ」
 食事が始まってすぐに、料理をいくつか乗せたお供えを持ってきた。その際供えた線香はもう完全に燃え尽き、出て行く直前部屋を満たした香のような匂いは今は花火のそれと変わっている。
 少しの間静かに仏壇を見上げてから、青雲はふっと笑みをこぼした。
「午前中は死ぬほど寂しかったのに、今は死ぬほど楽しい。相変わらず単純に出来てんね俺」
 ひとりは平気だ。だが、時々物凄く寂しくなる時がある。もういないのだと改めて思った時、出来なかったことの、あるいはしてしまったことへの後悔を抱いた時、答えが返らないと分かっていながら「ただいま」を言った時、心を土に埋めてなかったことにしたくなるほどどうしようもない空虚感が胸に宿る。
 そんな自分が、ひどく情けなくて嫌だった。
 しかし、かの無愛想な警備員殿はいともたやすく言ってくれた。
『たまに気を落とすぐらい、許してやったらいいでしょう』
 「気を落とすくらいいいでしょう」ではなく、「許してやったらいいでしょう」と。それはまるで他人のなすことに対するかのような言葉だ。だがだからこそ、青雲は今更ながらなことを改めて認識した。自分が悲しむことを、青雲は無意識に非難していた、と。それが悪いとは言えないが、良いともとても言えない。
「……まださ、すぐどうこうとかは出来ないわ。でも少しずつ、受け入れたいと思うよ。漫画とかであるもんな、受け入れないと悲しみは和らがないって」
 こんな時にも漫画か。なんて、呆れるとしたら祖母の方だろう。母が生きていた頃はまだオタク文化に触れていなかったから。
 しばらくの間目を瞑り、再び目を開けた青雲は物言わぬ仏壇に鎮座する大切な人たちをしっかりと視界に映す。「行くわ」と短く口にし、立ち上がると振り返らずに部屋を出た。廊下に出るとどこか遠くに感じていた楽しげな声がまた近くに来たように思える。そちらへと歩いて行くと、ちょうどベスティアが他のメンバーから離れた位置で花火を振り回し光の文字を書いている所だった。両手でそれぞれ「な」「つ」と鏡文字で描いた器用さに歓声と笑いが上がる。
「伶央っち、一応人からは離れてるから見逃してやれ」
 その中ひとり縁側で難しい顔をしている伶央の隣に腰を下ろしながら声をかけた。「そうですね」と眉を揉む横顔は堅物さがよく現れている。
「……今日はありがとうな」
 改めて礼を述べると、伶央の視線は青雲に向いた。一方の青雲の視線は楽しげにはしゃぐ来訪者たちに向いたままだ。しかし、視界に入れたすっきりとした横顔に、伶央はシャツに顔を隠す。
「どういたしまして」
「笑顔にコンプレックスって難儀だな。何だこのシュールな光景」
 伶央は普段表情筋を使わないせいか笑顔が下手くそだ。その引きつった顔は本人にとって大変なコンプレックスらしく、笑う時は大抵こうして顔を何かで覆う。いつもは帽子なのだが、今は持っていないのでシャツで代用したらしい。
「柴引さん駄目だな、やっぱここは表情筋を活性化させるべきだわ。ちょうど今度ゲームベースのアトラクションイベントあるから一緒に行くとしよう。そう、柴引さんの笑顔力向上のために」
 力強く勧めると、伶央はシャツから顔を出した。その顔はいつもの無表情に戻っている。
「分かりました、俺も大人です。あんたが行きたいだけだろうという言葉は胸にしまいます」
「おう、いい心がけだ。次はその宣言も含めて心にしまっとけ」
 しゃあしゃあと本音を言ってのける伶央を冷静に対処し、青雲は「人手ゲット」と隠すことなく口にした。体を動かす系のアトラクションなので動ける者が欲しかったことを伶央が知るのは当日になってからである。
「西本先生―、柴引さーん、ふたりも花火やりましょうよ花火ー!」
 二人が縁側に座りっ放しなことに気付いた彼方が大きな声で呼びかけてきた。それを注意しつつも、他の面々も同様に誘いかけてくる。
「おー、今行く。ほれ行きましょう柴引さん」
「はい」
 伶央の背中を手の平で叩いて青雲は踏み石に置きっ放しにしているサンダルを履き、伶央は先に持ってきていた自分のサンダルを履いた。
 賑やかな夜は、まだもう少し続く。











 

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