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   「彼女は現に夢を見る」 サンプル    

序 「宿命への一歩」

 荘厳な日本家屋の縁側の掃き出し窓がカラカラと音を立てて開く。そろそろ開けても夜半に響く音に、窓に手をかけていた、青年との境目ほどの年頃の少年は体を強張らせた。耳を澄ませて一旦動きを止めるが、幸い誰も近付いてくる気配はない。普段は寂しいと思っていた離れ部屋が今回ばかりはありがたかった。自分と荷物が出られる程度に窓を開けきると、靴脱ぎ石の裏に隠していたアウトドア用のスニーカーを引っ張り出す。それに足を入れてそっと新月の空の下に立ち上がると、少年は荷物を背負い直した。
 身に着けているのは冬用の分厚いダウンジャケット、それとセットの防寒パンツ。背には膨れ上がったリュックが負われており、上には丸まった寝袋、脇には大きめの水筒や折り畳み傘などが提げられている。これからアウトドアに行くと言われても違和感のない姿である。今が、八月初旬の深夜二時でさえなければ。
「食糧よーし、服装よーし、寝袋よーし、着替えよーし、ナイフよーし」
 最後の確認で少年が両手でそれぞれ触れたのは二本のナイフ。一本は腰に提げたウェストポーチの中にあり、上についているファスナーを少し開けた先に指先が入っていた。こちらは服装と同じく、アウトドア用のほどほどに小さいものだ。もう片方の手が触れているのは逆側に提げられた狩猟用のナイフで、こちらは三十センチ近くの大きさをしている。
 確認を終え、少年は顎に伝った汗を拳で拭ってくるりと今出てきたばかりの日本家屋を振り返った。暗闇に慣れた目は、生まれた時からずっと過ごして来た実家の輪郭をしっかりと捉えている。出た時と同じ、もしくはそれ以上にゆっくりと少年は窓を閉め始めた。カラカラと鳴る音が一つ一つ思い出を引き上げてくる。嬉しいも悲しいも好きも嫌いも幸せも辛いも全てがあった場所。そこに少年は、今日別れを告げるのだ。
「よし、じゃあそろそろ行くか」
 完全に窓を閉め切ると、音の残滓すら消え静寂が落ちる。しばしの寂寥せきりょうひたってから、少年は二度ほど自分の頬を軽く叩いた。それからくるりと振り向き、ポケットから墨で文字が書かれた白い紙を取り出す。指で挟んだそれを口元に持っていき、口中で何事かを唱えると、途端に紙は燃え出した。同時に、目前の庭にはそれまでなかったはずの魔法陣――正しくは魔法ではない――が現れる。輪の中にはもうひとつの輪が描かれ、二本の間には神代文字が刻まれていた。内側の輪の中には四角がふたつ、ひとつは正方形、もうひとつはそれに重なるように配置された正方形で、角度は四十五度回転している。各内角部分には四神と四霊を現す文字が書かれており、中央には黄龍を現す文字が書かれていた。
 少年はそれに向かって足を踏み出す。どくどくと脈打つ心臓は恐怖と高揚を同時に彼の心に覚えさせた。
「あーさひこー。なーにしてーんだー?」
 魔法陣に足がかかる、その直前、聞き慣れた声が少年――かんなぎ 朝彦あさひこの名を呼ぶ。ぎくりと体を硬直させると、朝彦は壊れたおもちゃのようにぎこちなく背後を振り返った。だらだらと流れる汗は先ほどまでのそれとは打って変わって冷たい。
 振り返った先で、まず朝彦の目が捉えたのは闇夜にぼんやり光る提灯。そして、それを手にした好々爺こうこうやだ。つるんとした頭に和装、という寺を歩くと「お坊様ですか?」と間違われる組み合わせの老人は、表情筋が仕事をしていないと疑いたくなるほど頬が緩んでおり、皺だらけの顔が一層皺だらけになっていた。
(そういえば夕飯の時にしこたま飲んでたっけ……)
 彼は朝彦の母方の祖父・天道てんどう 菊蔵きくぞうだ。普段は別の場所に住んでいるのだが、今日は父方の祖父と飲むためにと神凪家に足を運んでいた。この見た目通り優しくユニークな祖父が朝彦は大好きである。ゆえに今日という日に偶然とはいえ訪れて来てくれたのは嬉しい。だが一方で、何もこんな日に来なくてもいいのにとも思った。酔って徘徊されたら複雑さもひとしおだ。
 とはいえ、酔っ払っているならまだ誤魔化せるはず。朝彦は努めていつも通りに笑い返す。
「これからちょっとアウトドアに行って来るつもりでさー。俺もう出かけるから爺ちゃんはもう寝なよ」
 おやすみ〜と両手を軽く振ると、菊蔵は「おー、アウトドアかー」と言いながら引き返すどころか近付いてきた。これ以上近付かれると陣がばれる、と、朝彦は慌てて祖父に近づく。今からもう一度目隠しの術をかけるのは無理があった。せめて見せないように朝彦自信の体で菊蔵の視界を塞ぐしかない。幸い、菊蔵は一六一センチという小柄で、朝彦は一七六センチに加えてややがっしりした体つきをしている。目隠しには十分だ。
「いいなぁ、爺ちゃんも行っきてっえなー」
「爺・ちゃんが・一緒に・行くのは・難・しい・かな」
 ひょい、ひょい、と酔っているとは思えない軽快さで菊蔵は左右に体を揺らし背後に向かおうとした。朝彦は懸命にそれをガードする。気分はバスケやサッカーのディフェンダーだ。
「んー、そっかぁ」
 残念そうに菊蔵は動きを止めた。ほっとした朝彦も動きを止める。直後、その目は見開かれた。
「でもなぁ、爺ちゃんその術で行く先はアウトドアに向いてるとは思えねぇんだけどなぁ」
 先までのふわふわした口調から、いつもの緩い口調に戻った祖父の言葉に耳を打たれて。
 言葉を無くして菊蔵を見下ろすが、彼の視線は朝彦の向こうに向いたままだ。見えていないはずなのに、見透かしているような視線。ごくりと喉を鳴らすと、提灯に照らされた顔がようやく持ち上げられる。視線は優しいままで、しかしだからこそ朝彦は泣きそうに顔を歪めた。
「……いつから?」
 いつから気付いていたの。その意味をこめて尋ねた言葉に菊蔵は期間を答える代わりに懐から一冊の本を取り出す。朝彦にはそれに見覚えがあった。それはこの家の蔵奥深くにしまわれていた古い和本。偶然見つけたのは、夏休みに入る少し前、兄弟や使用人たちと蔵の掃除をしていた時だ。長年の悩みを解決する最高の手段を、朝彦はその本の中に見つけた。
「何で……俺ちゃんとそれ返した――」
「これなぁ、秘術ばっかり載ってるから、誰か開いたら伝達の術が走るようになってんだよ」
 知りようもない事実に、力が抜けた朝彦はその場にしゃがみ込む。膝を抱えた腕の中に顔を隠すと、大きな体はすっかり小さく丸まった。
「あーもーあーもー! 何だよ何だよ何だよ! 爺ちゃんまで邪魔すんだ。もう嫌なんだよ俺はー!」
 先ほどまで静かにすることに専心していたことを忘れたように朝彦は大きな声で不満を爆発させる。ただでさえ熱帯夜なのに真冬のアウトドア装備を身に着け、さらに瞬発力を競った後に秘密がばれていたことの衝撃に襲われ、頭が完全に熱で浮かされているのだ。菊蔵はそれを見下ろし、汗ばんだ朝彦の黒茶の髪を撫でた。提灯を持った手の指先を軽く動かそうとするが、何かに気付くと笑うのを堪えたような顔で改めて提灯を握り直した。
「なぁ朝彦よー。あの術、どういう術か分かってんだろ?」
 菊蔵は朝彦の横にしゃがみ込む。少しだけ顔を上げた朝彦は、祖父ではなく地面を睨みつけていた。
「……神凪の秘術……手に追えない悪霊とか魔物とかをどっか別の時空に飛ばす奴……」
 やっぱり分かってるかー、と菊蔵は少し困ったように笑う。そんな祖父に反発するように、朝彦は両目をぎゅっと瞑って叫んだ。
「でももうしょうがないじゃん! 家出してもすぐ連れ戻されるし、日本の中でも外国行っても、みんな俺に神凪本家の息子≠ニしての役割しか期待してない! 出来ないって言うとあからさまにがっかりするとか何なんだよ! たくさん修行してるんだから出来るはずって何だよ! 仕方ないだろ出来ないだから!」
 まるで小さな子供のように癇癪かんしゃくを起こす朝彦の頭を菊蔵は静かに撫で続ける。それを振り払わない辺り、この孫は秘術を使う決意をしつつも家族思いのままなのだと、菊蔵は複雑な思いを抱いた。
 神凪家。それは飛鳥あすか時代より脈々と続く神道しんとうの一族だ。生まれついてよりその魂にひと柱の神の加護を持ち、かつてより悪霊・魔物・悪しき妖怪――禍津まがつのあやかし――の除霊や退治を生業としている。姓を得たのはかん天皇の時代であり、平安京遷都の際ひと手間買ったことが評された。以降も時代の裏に密かに関わり続け、現在でもそれは続いている。一族は日本どころか海外にもその枝葉を広げており、朝彦は、その本家の四男坊だ。
 とはいえ、本家に生まれた以上自由に未来は決められない。最小限の友人付き合いはさせてもらっているが、この十八年、日々のほとんどは修行に明け暮れていた。三年前からは実戦にも時々投入されている。
 そしてその結果、朝彦に貼られたレッテルは「役立たず」だ。
 神凪に生を受けた以上、朝彦も彼を選んだ神によって加護を受けていた。しかし、彼はどうしようもなく神凪本家の役割に向いていない。本人が誰よりもそれを自覚してしまっている。それでも、父方の祖父や兄たち、あるいは一族の者たちや外部の者たちが朝彦に望んでいるのは「優秀さ」だった。そうと言いながら、そうと知りながら、朝彦が逃げることを彼らは許さない。
 その結果が、これなのだろう。
「……なぁ朝彦よぉ。調べて分かってるだろうけどな、あれは、この世界じゃないどこかに手に負えねぇ化け物共を送りつけちまおうっていう最終手段だ。どこに行ってるかなんて誰にも分かんねぇしどの文献にも載ってないわけよ。だから、あれで移動した先は人の生き残れるような場所じゃないかもしれない。化け物ばっかりのとんでもねぇ場所かもしれない。『こんなもん送りつけやがって』とか『こんな所に送りつけやがって』って神凪を恨んでる奴らがごまんといる場所かもしれない。それでも行くんかい?」
 菊蔵が立ち上がり薄い光を放つ陣を見やる。朝彦はそれを目で追いかけることもせずに小さな声で「うん」と返した。
「それがただの逃げだとしてもか?」
 菊蔵にしては厳しい問いかけ。朝彦はゆっくりと顔を上げる。目に映ったのは、寂しげな笑みを浮かべる祖父の顔。
「……それでも、いいよ。俺もう、逃げたいんだ、ここから。いいじゃん、どうせ俺の神様、逃げた神様なんだから」
 逃げた神、情けない神、そんな口さがないことを言ったのは誰であっただろうか。誰だったかは忘れたが、その後「神を貶すなど不遜ふそん極まりない」と父方の祖父――神凪の現当主――に相当の雷を落とされていたのは覚えている。自分の事を庇ってくれたわけじゃないんだ、と寂しくなった記憶と共に。
 そうかー、と寂しげにひとつ呟くと、菊蔵は先ほどまでの優しい撫で方から一変してがしがしと朝彦の神をかき混ぜた。さすがにやりすぎだと、朝彦は尻餅をつく形で後ろに逃げ、両手で頭をかばう。
「ちょっと爺ちゃんいい加減にしてくんね!?」
「あー、悪ぃ悪ぃ。友達に勧められた髪型なんだよな。何だっけ? スウィングアッパーカット?」
「格ゲーの技じゃないっつーの! スウィングアップバング!」
 まったく、とぶつぶつ文句を言いながら朝彦は髪を手櫛で直した。
「朝彦はうちが嫌いか?」
 頭上から落とされたさらっとした質問がされ、朝彦は弾かれたように顔を上げる。
「んなわけないじゃん! 爺ちゃんはちょっと苦手だけどみんな尊敬してるし大好きだよ。でも――でも、環境が無理」
 再び視線を落とす朝彦を一瞥し、菊蔵は袖を目元に当ててくるりと背を向けた。わざとらしく背中が震える。
「そっかー、朝彦爺ちゃん嫌いかー」
「菊爺ちゃんじゃなくてそう爺ちゃんの方な。あと好きだよ。ちょっと苦手なの」
 嘘泣きと分かっているので朝彦も慌てずに対処した。菊蔵もばれるのを前提にしていたためか、特に反応を示さず再び前を向きからからと笑う。
「あー、あいつはなー、昔から融通利かねぇかんなー」
 どこかからかうような語り口。本人を前にして時々菊蔵がやる喋り方だ。菊蔵が当主を務める天道家は分家ではないが長らく神凪家と縁戚関係を結んできた一族である。それに加え、菊蔵と父方の祖父・宗一郎そういちろうは年が同じということもあり、子供の頃からこの年になるまで親友関係にあるのだ。気難しい宗一郎をからかったり、何の恐れもなくいさめられるのは菊蔵だけだろう。
「でもな、あいつもお前のこと大事で大好きなんだよ。その思いは俺と同じくらいだぞ。それだけはちゃんと覚えていってやれよ」
「え、爺ちゃ――」
 告げられた言葉がまるで許可のように聞こえ、朝彦は驚いた表情を浮かべた。その前に、懐から取り出した物を握り締めた菊蔵の丸い手が寄せられる。
「……神木しんぼくの、杖……?」
 長さはおよそ十五センチほど。およそ杖とは言えないサイズだが、朝彦はそれを「杖」と認識した。神凪家の裏山に堂々と鎮座する天を突くような巨木は、神を宿す木――神木と呼ばれている。その神木から作ったのがこの「杖」である。神凪の血を引く者が一人前になった時に授けられるそれは、頭の部分が僅かに膨らみ、そこに朝彦を守護する神の像が彫られていた。棒部分には上に神の名が、その下には朝彦の名が刻まれている。最下部には金色の飾りが被せられていた。朝彦の目では見分けがつかないが、確か話では純金のはずだ。
「掛けまくもかしこ大神おおかみたち前に、天道菊蔵かしこかしこみも申す」
 目を瞑った菊蔵が口にした言葉が神木の杖を授ける時の祝詞のりとだと気付き、朝彦は慌てて居住まいを正す。気付いた菊蔵は目をつむりながら僅かばかり口角を上げた。滔々とうとうとなえられる祝詞は、やがて終わりを迎える。
いそしつとむる者をの守り日の守りに守り給え。さきわい給えと恐み恐みも申す」
 祝詞の終わりと同時に、朝彦は自然と頭を下げ両手を捧げるように上げた。その手の平に、菊蔵は杖を置く。ずしりと来た杖は、瞬きの間にその重さを消した。まるで、その神性が顔を隠したかのように。まさか杖に拒否されたかと冷たい汗が額に浮かぶ。
「軽くなったか?」
「え、あ、うん。これ、軽くていいの?」
 朝彦の不安をよそに菊蔵の問いかけは軽い。問い返せば笑顔で「いいんだよ」と返された。
「その杖はお前の魂に与えられた加護が完全に目覚める時に一緒に目覚める。今は眠った状態だからな、ただの木の杖だ」
 加護が完全に目覚める時――そんな日が果たして本当に来るのか。杖を握り締めた朝彦はぐっと眉を寄せる。そんな彼を、菊蔵が腰を曲げて抱き締めた。
「爺ちゃん?」
「……元気でなぁ。出来れば行って欲しくねぇけど、男は旅して何ぼだもんな。後のことは爺ちゃんたちに任せて行って来い。あ、でもな、たまーには連絡よこせよー」
 体を離して、菊蔵はウィンクをひとつ孫に向ける。これから行く先が平穏であるように、これから行く先で連絡する手段があるように、言葉に祈りを込めながら。ジワリと朝彦の両目が濡れる。それを払うように拳で拭うと、朝彦は力強く立ち上がり、今度は見下ろす位置に来た菊蔵を強く抱き締め返した。
「あっはっは、朝彦―、爺ちゃん潰れちまうよー」
 袖をぱたぱたとさせるも嬉しそうな菊蔵は、朝彦の腕の中でとある方向を見てにやりと笑う。朝彦はそれに気付かずに彼を放して陣に向かった。光が徐々に強まる陣を前にして、朝彦はくるりと振り向く。
「爺ちゃん、俺の部屋にみんなに宛てた手紙あるからさ、朝になったら渡してやって。もちろん爺ちゃんのもあるから」
 はいよ〜と緩く答えて、菊蔵は右手でOKサインを作った。それにふっと笑みを作ってから、朝彦は改めて陣に向き合う。
 目を瞑り、大きく深呼吸。二度、三度。――覚悟は決まった。
 輝く陣を再び開いた視界に捉えると、朝彦は大股でその中に入る。陣の中央で手を組み呪文を唱え始めた。神通力を根こそぎ持っていくような消耗に、ぶわりと汗が噴き出る。しかし、不意にその息苦しさが消えた。軽く視線を動かせば菊蔵が同じような動作をしている。祖父に感謝する一方、朝彦は疑問を覚えた。
(これ、菊爺ちゃんだけの神通力じゃない――?)
 疑問の答えを出せぬまま、朝彦は足元が揺らぐ気配を感じる。次の瞬間に陣が周囲を飲み込むほど強く強く光り、朝彦の意識は光に溶けていった。



 直線状に立ち上った強烈な光が掻き消えると、そこにあったはずの陣すらその姿を消している。明るく、少々真面目さに欠ける孫の姿も当然そこにはない。
「ふん、やっと行ったか」
 不機嫌そうな声と共に菊蔵の背後から現れたのは、すっかり白くなった髪を後ろに撫で付けた厳つい顔の和服の老人。神凪家現当主・神凪 宗一郎だ。
「そうだなぁ、行っちゃったなぁ。可愛い可愛い孫息子が。俺最後にハグしちゃったよー、いいだろー」
 菊蔵は両腕を広げてぱたぱたと揺らし、からかうような笑みを浮かべる。宗一郎はその菊蔵から顔をそらしてふんと鼻を鳴らした。
「何が可愛いかあの馬鹿孫。家の仕事はろくに出来んわ勝手に秘術は使うわ。いなくなって清々したわ」
「まーたまた〜、本当にそう思ってる奴は秘術の本開いた時に黙ってたり神木の杖作ってやったり俺に協力頼んだり、音や光でばれないように結界張ったり、あと力不足で移動しきれないのを危惧してカバーしたりしないだろ〜? 力足りないと時空の狭間に永遠に囚われるとか書かれてたもんなー」
 細々と宗一郎の言葉を否定する事実を口にしうりうりと肘でつついていると、硬い拳が飛んでくる。読んでいた菊蔵はそれをひらりと避けた。厳しい視線が向けられるが、それすらも飄々とした好々爺はさらりとかわしてみせる。
「……あいつの宿命でなければ座敷牢にでも叩きこんどる」
 腕を組んで呟いた宗一郎に、菊蔵はようやくからかいの色を消した。
「そうだなぁ。朝彦が生まれた時、お宿りの御神おんかみ自ら予言なさったことだからなぁ」
 それは十八年前、朝彦が生まれた時のことだ。神宿りの儀式の際、朝彦に宿った神はこう予言した。
『十八の齢を重ねた時、この者はこのではない地へと旅立つ。決して止めだててはならぬ。これは、この者の逃れえぬ宿命である』
 と。宗一郎、菊蔵、そして朝彦の両親はこの予言を受けた故に彼に様々な事を覚えさせた。本来は十から始める修行は八つの時から、十六から始める実戦参加は十五歳から始めさせた。全ては、この日のために。別の世界でもひとりで生きていけるようにするために。
「ま、祈ろうぜ。俺らの可愛い可愛い孫が、行った先の世界で、のびのびしつつその宿命を全うできるようによ」
 菊蔵の提案に、宗一郎は言葉を返さず、代わりに目元を皺枯れた手で覆う。
 残された老人たちを包み、新月の夜は静かに更けて行った。



備考


イベント : 2016/05/01(文フリ東京二十二)、2016/05/05(ティア116)
掲載   : 2016/04/17