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第八話


 食堂から三室分離れた先にある応接室に通されると、正面に座るフリッツと目が合った。壁際には部屋をぐるりと囲むように騎士たちが立っている。最初からこうなのか、それともディエイラだから特別なのか、今のところ真意を測る術は無い。
「どうぞ、かけてください」
 ディエイラはフリッツに勧められるまま机を挟んで彼の正面の席に着いた。一挙手一投足に注目されているような感覚の気持ち悪さを果たしてこの騎士たちは理解しているのだろうか。
「お名前と種族を」
「ディエイラ。黒角の鬼族だ。姓は里に置いて来たのでご容赦願おう」
 玄関口で一度目撃しているとはいえ、見た目に反するディエイラの落ち着きぶりに騎士たちははじめて会った時のクラウドのような反応を見せていた。フリッツも一瞬虚を突かれたような顔をしたが、すぐに気を取り直して質問を続ける。
「あなたは黒角の鬼族で間違いないですね?」
「相違ない」
「黒角の一族は里にいるはずですが、何故あなたはここにいるのでしょう?」
「里を少し出た際人攫いに遭った。逃げ出した後クラウド――この屋敷の主に救出され引き取られた」
「何故里に帰らなかったのですか?」
「我が里には黒角を持つ者が一度外に出たら二度と戻るべからずという掟がある。里の者も此のことはすでに追放したものと扱っているはずだ。疑うならヴェーチル殿や他の風の精霊に伺えばよろしい」
「それはのちほど確認いたしましょう。……何故国に保護を求めずこの場に留まったのですか?」
「必要がなかった。この屋敷に迎えられ、不便を強いられることもなく、黒角であることに変に気を遣われないという環境は満足するに十分だ」
 滔々と質問に対する回答を重ねるディエイラ。その弁舌に淀みはなく、視線も真っ直ぐにフリッツに向けられたままだ。しかし、次の質問でディエイラは激昂することになった。
「クラウド殿に上手い具合に言いくるめられてここに留まっているのではないのですか? 吸血鬼は人を誑かすのが上手いと聞く」
 質問の体を取っているが、その口振りは最早断定。玄関口で騒ぎを収束させたことから彼に少なからず信頼を抱いていたディエイラは、赤く染まった頭の中からその信頼を掻き消す。
「口を慎むがよいフリッツ殿! クラウドがいかに穏やかで思いやりのある者か知らぬくせに、その口でクラウドを語るな!」
 机を強く叩き前のめりになると、壁際の騎士たちが一斉に警戒を露にした。フリッツはそれを腕で留め、なおも睨みつけてくるディエイラの視線を変わらぬ表情で真正面から受け止めている。
「ですが、この家の使用人の方のお話ではあなたはひと月以上、ふた月近く前にこの家に来ている。その間、近隣の騎士団や警邏隊、自警団など、どこにもその情報は渡されていなかった。この家の執事殿から誘拐犯が近くにいるかもしれない、という情報は来ていたのにだ。これはあなたの存在を隠すために他ならないのではないですか? 黒角の鬼族たるあなたの存在を」
 クラウドが情報の制限をしていたことには驚いたが、ディエイラは決して怯まず反論した。
「此を隠すため、というのはその通りだろう。だが、決して私欲のためにではなく、此のためだ。知れば奴隷商人どもや其らのように此を連れ去ろうとする者が現れるのを、クラウドは分かっていたのだろうよ」
「何てことを! 王国騎士を奴隷商人と一緒にするとは」
 壁際の騎士がさも心外と言わんばかりに大声を出す。ディエイラはその彼を睨みつけた。
「此にしてみれば同じものだ。どちらも此の意思を無視して連れ去ろうとしているのだから」
 きっぱりと言い切られ騎士が更に言い募ろうとするが、隣の騎士に留められ口を閉ざす。落ち着いてみればこの部屋にいる者たちは皆玄関口で騒ぎに便乗しなかった者たちだ。ディエイラたちにあからさまな敵意や疑念は抱いていないが、それでも先の発言は許容しがたかったらしい。しかし、ディエイラには今それを申し訳なく思う心の余裕はない。
「そもそも、此のことを其らに教える義務がどこにある? 黒角の者が屋敷に来たら国に報告せよと法で決まっているとでも言うのか?」
 完全に挑む姿勢になったディエイラに対し、フリッツはあくまで冷静だ。
「そのような決まりごとはありません」
「ならば文句を言われる筋合いは――」
「だが人々の安全と安心に関わることを黙して隠すを良しとは出来ますまい。我らは民の剣であり盾である。危険の種となるあなたを隠していたことを認めることは出来ません」
 危険の種。まるで魔獣のような扱いにディエイラは思わず目を見開き言葉を失う。
「ディエイラ殿、あなたは里に帰れないのであればこの屋敷ではなく国で保護されるべきだ。あなたの――黒角の力は危険すぎる。現に、今回クラウド殿はあなたの誘拐を見過ごしている」
「それは此が勝手に家を出たからで……クラウドはちゃんと助けてくれたではないか!」
「結果論です。もし間に合わなかったどうなっていました? 悪人に買われ、服従の腕輪をつけられ、命じられるまま町や村を破壊し多くの命を刈り取っていた可能性だって十分ある。そもそも、いついかなる時もあなたのそばにクラウド殿がいるとは限らない。ここでは、クラウド殿では、あなたを守れない」
 フリッツは歪みない主張を繰り返す。ディエイラが騎士たちの最終的な目的が彼女の保護であると認識しているのを理解しているので、一切隠し立てることはしなかった。彼女の賢明さがあれば、道理を説けば理解出来るはずと判断したためである。
 しかしその判断は間違っていた。いかに冷静であろうと、彼女はまだ八つの子供だ。
「何と言われようと此はここにいたいのだ。クラウドやミッツア殿たちと一緒にいたい。クラウドだけで守れないのならば此が強くなればよいだけの話だ。大体そんなことを言って、其らが此を利用しない保障がどこにある? 国に保護されたのだから国のために戦えと一生言われないと魂に誓い宣言出来るというのか?」
 小さな指を突きつけると、フリッツは一度瞑目し、首をゆるりと横に振る。
「それは出来ません。国の判断は私に測れるものではありませんので」
「ならば話にもならない。クラウドは此に戦えとは言わない。今回だって、クラウドは戦いに出ようとする此を止めていた」
 結局話を聞かずに飛び出してしまいクラウドに怪我をさせてしまったのだが。思い出して若干苦い顔をするディエイラをフリッツはじっと見据える。ややあって、瞬きと共に顔を下げると、小さく息を吐き出した。
「このままでも平行線なだけでしょうから、一旦話は終わりにしましょう。……最後にひとつ」
 終わりを告げられ席に座り直していたディエイラは、最後との言葉に警戒した様子でフリッツを睨むように見据える。
「あなたにとってクラウド殿は何ですか?」
 単純だが、重大な質問。ディエイラは真剣な面持ちで淀みなく言い切る。
「我が父。我が兄。我が僕。我が主。我が魂に最も結ばれた存在だ」
 ふわりとディエイラの胸から輪になった鎖が現れ、胸の内では隷属の魔法陣が輝いた。真摯な眼差しを注ぐディエイラを沈黙のまま見返し、ややあって最初にフリッツが目をそらす。
「ありがとうございます。二階広間でお待ちください」
 終了の合図。鎖を消したディエイラは何も言わずに部屋から出て、行きとは違う騎士に引き連れられ二階の広間に向かった。途中廊下を見張る騎士数人とすれ違い、二人の騎士に見張られた広間に入る。中ではすでに事情聴取が終わった面々が、使用人たちが用意してくれた軽食を頬張ってゆったりとしていた。
「あ、ディエイラ様。お疲れ様です」
 ディエイラに気付いたミッツアが席から立ち上がり近付いてくる。どうでしたか、と聞こうと途中まで声に出した彼女にディエイラは抱きついた。首元に埋まるディエイラの顔は見えないが、その様子がおかしいのは明らかだ。ミッツアはディエイラを連れて来た騎士を睨みつける。
「ちょっと騎士様! 幼い子供にどんな訊き方したのですか!」
「い、いえ、私は聴取には関わっておりませんので何とも……。ただ、隊長は子供を泣かすようなことをするような方では」
「泣いておらん! 悔しいだけだ!」
 ミッツアに抱きつきながらディエイラが訂正し、絡まれた騎士は困ったような顔をした。それにナリステアが助け舟を出すように「もう行っていい」と言ってやる。騎士は頭を下げて出て行き、今の騒ぎでしんとなった室内の視線はディエイラに集まっていた。もしかして自分たちが騎士たちに彼女の活躍ぶりを告げたのはまずかっただろうか、とそわそわしている。そんな皆の内心など知らず、ミッツアに慰められているディエイラの頭は悔しさと今後の不安でいっぱいになっていた。



 騎士に連れられ応接室に入ると、やけに多い騎士たちに迎えられる。しかし相対すべきは正面に座るフリッツだけのようだ。クラウドは室内に入ると同時に勧められた席に着いた。
「お待たせして申し訳ないクラウド殿」
「いや、人数が多かったからな。フリッツ殿もお疲れだろう」
「大丈夫です、仕事ですので」
 ふっと笑ってフリッツが首を振る。そうか、とクラウドが軽く笑い返してから本題は始まった。
「では改めて。お名前と種族を」
「クラウド・B・ムーンスティア。風の精霊と混血の吸血鬼だ」
「それは珍しい……あなたの精霊術で帰ってきたとの話があったのでおかしいと思っていたのですが、それなら納得です」
 魔力特化の生き物は人間でもウォルテンスでも精霊術は使用出来ない。自身の中の魔力を還元する魔術と精霊の力を借り受ける精霊術では、系統も考え方も扱い方も違いすぎるため、使用しようにも出来ないのだ。もちろんクラウドも本来の意味での精霊術は使えない。風の大剣の召喚などを彼が使えるのは、言ってしまえば「父や知り合いが手を貸す」という縁故による荒業であり、正式には術とは呼べない類のものである。事実、ヴェーチルと交流のない風の精霊は彼に力を貸さない。そのため、魔力の塊である吸血鬼のクラウドが風の精霊の本質を引き継げたことは奇跡に近かった。
「では続きを。あなたは何故あの建物に行ったのですか?」
「攫われたディエイラを助けに」
「我らや自警団などに応援を頼まなかった理由は?」
「時間がなかった。消えかけた痕跡を追わなければならなかったので、焦っていたのだ」
「あの場で何をしていましたか?」
「最初は侵入を。ちょうどディエイラたちも脱出していたので地下室に入ってすぐに合流した。その後は外に出たのだが、敵が放ったザナベザたちに襲われたので交戦になった。その後何とか退け、帰還した」
「ディエイラ殿と契約をしているようだが、その内容と時期は?」
 フリッツの目の色が変わる。どうやらディエイラを見て本題がこちらに逸れてしまったらしい。仕方ないことだ、と内心で納得を示しながら、クラウドはしっかりフリッツの目を見返した。
「内容は私がディエイラに隷属するものとディエイラが私の眷属となるものだ。ザナベザ戦の際、ドーロ一家が使用した何らかのアイテムのせいでディエイラの術が反射され、それをまともに受けて死にかけた。その時、ディエイラが私に血を飲ませたのだ」
 隷属化と眷属化の仕組みについては割愛したが、フリッツは難しい顔で頷いている。唸るように「そうですか」と返された。気の弱い者が聞いたら地雷を踏んだかと怯えさせるに十分な対応だ。
「使用人の方に聞くと、ディエイラ殿はふた月ほど前からこの屋敷にいるとのことですが、何故我々に報告が来なかったのでしょう? 調べたところ、あなたはこれまで、それこそ私が生まれる前から近辺に危険なことがあったら必ず騎士団に一報入れていてくださっているのに」
 遺憾極まりないといった様子で、咎めるような視線を向けられる。だがクラウドは即座に首を振った。
「それについては申し訳ない。そなたらにディエイラのことを黙っているよう命じたのは間違いなく私の意思だ。そなたらに報告すれば間違いなく連れて行かれるのは分かっていたのでな。……だが、狭い部屋で本と向き合うことしか出来なかった娘がようやく手に入れた自由なのだ。守ってやりたいと思った。使用人たちとも仲良くしているし、笑顔でいられる場所に居させてやりたかった」
 思い出される彼女と過ごした日々。日の光の下で明るく笑い駆け回り、夜は見たこともない本に目を輝かせていた彼女の幸福な日々は、クラウドにとって守って然るべきものなのである。
「しかし」
「それと」
 言い募ろうとするフリッツをクラウドは少し大きな声で留めた。目には抑えきれない不快が映っている。
「私は『危険なこと』は確かにそなたらに伝えさせているが、何故それとディエイラが関係ある? 彼女の何が危険だと仰るか?」
 険しい眼差しを向けられても、フリッツは目を逸らさないし言葉を誤魔化しもしなかった。
「クラウド殿、分かっているはずだ。いや、魔力の結晶たる吸血鬼であるあなたは分かっていなくてはいけないはずだ。黒角を持つ者は余すことなく危険な存在だと。彼らの持つ魔力とそれによって放たれる術は並みの騎士団なら一瞬で壊滅出来るほどのもの。そんなものを放置しておくべきではない。里による保護がないのであれば、国の然るべき保護を受け、悪しき者から遠ざけるべきなのだ。クラウド殿、あなたは今回の件で身をもって知ったのではないですか? あなたではあの黒角の娘は守れない。あの娘は、いや黒角の一族は、自由になればなるほど悪人を引き寄せ民を危険に巻き込む。そんな危険な存在を――」
「黙られよ、フリッツ殿」
 徐々に熱を込もっていく弁をふるっていたフリッツは凍りつくような声と殺気に反射のように口を閉ざす。その反対に燃え滾るような怒りを灯す目は、経験を積んだ歴戦の騎士たるフリッツの本能が逃げ出すことを訴えるほど凄絶さを醸していた。だが、本能に勝るプライドが、彼を奮い立たせる。
「黙りません。私には義務がある。民を守るという義務が。何の確証もなく守るべき民の安全を妨げる種を見過ごすことは、私が剣を置くことと同義だ」
 負けじと意思を群青の瞳に燃やすフリッツと相対し、しばし沈黙を返したクラウドは短い溜め息と共に自身の眉根を揉んだ。
「……失礼。気が立ちすぎた。そなたの言いたいことは分かる。守るべき相手のために奮闘するそなたの姿勢は感服に値する。だが、私にとってそれはディエイラだ。そう物や魔獣のように扱われると非常に不快だ」
 クラウドが努めて冷静であろうとしているため、殺気が消えた隙に息を整えたフリッツは同じく冷静を努めて頭を下げる。
「こちらこそ失礼しました。一個人ということを失念していたのは私の失態です。どうぞご容赦を。――しかし、彼女に十分な守りがないと危険なのは申し上げた通りだ。そのことについてはどうか理解していただきたい。たとえ国の保護になっても閉じ込めることはしないし、あなた方も可能な限り会いに来られるよう最大限打診いたします」
 真摯に注がれる視線を正面から受け止め、クラウドは考えるように視界の向きを上に変えた。室内を灯す照明用の魔法具の輝きをしばし見つめてから、改めてフリッツと目を合わせる。
「断る」
 きっぱりと告げられた一言にフリッツは理解出来ないものを見るような目をクラウドに向けてきた。だがクラウドは彼がそうした理由がよく分かるので何も不快には思わなかった。もしも逆の立場なら、実際理解出来ない。これだけ現実に起こり得る危険を語られ、それを理解していながら断るなど、正気の沙汰ではないと思うはずだ。
 しかし彼にとって残念なことに、クラウドは全くの正気である。
「ディエイラが望まないのであれば私は彼女を保護し続ける。私が弱いというのならば強くなればいい。彼女にも護衛をつけよう。他にも必要であればそれを行う。私は、あの娘の不幸は望まない」
 言い切るとクラウドは口を閉ざした。何か反論があれば聞き、その上でこちらも反論するつもりでいる。理屈の通らない感情論で説得出来るとは思っていないが、彼女をむざむざ手放すつもりはなかった。
 しかし、待てどもフリッツは次の言葉を発さない。何故、とクラウドが思考を巡らせ始めてから、彼は深い深い溜め息をついて目元を手で覆う。
「……ディエイラ殿にも言いましたが、これ以上は平行線のようだ。今日はこの辺りにしましょう。この件は国に報告しておきます。後の処遇はまた後日。どうぞ、皆様の元へ」
 聞き分けのない子供を相手にしている気分なのだろうか、フリッツの声はすっかり疲れ切っている。最悪はこの世界を出る必要すらあるなと思考を巡らせながらクラウドは退室を告げ扉に向かった。
「クラウド殿」
 背後から呼びかけられる。騎士の一人が開けてくれた扉から出ようとしたクラウドは半身を外に出した状態で振り返った。フリッツの視線はやはり真っ直ぐに向かってきている。
「最後にお伺いしたい。あなたにとってディエイラ殿は何ですか?」
 短いながらも重大な質問。クラウドはふっと微笑んだ。その途端に胸から鎖が現れ、胸の奥に魔法陣が輝く。
「我が愛し子。我が妹。我が主。我が眷族。我が魂に最も結ばれた存在。……私が、最も幸せに生きることを望む者だ」
 言下クラウドは部屋から出て行く。残されたフリッツは組んだ手に頭を押し付け沈黙し、同室に残る騎士たちは物言えぬ空気に耐えその場で直立を貫いた。
 クラウドが二階の広間に入ると、すぐにディエイラが抱きついてくる。彼女の不安が契約を通して伝わってきたので、クラウドは彼女を抱き締め返してやった。引き離される可能性のあるクラウドとディエイラを見て、ミッツアをはじめとした室内の者たちは同情や哀れみ、騎士への怒りなど様々な感情を抱く。
 そんな彼らを取り巻く事態が僅か一週間後に一気に変わることになるなど、この時誰が予想出来ただろうか。



 事情聴取が終わったため、その日の内に捕らわれていた者たちの帰還許可が出された。時間も時間であったため、その翌日からクラウド邸に留まっていた者たちは順次帰り始める。誰もがクラウドに感謝を、ディエイラに激励を伝えていた。皆ふたりが心配であったのだが、彼らも誘拐された身。早く帰り無事を知らせたい者たちがいる。クラウドたちもそれを分かっているので笑顔で彼らを見送った。なお、送迎は騎士団が名乗り出たので彼らに任せている。唯一の例外は風使いの少女だろう。彼女はたっての希望でヴェーチルに送ってもらっていた。本来なら断っていただろうが、家にいると決めてから雑用で出かけることを唯一の楽しみとしているヴェーチルにはありがたい話だったようだ。……母が嫉妬で二日も黙り込んでしまった弊害つきだが。
 そして事情聴取の日から一週間目の朝を迎えたこの日、未だにクラウド邸にいるのはナリステア、ファラムンド、ジルヴェスターの三人だった。ナリステアとファラムンドは急がないからと、ジルヴェスターは帰りたいけど気になるからと、クラウドたちの結末を見届けるべく滞在を続けている。
「今日で一週間かー。意外に国でも揉めてるのかな?」
「どうやって拘束するか考えてるんじゃないの?」
 カレンダー機能も備えているという懐中時計を見やってジルヴェスターが口に出すと、ミッツアに茶を注いでもらったついでにちょっかいをかけていたファラムンドがさらりと返した。その内容が内容のためミッツアに怒られるが、へらへらと笑って受け流す。
「旦那。いざって時はあたしを雇いな。ディエイラの護衛くらいいくらでもやるからね」
 そういう彼女の膝の上には当のディエイラがいる。尻尾をモフるため自ら乗ってきたのだ。最近不安なのかこうしてナリステアの尻尾にうずまりに来ることが増えた。
「ありがとうナリステア殿。その際は報酬を弾もう」
 昼食後の談話室とは思えないほどその空気はどこか重苦しい。かといって、誰も空気を明るくしようという試みはしない。する気になれない、と言った方が正しいだろうか。
 いつも通りミッツアが入れる茶を飲み特に何をするでもない時間が刻々と過ぎていく。事態が変わったのは時計の針が緩く過ぎる時間の終わりを告げようとした直前だ。知らせを持って来たのは寄り添いあったヴェーチルとリンダ。
「クラウド〜、この間の騎士隊長?さん、家の近くまで来てるわよ〜」
「今日は少人数だね。五人ぐらいで、随分馬を飛ばして来てるね〜」
 進展がないと言った直後の進展。一瞬で室内に緊張が走る中、相変わらず我関せずな夫婦は「伝えたからね〜」とその場から離れてしまう。クラウドはソファから立ち上がった。
「皆はここに。ミッツア、クーガルに騎士たちが来たことを伝えて来てくれ。私は玄関で出迎える。応接室に通すので準備を」
 言うが早いかクラウドはすぐさま部屋から出て行く。遅れてミッツアも部屋から出ると、残された面々は顔を見合わせ、すぐさま応接室の隣の部屋に向かった。
 そんなことも露知らずクラウドは玄関を開け放つ。この日の日差しは強烈で、日よけと魔力のガードがあっても厳しい。仕方なくクラウドはひさしの下で足を止めた。それから少しもしないうちに馬の早駆けの音が聞こえてくる。更に少し待つと、両親の情報通りフリッツが四騎の部下を引き連れやって来た。門を入ってくると、フリッツは玄関先で馬を乗り捨てる。馬の手綱は後ろの部下がすぐに取った。あまりの焦りぶりにクラウドは眉をひそめる。
「フリッツ殿、そんなに急いでどうし――」
「何をしたのですか?」
 勢い込んで尋ねられるが、心当たりがまるでないクラウドは返答に窮した。その様を見て冷静になったのか、深い呼吸をしたフリッツは軽く頭を振る。
「……いえ、失礼しました。結論が出ましたのでお話させていただきます。申し訳ないが以前と同じ土の厩を作っていただけますか?」
 よく分からないが、すぐに分かるはずだとクラウドは抱いた疑問を脇に置いた。承知した、と返答すると同時に以前作ったものより小振りで屋根の幅が広い檻を作る。馬を留め終わった騎士たちを、クラウドは応接室に通した。そのタイミングでミッツアが冷たい茶を出しに来たので、彼女が退室するのを待ってフリッツは話を始める。
「まずは結論から」
 言いながら、フリッツは腰の袋から質の良い作りの筒を取り出した。クラウドがそれに視線を向けていると、中から書状が取り出され、フリッツがそれを上下に開く。長く文字が書かれているため即座に内容を把握することは出来なかったが、書状の頭にある紋章は月桂樹の葉をモチーフにしたもの。――この国の王のみが使用することを許された王の紋章だ。心臓がばくばくと鳴り始める。読み進めたいのに落ち着かなくて文字が頭に入ってこなかった。しかしその内容はフリッツによって口にされる。
「『黒角の娘ディエイラは、クラウド・B・ムーンスティアの養子となることを前提に、その自由を認めることとする』」
 反射のようにクラウドの両目が見開かれた。隣の部屋で何か動く気配がしたので騎士たちが気にした様子を見せるが、誰も見に行こうとはしない。恐らく誰がいるのか分かっているのだろう。
「……認め……る? 国が、ディエイラの自由を……?」
 自らの耳で聞いた事が理解出来ないでいるクラウドに、フリッツは丸めて筒に戻した書状を渡した。クラウドは反射のようにそれを受け取り信じられない様子で見下ろす。フリッツは咳払いをひとつし、内容の補足を行う。
「書状に書かれているが、陛下はとある取引をされてディエイラ殿の自由を認められた。私個人としてはやはり認めがたいが、国が決めた以上は従うし、可能な限り協力しよう」
 諦めたように、しかし友好的にフリッツは微笑んだ。それに有り難さも感じるが、クラウドは別のことが気になった。
「その、陛下がした取引とは?」
 恐らくその内容も書状に書かれているが、とても今の状態では書状の中身を理解出来る気がしない。フリッツもクラウドが戸惑っていることに気付いているようで、嫌な顔もせずに問いに答える。そしてその内容に、クラウドと隣の部屋で聞いていたディエイラは驚愕し、同時にクラウドは何故フリッツが来た時「何をしたのか」と訊いてきた理由を理解した。
「黒角の一族が、国最大の有事の際は協力すると申し出てきました。その代わり、ディエイラ殿を自由にするように、と」
 黒角の一族が――。クラウドは言葉を失う。ディエイラ曰く彼らは里が無事なら外部のことなど気にしないという考えらしい。その黒角の鬼族が彼らにとっては「外部」の扱いである国に限定的とはいえ協力すると宣言した。
 頭がようやく情報に追いつき処理を終わらせる。途端に、クラウドは全身の力を抜いて椅子にもたれかかった。
「……そうか――そうか――!」
 心底安堵したような笑みをこぼすクラウドに、フリッツも肩を竦めながら苦笑する。
「それでは我々はこれで。何かあれば必ず頼ってください。あなた方のためにも、民のためにも」
 立ち上がったフリッツが机の上から手を差し出してきた。同じく立ち上がったクラウドはその手を握り返す。
「ああ、ありがとうフリッツ殿。恩に着る」
 少しの間お互いの手を握り合ってから、どちらからともなく力を緩める。完全に離れると、フリッツは手で合図を送り部下たちを外に出し、自分も外に出た。
 クラウドの案内で一同は玄関に向かい、順に檻に入って自分の馬を引き連れて出てくる。全員が出ると同時に土の檻は役目を終えて元の土に還った。ひさしの下でクラウドとフリッツが改めて相対する。
「それではこれにてお暇させていただきます。ああ、ドーロ一家についての報告書をまた後日提出させていただきます。失礼」
 挨拶を返しながらクラウドは更なる手間に謝罪と謝意を伝えた。フリッツは馬上から笑って頷くと部下に号令をかけ転身する。
「フリッツ殿!」
 門に向かって駒を進めるフリッツに突然二階から声がかけられた。馬を止めて見上げれば、窓からディエイラが身を乗り出している。
「先日は失礼した。それと今日は報せをありがとう!」
 今でもあの日の彼の発言を思いだすと正直腹が立った。けれど、それとこれとは話が別だとディエイラは判断している。素直に伝えたディエイラに、フリッツは笑みを浮かべて手を振り返した。再び進みだす一同を、今度は誰も止めずに見送る。
 騎士たちの姿が完全に見えなくなってからクラウドは建物内に入った。すると、二階からディエイラが駆け下りてくる。その後ろからは安堵した様子のナリステアたちがゆっくり降りてきた。
 ディエイラはクラウドに近付くと力いっぱい飛びつく。それをしっかり抱きとめると、腕の中でディエイラが強張った表情をしてすがり付いてきた。
「クラウド……書状を見せて貰えるか?」
 書状を持つ手に小さな手が近付いて来たので、すぐにそれを渡してやる。ディエイラは筒から紙を取り出すとすぐにそれに目を通した。何度か目を行き来させたディエイラが不意に止まる。
「……父上……」
 ぼそりと呟かれた言葉は寄り添われたままのクラウドにも追いついたナリステアたちの耳にも届いた。
「ちびっ子の親父さんがどうしたの?」
 ファラムンドが手紙を覗き込みながら尋ねる。問われたディエイラが指差すのは文章の半ばにある人の名前。
「先の条件の申し出主は、此の実の父だったらしい。……今更、何だというのだろう。今更、こんな……」
 震える手が今にも手紙を握り潰しそうなのでファラムンドがさっとそれを引き取り自分で読み始めた。ジルヴェスターも隣からそれを覗き込む。ナリステアは少々呆れた顔で彼らを見ていた。
「ディエイラ」
 小刻みに震えているディエイラをクラウドは腕で包み込んだ。
「そなたが実の親に愛されていたのだと知って安心したよ。これは、掟のため見送るしか出来なかった父君から送られた餞別と受け取るべきだ。……堪えるな。素直に喜ぶといい」
 ぽん、と優しく肩を叩くと、ディエイラの双眸にはじわりと涙が浮かび、次第に表情は崩れていく。溢れてきた嗚咽は、ほんの少しの間で泣き声へと変わった。声を払って泣く彼女を、クラウドは慈しみを持って抱き締め続ける。