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第六話


 牢屋の近くまで向かったゴルヴァは、目的地の方面の騒がしさに十字路になっている場所で足を止めた。後ろについていた子供たちもそれに倣う。十字路の壁に取り付きながら、ゴルヴァはそっとそちらを覗きこんだ。そして、あまりにも面倒な状況を見て思わず舌打ちし身を翻す。
「と、父ちゃん? どうしたの?」
 自分の脇を何も言わずに通り過ぎる父をトリストは慌てて追いかけた。彼の問いかけにゴルヴァは答えない。自身も目的地を覗き込んだアビゲイルは、整った顔を歪ませながら追いかけてきてその答えを代わりに口にする。
「最悪だね。捕まえた奴ら全員逃げ出してるよ」
「ええっ! ……とと」
 驚きに声を張り上げかけたトリストは何とか自分で自分の口を押さえた。後ろをちらちらと見やる彼をアビゲイルは殴りつける。
「ちゃっちゃと歩きな。あたしらが捕まえた奴らばっかりなんだ。もし見つかったら殺されかねないよ」
 苛ついた様子でアビゲイルが口にした内容を思い浮かべてしまったのか、トリストはさっと青ざめた。
「父さん、どうするのさ」
 アビゲイルが黙々と前を歩くゴルヴァに声をかける。最初は無言だったゴルヴァだが、先ほど牢に向かう時曲がった角を逆に曲がった所でようやく口を開いた。
「数人だったらまた捕まえられたが、あの人数じゃあ無理だ。別の手で行く」
 それだけ言うとゴルヴァは再び無言に戻ってしまう。トリストはまだ不安そうな顔をするが、姉に急かすように背中を押されたので素直にその後を追いかけた。途中何人かとすれ違うが、その誰もが警報の対象となった外や逃げ出した商品たちの対処で慌しくしており、ドーロ一家を見咎める者はいない。
「ここ……」
 ゴルヴァが歩みを止めた部屋の扉を見上げてトリストは言葉を失う。ここは、この建物にやって来たその日に「近付くな」と言われた場所だ。ここには、人とは違う商品が囲われているから、と。
「父ちゃんここ入っていいのかよ――父ちゃん、姉ちゃん」
 不安がるトリストなどお構いなしに、ゴルヴァとアビゲイルは重たげな扉を開いた。とは言っても、重たげではなく実際に重いようで姉の方は随分苦戦している。仕方なく、トリストは姉の後ろに立ち彼女の代わりに扉を押し開いた。
 中は薄暗く、地下ということを抜きにしても湿った空気をしている。どことなく生臭さが混じっている気がするのは気のせいだろうか。トリストは目を細めじっと奥を観察した。次第に闇に慣れ始めた双眸は、奥に鉄格子があることに気付き、さらにその向こう側で何かが動いていることに気が付く。何か、と更に目を凝らした時、ぎょろりと何かが動き、目が合った。
「うわっ」
 思わず飛びのいてトリストは憚ることなく悲鳴を上げる。人を呼びかねない大きな声にゴルヴァとアビゲイルは揃って彼を睨みつけた。しかし今は家族の怒りよりも部屋の奥にいる得体の知れない何かの方がトリストには恐ろしい。
「な、何がいるのあれ……?」
 震える声でトリストが尋ねると、ゴルヴァはいつも通りの声音で答える。
「ザナベザ」
 聞き慣れぬ単語。それは間違いない。しかし、名を聞いた瞬間トリストはぞわりと全身を粟立たせた。どうしようもない寒気と恐怖が歯をかき鳴らしてくる。思考がまとまらなくなってきたその時、強引に首を提げられ頭を姉に抱えられた。半身を微妙に曲げた姿勢でトリストは正気に戻る。
「……まったく、あんたは何で魔法は使えないし見えないのに悪影響だけはしっかり受けるんだかね」
「……いまのなに……」
 姉を抱き締め返しトリストは泣きそうな声で問いかけた。彼は今のような感覚に覚えがないわけではない。アビゲイルの言う通り、トリストは魔法の才能がまるでないのに何故か「怖い」をはじめとした負の影響だけはよく受ける。恐らく今回もその類なのだろう。
「名前にはどんなものでも力がある。元々存在を固定する強力なものな上に、固定した瞬間存在が持つ力をそのまま引き継ぐからね。今あんたはザナベザって魔獣の名前が持つ禍々しさに当てられたんだよ」
 魔獣という存在はこの世界に来てから聞いたことがある。そんなものを捕らえておくなんて、とトリストは深い呼吸を繰り返し息を整えてから姉を放した。泣きそうなほど心が荒ぶっているが、堪えられないほどではない。
「――ごめん、大丈夫。それで? 何すればいい?」
「ここのどこかにある支配の腕輪ってのを探すんだ。それがあればあの化け物共も操れる」
 そんなこと出来るの? 驚きそう問うと、アビゲイルは奥の方を指差す。先ほどよりも暗闇に慣れた目は奥の魔獣の姿を少しずつ明確にしていった。
「腕輪だの足輪だのが付いてるの分かるね? そいつは服従の腕輪ってやつで、対になる支配の腕輪を使って命令すると必ず応じるようになるんだ」
 目を凝らせば確かにザナベザ――たちは四肢のいずこかに輪っかをつけている。あれが「服従の腕輪」らしい。ゴルヴァが堂々とした足取りで暗い室内に入り、アビゲイルがトリストの背中を叩いて父の後を追いかけた。トリストは少々逡巡した後それに続く。
 室内に入りきると入り口よりも生臭さが強くなった。先ほどは勘違いかとも思ったが、今はそうでもないことを理解している。これは、ザナベザたちの匂いだ。当の魔獣たちは獲物を観測するようにじっと鉄格子の向こうからぎょろりとした双眸を向けてきていた。それから無理やり目を逸らし、トリストは壁際の机を探り出す。
「あったぞ」
 背後から低い父の声。振り向くと、父の手には片方に蓋の開いた小箱が、もう片方には腕輪が握られていた。ほっとした反面、トリストは今度は別のことが不安になる。
「と、父ちゃん、今更なんだけどさ、商品勝手に触って怒らんねぇかな?」
 トリストが恐々と檻の中を見ながら父の服を引っ張る。ゴルヴァはそれを振り払って支配の腕輪をアビゲイルに渡した。
「いいんだよ、騙まし討ちして捕まえられたようなのが逃げ出してんだ。ここの連中だけじゃ捕まえられねぇだろ」
 実際、ここに来るまでに何人も倒されたという報告が行き交っているのを聞いている。
「こいつらは発生しやすいタイプの魔獣らしいから、そう高くねぇだろう。その交渉は後でするから今は考えんじゃねぇ。おい、アビゲイル」
 腕輪をはめ終わったアビゲイルが頷き、広い檻の前に立った。
「お前ら聞きな。今から檻から出す。あたしたち三人以外を黙らせな。いいね」
 支配の腕輪が光り、応じて全ての服従の腕輪が光る。暗い中にぎゅうぎゅうに押し込められた魔獣たちが一体何匹いるのかゴルヴァ達には分からなかった。だが、檻を開けた瞬間一斉に飛び出した全てのザナベザを見て、自分たちの安全を知りつつも恐怖を覚えてしまったのは仕方ないことだろう。
 魔獣たちに遅れてゴルヴァたちも地上に戻った。そして、視界に映る限りに血や肉塊が、内臓や骨の飛び出した死体が転がっている光景に背筋を冷やす。黙らせる、ということには間違っていないが、拡大解釈もいいところだ。
「命令のし直しが必要だね……」
 アビゲイルが苦々しく呟いた。この建物の私兵たちの命はどうでもいいが、得るべき商品が壊されてはたまらない。最悪、ここを壊滅させても商品だけ無事ならアビゲイルたちは『目的』を果たせる。
「父ちゃん姉ちゃん、黒角のチビいたぜ」
 父の後ろについて歩いていたトリストが壁に開いた大穴の先を指差した。父のずんぐりむっくりした体と弟の巨体を避けて外を見れば、確かにディエイラが見慣れぬ魔法――人間ではないので魔術か――を使っているのが視界に入る。
「よし、トリスト、これ持ってあのチビに近付くんだ。警戒してるから必ずかかるよ」
 トリストは後ろから姉が差し出した物を素直に受け取ってから首を傾げた。トリストの目にはそれはただの鏡のように見える。何これ、と尋ねると、アビゲイルは口早にかつ簡潔に説明した。
「因果応報の鏡。攻撃には攻撃を、回復には回復をそのまま跳ね返す道具さ。それを前に構えて近付くんだ。さ、行きな」
「分かった」
 力強く頷き、トリストは乱戦の中に飛び出す。姉の命のおかげで近くを通ってもザナベザ達はトリストに興味すら持たない。軽い駆け足で近付くと、腕が触れるまで後数歩、という距離でディエイラが突然振り向き光球による攻撃を行ってきた。鏡を前に出していたトリストは、姉への信頼ゆえ恐れることなくその結果を見据える。結果、鏡の前で光は留まり蠢き、トリストが思わず笑った瞬間放った主に跳ね返った。
「よしっ」
 思わず声を上げるが、それと全く同時に強風が吹き込み、黒い影が光線とディエイラの間に入ってくる。風を避けるべく目を瞑ってしまったトリストがその正体が例の吸血鬼だと気付いたのは彼らが吹き飛んだ後だった。
「あれ、まずいか? でもあいつも捕まえるつもりだったし……いいかな?」
 思いがけぬ状態になってしまいトリストは少し思考を巡らせるが、すぐにそれを放棄する。考えるのは自分の役目ではない。そう結論付け、トリストは来た道を戻ろうと踵を返した。直後、太ももに激痛を覚えて倒れこむ。見やれば足から血が出ていた。しかしそれはザナベザの爪や牙によるものでなければ近くで戦っている者たちの剣によるものでもない。傷の形は小さく丸い。銃だ、と遅れて気付くが、脈打つように伝わる熱と痛みのせいでそれ以上どうしようもなかった。視線を巡らせて見ると、遠巻きにこの騒ぎの直前姉に絡んでいた男たちがこちらをにやにやと見ていることに気付く。
「くっそ、あいつら殺されちまえ」
 憎々しげに睨みつけ呟いた言下、まるでトリストの言うことを聞いたかのように三匹のザナベザが男たちに向かって行った。騒ぎから離れていたのにまさか来られるとは思っていなかったのだろう。何人かは逃げ惑い、男と近くにいた取り巻きたちは銃やナイフで応戦する。だが、結局ザナベザたちの爪と牙の、あるいは毒液の餌食となり全員が倒れた。
 それを見ていると、ザナベザが一匹近付いてくる。何もされないはずと思いながらも不安と緊張を込めてそれを見上げていると、ザナベザはトリストを両手で抱え上げた。そして、硬直している内に父と姉の元に送り届けられる。そこでトリストはようやく、先の男たちを始末したのもトリストを連れてくるのもアビゲイルが命令したことだと気が付いた。
「大丈夫か」
 手にしていた斧を腰につけ直した父が首に巻いていたスカーフを外して止血を始める。痛みに呻くが、トリストは気丈に笑った。
「大丈夫大丈夫、それよりほら、黒角のチビとあの吸血鬼今なら捕まえられる。死んだザナベザの服従の腕輪つければ――」
「その前にお前らは俺にこの状況を説明するのが先じゃあねぇか?」
 問いかけた声はしわがれている。ゴルヴァが、アビゲイルが、トリストが、一斉に声が聞こえた方へと視線を向けた。壊れた壁の穴から厳つい男たちを取り巻きに出てきたのは灰色の髪と同色の口ひげを持つ、鷲鼻が特徴的な老人だ。この建物の主にして奴隷商人たちのボスである男は、老齢を感じさせない眼光でゴルヴァたちを睨みつける。
「ええ? ドーロ一家よ?」
 脅しかける彼に、ゴルヴァは真正面から相対した。
「商品が逃げ出したから捕まえるために借りただけだ。何人か死んでるが、どうせ代わりはいるんだろう? 使っちまった分もちゃんと払う――」
「金はいいぜゴルヴァ。確かにここにいるのもあるのも替えのきく駒だ」
 商談をせんとするゴルヴァを押し留め、ボスは何度か頷く。脇で様子を見ていたトリストは良かったと表情を緩めた。だが、すぐにボスのゴミを見るような視線と、彼の背後の取り巻きが自分に手の平を向けていることに気がつく。ざわりと背筋が冷たくなった。
「お前らもな」
 感情なく言い捨てられた次の瞬間、取り巻きの男が何かの呪文を唱える。そして、まだ転がっているトリスト目掛けて炎が放たれた。咄嗟に頭を手で庇い目を強くつぶる。直後鼻についたのは衣服や肉が焦げる吐き気がする臭い。だが、トリストはどこも熱くない。
 まさか、と慌てて顔を上げ、トリストは当たってしまった予測に一瞬で青ざめた。その視界の先にいるのは父。脂汗の浮かぶ顔は引きつっている。それだけの反応で済んでいることがトリストには信じられなかった。彼の背が放たれた炎を受け止めたのだと、見えないトリストにすら分かるほどだというのに。
「――うちのガキに、何しやがる……っ!」
 首だけ振り返り、ゴルヴァは殺さんばかりの視線をボスに向けるが、ボスは最早彼らに興味を持っていなかった。
「ここは放棄する。娘だけ連れて来い。そう値はつかねぇだろうがゼロよりは」
 ボスの言葉はそこで途切れる。そのまま、二度と続きが音になることはない。何せその頭が胴体から剥ぎ取られてしまったのだから。ボスの頭は二度三度地面を転がってからその先に立っていた異形の足で踏み潰された。骨が砕かれ肉が潰れ脳が地面に同化するほど何度も何度も、踏みつけられる。その残虐な行いが何故起こったか、取り巻きたちはすぐに理解した。そして後悔する。何故彼女を、最初に抑えておかなかったのか、と。
 取り巻きたちの視線の先にいるのは柳眉を逆立てたアビゲイル。その姿はまるで総毛を逆立てた獣。怒りに燃えるその目に冷静さなどなかった。腕にはめた支配の腕輪が燃え滾る感情に呼応するように禍々しく輝く。
「……全員だ」
 アビゲイルがぼそりと呟いた。何を、と聞き返す者はいない。聞くはずだった取り巻きたちはザナベザたちに取り囲まれ一斉に噛み付かれ容易く命を手放し、父は意識を半分失い、弟はその父を案じて泣き出しているから。だが、聞かれなくともアビゲイルは再度同じ言葉を叫んだ。
「あたしたち以外全員だ! 全員殺しちまいな!!」
 冷静さを大いに欠いた命は支配の腕輪を通して全ての服従の腕輪に伝達される。応じて、魔獣たちは抑えられていた元の凶暴性を露にした。



 ディエイラと、それを庇ったクラウドが吹き飛ばされた瞬間を目撃してしまったファラムンドは一瞬で焦りを覚える。どうやら目で追っていたらしいミッツアも引きつった悲鳴のような声で主たちの名を叫んでいた。
「ちょっとおい、これやばくない? あの風使いのお嬢ちゃん、術は使えないって言ってたよね?」
 一歩下がってジルヴェスターに肩を合わせる。ザナベザたちの動向から目を離さないままジルヴェスターは軽い調子で肯定した。
「そうだねー。つまり、今のままだと僕たち本当にここをどうにかしないと隙を付いて逃げるとかも出来なくなる」
 まずいねぇ、と口調はやはり軽いが、笑顔は少し引きつっている。
「ってことはやっぱりあの旦那を回復させないと駄目ってことか。なーんか呼吸が深いなぁとは思ってたんだよ。吸血鬼って言ってたし、俺の血飲ませれば多分全快になるは――」
「ジルヴェスターさん、ファラムンドさん危ないっ!」
 駆け出してその場に向かおうとするが、背後からのミッツアの声にファラムンドは咄嗟に身を引いた。しかし、やや反応が遅かったため屋根から飛び降りてきたザナベザに胸を割かれる。ジルヴェスターも先に落ちてきたザナベザに腕を割かれたようだが、直後逆の手に持っている銃で相手を吹き飛ばした。
「ったく、冗談じゃないっての!」
 悪態づいて、ファラムンドは回転し勢いをつけた尻尾でザナベザを殴り倒す。先ほどよりも凶悪な目つきのそれがまだ立ち上がろうとするので、今度は更に力を込めて頭を叩き割った。
「痛いぃ……どうせなら左にしてくれれば痛覚なかったのにぃぃぃ……」
 右腕を押さえてジルヴェスターが呻く。ファラムンドはそれに近付き押さえている左手をどかした。即座に回復した自分の胸の辺りを手の平でなぞり血をつけ、露になった傷口にすり込む。一瞬走った痛みに悲鳴を上げるも、その終わりにはすでに感心の言葉に変わった。
「おおお、ジルヴェスター君の血は本当に凄いね。もう動くや。ありがとう!」
 右手でしっかり銃を握り締めジルヴェスターが明るく笑う。だが、その顔色は決してよいとは言えない。
「ファラムンド! そいつらにも溢れた分の血ぃ分けてやりな、回復が間に合ってない」
 前線で戦っていたはずのナリステアが片腕に五人抱えてやってくるや否や、その面々をやや乱暴に放り出しまた剣を構える。彼女をはじめとした前線の面々は回復役を含め全部で九人だったが、今無事なものはナリステアと回復役と他二名のみだった。倒れた者の中には腕や足が欠けている者もいる。しかし、共に前線に出ていた回復役の男性を責める声は上がる気配すらない。男性がぜぇぜぇと荒い息を繰り返している姿を見れば、それも当然のことだろう。彼は普通の人間のようなので、魔力量には限界がある。ここまで持たせたのは健闘したと言っていい。
 ファラムンドはぐるりと自分の回りを見回す。後方で戦っていたのはファラムンドとジルヴェスターと他六人だったが、今は四人が怪我をして更に後方に下がっていた。つまり、今戦えるものは前線三人と後方四人の計七人。ファラムンドの血を与えれば怪我の回復はするが、疲労は回復しない。もちろん、ファラムンド自身も。奴隷商人たちの手駒だったのかは分からないが、魔獣たちにとっては彼らも攻撃の対象。ただで殺されてなるものかと彼ら側も対抗していたので頭数は減っているが、まだ十数匹いるし、何故か凶暴性を強めているので先ほど以上に倒すのには骨が折れそうだ。
 ふと気が付くとザナベザたちがこちらを取り囲もうとしている。奴隷商人側は全滅したようで、死体だけがあちこちに転がっていた。
 これやばくない。ファラムンドが苦い表情でもう一度口にしかけたその時、爆発的な魔力が溢れ強風が吹き荒れる。ややあって風がやむと、目を閉じていた一同は慌てて目蓋を持ち上げた。そして、誰もが同じように目を見開く。一体誰が思っただろうか。絶望を抱いた僅か後に、生き残った者たちの目に映るものが希望に塗り換わる、など。



 意識の浮上を感じたクラウドは、同時に自分の身の内に起こりつつある変化に気付いた。過去三〇〇年一度も感じたことのないほど強かった痛みは少しずつ引いて行く。理由を探る思考が動き出したところで、視線が真正面に座り込むディエイラの濡れた双眸とぶつかった。ずっと正面にいたらしい彼女を、クラウドはこの時ようやく認識する。
 口の中でその名を紡ごうとしたクラウドは、自身が彼女の腕に噛み付いていることに気付き慌てて顎の力を緩めた。回復を求める今のクラウドには甘美過ぎる魔力に、一瞬意志と反して体が吸血を止めることを拒んだ。それでも何とか牙を引くと、痛みがあるだろうディエイラは悲鳴も上げず腕を引き俯いてしまう。
 正気を失う直前よりもはっきりと、しかしまだ掠れた声でディエイラの名を呼んだ。しかし返ってきたのは、しゃくり上げながら何度も告げられる謝罪の言葉。
「……大丈夫だ、大丈夫だから、泣くな、ディエイラ……」
 クラウドは力が抜けるに任せて首を前に傾けた。いつも後ろでひとつにまとめていた紫がかった黒い髪の先がディエイラの頬にかかる。それに導かれたように、ディエイラは顔を上げた。宝石のようだと思っていた双眸は、涙に濡れさらに輝きを増したように思える。そうと口に出来ないのは、彼女が自責の念で今にも壊れそうだから。そして、回復を感じつつも未だにそれほどの余裕がクラウド自身にないから。
「すまない、許してくれクラウド。誇り高き吸血鬼の魂を穢す此の蛮行を、どうか許してくれ――っ」
 ぼろぼろと大粒の涙と共にディエイラは許しを請い続ける。自身に何ひとつ責任のない追放すら冷静に受け入れた少女が、今はじめて自分を取り巻く状況に抵抗を示した。それを嬉しいと思ってしまうクラウドの感情を、彼女は知らない。
「……泣くな、ディエイラ……」
 もう一度呟き、クラウドは目を瞑る。自身に訪れたその時≠ヘ、思ったよりも気分の悪いものではなかった。
 ふたつの事象が並行して訪れる。ひとつはクラウドの真下、彼を中心に回転するように現れた光る魔法陣。もうひとつはクラウドの胸から出現しディエイラの胸へと伸びた何本もの鎖。クラウドとディエイラは、お互いの魂と存在が二種の契約で結ばれたことを自覚した。
 魔法陣は、ディエイラの血に含まれる魔力の強さに負けたクラウドの隷属化の契約。鎖は、クラウドの吸血により縛られたディエイラの眷属化の契約だ。互いの信頼関係がなければ即座に破綻するはずの隷属化はクラウドたちの間で途切れるはずがなく、魔力が上であれば抗えるはずの眷属化はディエイラが望んでいるために果たされた。
 クラウドの中で魔力が膨れ上がる。爆発するように身の内から溢れたそれは一瞬で壊れた肉体を魔力に還元し再構築した。服も含めて完全に再生が終了すると、その煽りで魔力が圧となり強風を巻き起こす。
 吹き荒れる風の中、いつの間にか立ち上がっていたクラウドが目を開けた。見上げた先にあるのは青い空。フードがないが、魔力が彼の周りに渦巻き自然と結界を張っているため苦しさはない。
 不意に服を引かれる。同時に引かれたように視線を落とすと、ディエイラがまだ涙に濡れている目で見上げてきていた。何か言いたげに口を動かしているが言葉にはならない。だが二重の契約で結ばれたせいか、彼女の言いたいことが不思議なほど察せる。クラウドは微笑み、その頬を優しく撫でてやる。
「大丈夫だ、ディエイラ。残りを片付けて私たちの家に帰ろう? 話はそこでゆっくりすればいい。時間は十分あるのだから」
 クラウドにディエイラの戸惑いと自責と心苦しさが伝わるように、クラウドの慈しみと安堵もディエイラに伝わったようだ。ぎゅっと唇を引き伸ばすと、ディエイラは浮かんでいた涙を乱暴に拳で拭い、強い視線で頷いた。
「分かった」
 少し震えた声で、しかしディエイラははっきりと言い切る。クラウドの血で汚れてしまっている頭を軽く撫で、クラウドは脱出者たちに向かうザナベザたちに向き直った。腕を払うと、目の前に何匹もの蝙蝠が出現する。
 歩くように蝙蝠たちに乗ると、蝙蝠の足場はクラウドを空へと舞い上げた。その頃には風がやみ、ナリステアたちの視線が全て空のクラウドに向けられている。希望を込めて注がれる幾対もの眼差しの中、クラウドは片手を大地のザナベザたちに向けた。手の平の前に並ぶように現れたのは複数の黒い剣。伸ばした手を払えば、それを合図に生じた全ての剣がザナベザたちに降り注ぐ。一匹に少なくとも三本、多いと六本の剣が突き刺さり、残っていた魔獣たちはその一瞬で全てが沈黙した。
 流れた沈黙。破ったのは、助かったことを遅れて理解した地上の者たちだ。これ以上ないほど大きく歓声を上げる彼らを、クラウドは穏やかな視線で見つめる。
 喜びが溢れる中、背後で瓦礫を打ち付けたような音がした。即座に振り向くと、不機嫌そうなファラムンドが前に回した尻尾を壁に叩きつけている。庇われるように背後に立っているのはディエイラで、尻尾が当たるすれすれにいるのはナイフを持ったアビゲイルだ。
「はーいストップ。それ以上やるなら美人でも容赦しないけど?」
 軽口だが苛立ちが隠しきれない調子でファラムンドはアビゲイルを脅しかける。実はディエイラ同様、ファラムンドも彼女たちドーロ一家に騙され捕らえられたのだ。何度も何度も切り刻まれた怒りは抑えられるものではなかった。
 脅されたアビゲイルは、しかし怯むどころか挑むようにファラムンドを睨みつける。
「この化け物共っ、どうせこのまま帰れないなら一人でも多く殺して死んでやるっ!」
 叫ぶや否や、アビゲイルはナイフを振り回し、腰のポーチから取り出した小瓶を投げ付けた。それらはディエイラが出した障壁に阻まれ、彼女はあっさりとファラムンドに襟首を掴まれ地面に引き倒される。それでもなお暴れるアビゲイルに、ファラムンドは苛つきを募らせた。
「……もういいから殺しちゃおうか、何かマジで腹立ってきた」
 底冷えする声に本気を感じてナリステアが止めようと踏み出すが、それより先に下りてきたクラウドが彼を制する。有能な執事の情報は、やはり間違っていなかったようだ。
「少し待ってくれ。――そうか、そなたたちは迷い人か」
 迷い人、とは、名前の通り別世界から自分の意思に関わらず迷い込んできてしまった者たちの総称だ。だったら何だ、と睨みつけ噛み付いてくるアビゲイルから視線を外し、更に巡らせる。見れば、ゴルヴァが倒れこみぴくりともせず、その彼に縋っているトリストは小刻みに体を震わせていた。クラウドはそちらに歩み寄っていく。
「あたしの家族に近付くなっ!!」
 アビゲイルが一層暴れるが、ファラムンドが強く抑えるため動けない。その間にクラウドはゴルヴァとトリストのそばにやって来た。その横で膝を折ると、トリストが顔を上げる。その表情には最早戦意も敵意もない。子供のように情けなく泣き腫らした真っ赤な目を見てから、クラウドは倒れているゴルヴァに視線を向けた。聞こえてくるかすかな呼吸から、生と死の瀬戸際にあることが窺える。
「――この者たちも連れて行く」
 クラウドの宣言に全員が驚いたり不満を見せたりとそれぞれの反応をした。集まる視線をクラウドはぐるりと見返す。
「他の者が皆死に絶えたのだ、情報を持つ者を逃がすわけにも行くまい。とにかく帰るぞ。風使いの娘、準備を」
 指をくいと上げるとゆっくりとゴルヴァの体が浮き上がった。トリストが戸惑いながらそれに続く。ファラムンドが不満たらたらながらもどいたので、アビゲイルも一目散に駆けて来た。
「……礼は言わないよ」
 警戒するようにアビゲイルが言うと、クラウドは「望んでない」と短く返す。
 全員がひとつの場所に集まると、まず精霊術士の少女が周囲のマナを霊力に変換し始めた。その間にクラウドは魔力を多く注いで半人の姿にした蝙蝠を作り出し、それにこの惨状の報告を任せて飛び立たせる。じきに騎士団がやってくるだろう。クラウド邸の場所も一緒に言付けたので、そちらにも。面倒だが仕方がないだろう。流石にこの案件まで放置は出来ない。これだけ派手に魔力を散らしたので放っておいてもじきに見つかる。そうなった時に余計な悶着を避けるためにも、名乗っておく必要はあった。
 ややあって、少女が霊力の変換を終わらせ、それをクラウドに供給した。クラウドは自身の容量限界まで満ちた霊力を使用し、自らの屋敷へと舞い戻る。後に残ったのは多くの死体と血の臭い、そして吹き抜ける風に揺られる木々のささめきだけだった。