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第一話


 ツタで壁が覆われたその洋館は、森の深部にひっそりと建っている。滅多に人が立ち寄らないにも関わらず建物自体の劣化はなく、僅かに開いた窓から吹き込む風が揺らすのは綺麗に洗濯された白いレースのカーテンだ。誰かが外から覗けば、人が住んでいるとすぐに察せたことだろう。
 三階建てのそれは下級貴族の屋敷と言われれば小さく、平民の住まいだと言われれば大きく感じられる。その屋敷の主は人ならざる者。俗に「吸血鬼」と呼ばれる一族に名を連ねる男だ。名はクラウド・B・ムーンスティア。夜の住人と謳われる身であるが、他種族の血が混じる彼は純血の吸血鬼たちよりも日の光に強い。
 故に、普段は夜行性であるが、時折昼日中ふらりと庭も同然の森の中を出歩くことがある。この日も、日よけのフード付きマントを羽織ったクラウドはブーツで草を踏み森を歩いていた。爽やかな風はフードからこぼれる彼の紫がかった黒い長髪をさらさらと揺らしている。
「……ん」
 不意にクラウドは足を止めた。細めの双眸がさらに細められる。
「この羽音……魔食虫か。随分集まっているな」
 再び足を動かし、クラウドは羽音が聞こえてくる先へと急いだ。魔食虫とは名の通り魔力を食らう虫である。大人の男の拳大で、長い触角が生えた黒い天道虫のような姿をしている。好みの魔力を見つけるとひたすら追い回す習性があるため、追い掛け回される者は人間にも人外にも多い。さらに困ったことに、彼らは仲間が殺されるとその匂いと断末魔代わりの魔力を辿って一斉に群がってくるのだ。恐らくこの先で魔食虫に襲われている主も誤ってか知らずにか、群がってきた魔食虫を殺してしまったのだろう。
 木々の合間を縫って駆けて来たクラウドの足が太い木の後ろで止まった。そっと陰から覗けば、やはり魔食虫の群れが多重の羽音を立てながら何かに群がっている。集団で蠢く姿はまるでそれ自体がひとつの生命体のようだった。魔食虫は魔力のみ食べる生き物で、一匹が食べる量も大したものではない。だが、あれだけの量にたかられては魔力切れで死んでしまう可能性が十分ある。
 クラウドはもう一度木の陰に身を隠すと、親指を牙で軽く噛み切った。浮かんできた血の玉に術を含めて魔力を注ぐと、一滴の血は風船のように薄く丸く膨らみ空に浮かび上がる。命じるようにクラウドが指を振れば、赤い風船は魔食虫たちの中を突っ切りさらに先へと流れて行った。
 出来たての魔力の塊に惹かれた虫たちの大半がそれを追いかけて飛び去って行く。しかし、まだ十数匹が小さく丸まる影に群がったままだった。
「魅了(チャーム)に惹かれないということは、特別好みの魔力ということか。仕方ない、力ずくで払わせてもらおう」
 軽い溜め息を吐き、クラウドは右手の人差し指で数度空を切る。最後に手を前に差し出すと、それに収まるように剣の柄だけが空中に現れた。落ちてきた木の葉が竜巻に巻き込まれたように空に再び舞い上がったことが、その刀身が不可視であるだけだと証明する。
 クラウドは両手で柄を握り締めると、木の陰から飛び出し、その勢いのまま踏み込んで不可視の剣を振り下ろした。轟音を立て吹き荒れる突風に木々は揺れ、木の葉や草花は飛び散り、体重が軽い魔食虫は狙い通り吹き飛ばされる。幸い、魔食虫たちが騒いでいたせいで周囲に他の動物はいなかったようだ。
 剣を鞘にしまうような動作をすると、両手に持った剣はふっと掻き消える。クラウドは風に煽られ背に落ちたフードを被り直すと、駆け出して蹲っている小さな影に近付いた。ホビット族やドワーフ族など大人でも小さい種族ならまだしも、本当に子供だったらかなり危険な状態だ。焦る気持ちを落ち着かせ、クラウドは小さな影の隣に跪く。
(……酷いな)
 人型の影は恐らく少女だ。泥と血で汚れた灰色の髪は首の後ろまでは乱雑に切られ、背に垂れる部分だけが長い状態になっている。女性には痛手かもしれないが、そこまでなら良かった。クラウドが眉をひそめたのは、その他の彼女を取り巻くもののため。
 身につけているのは薄汚れた、服と言っていいのかも疑問なほど簡素な貫頭衣(かんとうい)。頭と両手を出して被れればいい、と主張しているかのような作りだ。両手足には鎖のかけらがついた枷がはめられていた。髪の隙間から見える物はクラウドの見違いでなければ、首輪だ。
(人身売買から逃げ出したのか……酷なことをする)
 胸の奥にくすぶる怒りを飲み込み、クラウドはそっと少女を抱き起こす。そしてその瞬間、息を飲んだ。視線の先にあるのは、額の両側に生える二本の黒い角。
「……黒い角……まさか、黒角(こっかく)の鬼族か――?」
 硬く双眸を閉じ青い顔をした少女を見下ろし、クラウドは呆然とする。思考が追いつかなかった。一族の中では若輩とはいえ、三〇〇余年生きてきたクラウドですら一度も見たことがない、文献に生きる種族。その娘が腕の中にいる現実は、困惑こそが正しい反応といえるほど衝撃的な事態である。
 しばしの間固まっていると、遠くから先ほど追い払った羽音が聞こえてきた。魔食虫たちが戻ってきたようだ。これ以上長居は出来ない、とようやく正気を取り戻したクラウドはマントの中に少女を抱きこみ早足でその場を立ち去る。




 白髪白髭の執事から少女が目覚めたことを知らされたのは家についてから三時間ほど経った頃だった。少女の一族の文献について本家に問い合わせていたクラウドは、相手に別れの挨拶をしてから通信水晶への魔力供給を止める。
 さして広くない建物のため、一八〇センチを超える身長に合ったコンパスのクラウドが大股で歩くと、すぐに目的の部屋に辿り着けた。ノックをして扉の前で待つと、中で待機していた使用人の女性――少女の境目ほどの年頃だ――が扉を開け中に招いてくれる。薄茶色の長い前髪と後ろ髪とリボンでひとつにまとめている三つ目の女性は、感情がよく出る額の瞳がきょろきょろとしていた。彼女にかの少女を預けた時から変わらないが、先ほどよりは落ち着いているようだ。忙しなさが減っている。女性に軽く片手を挙げて労いながら、クラウドは室内に入った。
 そうして、目が合ったのは赤い双眸。痩せた体にも哀れを誘う身につけた物にも似合わない、真っ直ぐに注がれる強い眼差しには気高さすら感じる。いつか一族の本家の女性が身に着けていた宝石がふと頭をよぎった。
「其(し)がクラウド殿か?」
 少女が口を開く。紡がれた言葉は存外に落ち着いており、見た目と年齢が合っていないのではないかとクラウドは思考の端で考えた。
「ああ。気分はどうだ?」
 少し遠い位置で立ち止まったクラウドの問いかけに、少女は「問題ない」と答え、言下にベッドから起き出す。まだ起きるなと止める間も無く、少女は床に両膝をつき、何かを捧げるように両手を挙げて頭を下げた。彼女の一族の礼の姿勢なのかもしれない。
「此(こ)をお救いいただき感謝いたす。此の名はディエイラ。家名は里に置いてきましたゆえご容赦召されよ」
 喋るたびに見た目との差異に苦しんでしまう。クラウドは「気にするな」と返し、彼女に近付くと挨拶もそこそこに両脇から持ち上げベッドに戻した。冷静だった少女――ディエイラは目をぱちくりとさせている。今の対応はそれほど心外だったのだろうか、とクラウドは首を傾げた。
「失礼、ディエイラ殿はおいくつだ? 見たところ十にも満たぬように見えるが……」
「間違っておりませぬ。此は齢八だ」
 見た目と年は合っているようだ。――そう考えると、一層中身への違和感が強くなるわけだが。
「クラウド殿?」
 今度はディエイラが首を傾げる。彼女にとってはおかしいものではないのだろう。クラウドは違和感を何とか頭の端に追いやり、ベッドに腰かけた。真正面に水色の双眸と赤い双眸が相対する。
「失礼、何でもない。……ではディエイラ殿、いくつか訊きたいのだが――」
 少し低くなった声音にディエイラの背筋が自然と伸びた。どこか緊張感を帯びた表情は、それでも怯えを映さない。ここでクラウドははじめてこの年と駆け離れた落ち着きが会話を成立させやすいことに気付いた。逆にありがたかったな、と思いながら、クラウドは指で彼女の腕を差す。
「まず、その両手足の枷と首輪は外してしまっていいかね? それと風呂と着替え、食事を提供しても? 一応カロの花の蜜を飲ませたが、鬼族は大体どの種族も食事で魔力を回復すると記憶している」
 カロの花は蜜に魔力を貯める花で、魔食虫たちの主食だ。他の生き物も飲めば魔力の回復に役に立つ。だが、魔食虫に食い荒らされた魔力はそれだけで回復はしないだろう。まして、鬼族はほとんどが主に肉を食して血肉に変えると同時に魔力に還元している。花の蜜では間食程度にしか役に立たない。
 それ以外の内容は単にクラウドの自己満足なのだが、問われたディエイラは呆気に取られた様子で固まっていた。
「駄目か?」
 問い直すと、正気を取り戻したディエイラは「とんでもない」と首を振る。
「お申し出ありがたく受けさせていただく。特に、この枷と首輪は此には毒だ」
 ディエイラが自分で見るために持ち上げた手を、クラウドはすかさず取った。そして彼女が何をと問うより早く、伸ばした爪に魔力を帯びさせて切り落とす。裏側に刻まれているのは対鬼の封魔の刻印だ。彼女の一族≠ナも、基本的には封じ方は同じらしい。
 クラウドは同じ要領で残りの三肢の枷を落とし、首輪も同じように落とした。途端に、目の前の少女から徐々に溢れていた魔力が波となって叩きつけられる。抑えていたものが溢れたのだろう。無意識だったようで、瞬時にディエイラの顔は青ざめ小さな体がふらついた。
 その身を支え、クラウドは使用人の女性を振り返る。魔力に当てられたのか転んでいた使用人は慌てて立ち上がり、置いていたカロの花の蜜を主に差し出した。クラウドはそれを受け取るとディエイラにそっと飲ませる。
 何度か喉を鳴らしてから、ディエイラは器から口を離し、申し訳なさそうに眉を寄せた。
「……何度も申し訳ない」
「気にするな。少し休んだら風呂に行って来るといい。服と食事はその間に用意させておく」
 ベッドから立ち上がると、クラウドはまた後でと残して部屋から出て行く。その背を見送りながら、ディエイラが自身の額にある小さな黒い角を触ったことに彼は気付かない。




 用意された夕飯を、ディエイラはがっつくことなく食べ始めた。最初は恐る恐るといった調子だったが、毒や呪いが込められているわけではないと判断したのかある時から食べるスピードが上がっている。身に着けているのはクラウドの子供時代の服で、白いシャツ、群青色の後ろだけ長いベスト、同色の膨らんだズボンだ。ざんばらの髪は赤いリボンでまとめられている。それなりに良い作りの服だが、ディエイラは着心地が悪そうな様子を見せない。カトラリーも躊躇なく使用している辺り、本家の親戚から聞いた通り、彼女の一族は秘匿ではあるが未開ではないようだ。
「もういいのか? 遠慮しないでおかわりするといい。たくさん用意させているぞ」
 がっつきはしないがパクパクと口に運んでいたため早くもディエイラの皿は空になっていた。手にしていたナイフとフォークを置こうとした彼女を留め、クラウドが指で招くと、先ほどの三つ目の使用人が次の皿を持って来る。皿を入れ替えられたディエイラは少々戸惑った様子を見せる。だが、空腹と魔力不足には耐え切れなかったのか「すまない」と一言謝り再び口に運び始めた。
 それを見守り、クラウドもワイングラスを傾ける。中身は赤い液体。ワインではなく、血液だ。大昔には人や他の種族――エルフやドワーフなど「ウォルテンス」と大別されるものたち――を襲って食事としていた。クラウドが生まれるよりも前に血液の供給を受ける契約を結べたため、今は供給され保存されているものが与えられている。
 クラウドは皿に置かれた摘みたての花を持ち上げ唇を花びらに当てた。途端に、花はしおれ、彼が口を離した時には茶色く変色して手の中で崩れてしまう。それを皿に置き直したクラウドは、そこでようやくディエイラの視線が自分に向いていることに気がついた。
「どうかされたか?」
「――あ、失礼した。他の種族――まして吸血鬼の食事風景など見たことがなくて、つい見入ってしまった。ご不快にさせてしまっただろうか?」
 申し訳なさそうにディエイラが眉を歪める。クラウドは軽く微笑み首を振った。
「吸血鬼の食事は特殊だから仕方ないだろうよ。こちらこそ気が利かず申し訳ない。吸血鬼も普通の物は食せるのだが、私は食事を必要としない種族との間に生まれたもので、あまり普通の食事を取る機会がなくてね。つい普段通りの物を用意させてしまった。次からは同じ物を――」
「いや、クラウド殿。気にしないでくれ。ここは其の館だ。此に合わせねばならぬ理由は無い。むしろ、此が其に合わせるべき所だろう」
「それこそ気にしすぎだ、ディエイラ殿。客人をもてなすのは家主の義務。遠慮せず食べて欲しい」
 互いに気を遣い遠慮し合いのやり取りが続き、ふと止まる。そして一瞬の間を空け、ふたりは同時に笑みを浮かべた。
「どうやらお互い気にしすぎなようだ。好きに食べるとしよう」
「そうだな。お言葉に甘えさせていただく。ありがとうクラウド殿」
 ナイフとフォークを両手に握ったまま笑顔で礼を述べるディエイラの表情は、ここではじめて年相応なものとしてクラウドの目に映る。そのことが何故か無性に嬉しく、彼の表情は一層柔らかいものに変わった。
「ところで、クラウド殿。これは余計な好奇心なので、ご不快なら答えなくていいのだが――」
 浮かべていた笑顔をふっと収め、控えめにディエイラはクラウドを窺う。クラウドが軽く首を傾げて先を促すと、ディエイラは思いきったように疑問を口にした。
「先ほどの話だとクラウド殿はハーフらしいが、どの種族とのハーフなのだ? 見たところ分かりやすい異形は出ていないから人型の一族だろうか? 此の拘束具をあっさり切れた所を見るに鬼族ではないように思える――と、すまない。少し調子に乗ってしまった……」
 これまでで一番饒舌な様子を見せたかと思うと、ディエイラははっとして口を手で塞ぐ。好奇心を爆発させながらも自分で再度制御出来る辺り、その辺りの大人よりもよっぽど自制心が強そうに思えた。少し面食らったものの、特に気分の悪くなる問いかけではない。再び申し訳なさそうにしているディエイラに、クラウドは軽く微笑んだ。
「いい。子供は本来好奇心が強いものだ。ましてこれまで他の種族とは交流がないのだろう? 気になるのは仕方ない。……質問に答えると、私は母が吸血鬼で、父は風の精霊の混血だ。とはいっても、仮初(かりそめ)の肉体での交わりだったのでほぼ吸血鬼なのだが――」
「クラウド様! 子供の前です!!」
 何をいきなり話し出しているのだ、と言わんばかりに三つ目の使用人が叫ぶ。クラウドは口を手で塞ぎ、しまったというように目をそらした。落ち着いた口振りをしているものだからつい大人にするような話をしてしまったことに今さら気がつく。
「すまないミッツア。ありがとう」
 三つ目の使用人――ミッツアに礼を述べると、ミッツアは「こちらこそご無礼を」と頭を下げた。再び上がった顔は平静を装っているが、額の目は主を怒鳴りつけてしまった失態に対する不安でそわそわとしている。
「……? 子孫を残すための正当な行為について口にしただけでは……?」
 大人たちは一体何をそんなに慌てているのか。ぼそりと口にしてディエイラは首を傾げた。しかし、実際に問えば恩人たちが対応に苦しむことが想像できたため、賢明なディエイラは話を元に戻す。
「風の精霊か、此の里にも時々訪れていた。自由気ままを形にしたような存在が惹かれるとは、クラウド殿の母君は大層魅力のあるお方なのだな」
 純粋な感想にクラウドは苦笑して肩を竦めた。
「さて、どうだったかな。ここ一五〇年は両親揃って大陸中を放浪しているもので忘れてしまったな」
 別の世界≠ナは死者であるゆえ不老不死と言われているらしいが、この世界≠ノ古くから存在する方の吸血鬼は命の流れが大変遅いだけで死者なわけではない。いつかは身が朽ち地面に還る定めだ。百歳ほどで一旦一人前と見なされ、その後は緩やかに年を重ねて長くて二〇〇〇年ほどで死を迎える。
 ゆえに、現在年齢が三〇〇を数えているクラウドは疾うに大人という扱いだ。気ままな両親はクラウドが百を越えた辺りからよく出かけるようになり、一二〇を越えてからは帰る回数が減り、そしてこの一五〇年は一度も帰ってこなくなった。母は父と結ばれるにあたり本家はもちろん出身の分家からも離れたため、両親がいない間クラウドはこの屋敷にひとりきりで過ごしている。時折送りつけられてくる土産で生存を確認するのにも慣れたが、基本的に愛情深いムーンスティア家の血を十分に引く彼の寂しさを拭えるほどではなかった。
 クラウドの状況を哀れんだ一族の者たちが使用人を送り込んだり会いに来たり逆に招いたりとしてくれていなかったら、言葉すら忘れていたかもしれない。そんな思いをしながらも、両親が帰る家だから、とこの屋敷から出られないのもまた、クラウドにとってはジレンマだった。
(我ながら情けないことだ。三〇〇にもなってこれではな……)
 ディエイラの方がよほど大人ではないか、と自嘲の笑みが思わず唇に浮かぶ。
「そうなのか……だが、まだこの先会える可能性があるならばいいのではないだろうか」
 視線を落としてディエイラがぽつりと呟いた。その直後、何でもない、と笑顔で否定するが、クラウドは逆に頭を抱えてしまう。
「……すまない、軽率だった」
 本当に軽率だ。まだたったの八年しか生きていない子供に気を遣えないとは、クラウドは自身を恐るべき馬鹿だと断じる。上手く流せないのならば両親の話など乗るのではなかった、と今さらな後悔に陥った。まだこの先会える可能性のあるクラウドの寂しさなど些細なものだ。彼女がこの先――永遠に家族とも友人とも会えないことを考えるのならば。
 ひどく落ち込んだ様子を見せるクラウドに、ディエイラは何かに気付いたようにナイフとフォークを置いて力ない笑みを浮かべる。
「……此の一族の掟、『黒角を継ぎし者、不用意に里を出るべからず。一度出た者は二度と里に足を踏み入れること能わず』。ご存知であったか」
 ディエイラの一族は、名を黒角の鬼族。名の通り、黒い角を持つ鬼たちの一族だ。漆黒の角は強い魔力の証であり、彼女の一族で弱小と呼ばれる者すら他の種族にすれば十分に高位に位置する。それゆえか、黒角の鬼族は気位が高い。彼らにとって黒角は誇りであり神聖な存在の証なのだ。里を出れば穢れるとすら思っており、この世界唯一の王≠ェ交流を申し付けなければ里と一族が続く限り内に籠もりきりであったことだろう。
 十数年ほど前から外部との交流が正式に始まり、訪れた者たち(これもまた一族が見極め「良し」と判断した者だけ)から得た知識や文化で独自に進化を続けていると聞く。しかし未だに里の掟は根強く、中でも「黒角の者が里を出れば穢れる」という思いは薄れる気配すら見せないそうだ。
 ディエイラが口にしたのは、まさにそれに関わる掟。文言通り、黒角の者が里を出ることを禁じ、一度でも出た者が再び里に踏み入ることを禁じるものである。そこに理由の如何はない。「一度出た」という事実しか目は当てられず、「戻れない」という事実だけがディエイラに突きつけられた。
「仕方ないのだ。悪人とも思わず油断したのは此の失態。業腹だが、あの連中を恨むのも一族を恨むのも此の我侭でしかない」
 自嘲気味の笑みのまま、ディエイラは視線を落とす。仕方ないと、まるで言い聞かせるような物言い。こちらを見ない彼女を見やり、クラウドは一度瞑目してから再び彼女を視界に映した。
「――ディエイラ」
 敬称を抜かして呼びかけると、ディエイラは少し驚いたように顔を上げる。クラウドは探るような赤の宝石に柔らかく笑いかけた。
「もしそなたが嫌でなければ、この家で暮らさないか? 行くあてが出来ればいつでも出て行っていいし、この家が気に食わないと思ったら好きに出て行っていい。無理はしないで自分の好きに――」
「あの、クラウド様? そう出て行くことばかり仰っているとこの家に置くこと自体が嫌そうに聞こえますが……」
 クラウドの言葉をミッツアが控えめに遮る。クラウドは驚いた様子でミッツァに視線を向けた。彼女の額の目が呆れた様に半目になっているのを見て、自分の言葉が上手くなかったことを認めたクラウドは少し照れた様子で顔を歪める。
「すまない、言い方が悪かった。助けた当日に誘いかけられたら義理を感じてしまわないだろうかと思ってつい……。とにかく言いたいのは、借り宿でも永住でも構わないからここに住まないか、ということだ。どうだろう?」
 クラウドが再度誘いかけると、ディエイラは考えるように視線を落とした。かと思うと、ちらりと窺う視線がよこされる。
「……何故?」
 短い問いかけの内容がこの提案をした理由についてだと判断し、クラウドは素直な気持ちを口にした。彼女に嘘を言っても恐らくバレる。子供騙しが通じるほど幼い思考は持っていないだろう。
「ひとつ。孤独に追い出されたそなたが哀れだと思った。ふたつ。外部との交流がほぼない一族である以上誰か頼れる相手がいると思えない。みっつ。そんな者を、ましてそなたほど幼い娘をひとり放り出す気にはなれない。よっつ。黒角の鬼族は希少価値が高いので、放り出すと各方面から襲われる可能性が高い。そうなると目覚めが悪い。いつつ。……おこがましいが、孤独の寂しさは分かっているつもりなので、お互い癒せたらと思ってしまった。以上だ」
 指を一本ずつ立てて理由を紡ぎ、手が完全に開いた状態になると、クラウドは少し眉を寄せて笑った。その笑みをディエイラはじっと見つめ、不意に噴出す。
「ふふふ、ははっ、クラウド殿は最初に見た時と随分と印象が違うな。よっつめまでならそのままだったというのに、先ほどから何度もそう人らしい姿を見せられたら嘘だと思えない」
 此は学習していないだろうか、とディエイラは声に出して笑い続けた。笑いの対象となったクラウドは少々気恥ずかしく視線をそらして咳払いをし、室内にいるミッツアをはじめとした使用人たちは「よく分かっている」と言いたげに笑みを浮かべている。
 一通り笑い終わると、ディエイラは突然立ち上がり、クラウドの横まで歩いてきた。視線で彼女の動きを追っていたクラウドは、ぴたりと真横に止まり見上げてくる小さな少女を見下ろす。答えを待つ水色の双眸に、ディエイラは明るく笑いかけた。
「ありがとう、クラウド殿。もし黒角について言及がなければ、正直此は其を疑っていただろう。だが、何の気負いもなく其はそれを口にした。隠し立てないことを誠意の証と受け取らせていただき、そのお言葉に是非甘えさせていただく。どうか此を其の家に置いてくれ」
 言うなりディエイラは再び膝をつき両手を差し出す姿勢をとる。聡い娘に改めて感心したクラウドは一瞬黙すると、すぐに笑んで彼女の両脇の下に手を差し入れ持ち上げて立たせた。水色と赤の二対の視線はお互いに穏やかさを映している。
「ああ、歓迎する。――それにあたって、まずその堅苦しい敬称を取ろう、ディエイラ。是非対等に会話したい」
 促すように首を傾げると、ディエイラは口角を上げ少し鋭い犬歯を覗かせた。
「お言葉甘んじて。どうぞよろしく頼む、クラウド」
 八つの娘に言う台詞ではなかったかもしれない。だが、応じてくれた瞬間こぼれた年相応の幼さが滲む表情は、胸に暖かさを灯してくれる。その時、クラウドはお互いの間にある垣根が少しだけ下がった気がした。