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 かち、かち、と時計の秒針の音だけが響く部屋。柔らかい素材で作られた小さな家に、たくさんのぬいぐるみ、足の低いテーブルの上には人形たちが並んで座っている。それらの持ち主である小さな少女は、彼女には大きなベッドの中ですぅすぅと寝息を立てていた。
 そのまま続くと思われた、穏やかに過ぎる時間。不意に終わりを告げたのは、もぞりと動き出した枕元に置かれているニワトリのぬいぐるみだ。閉じられていた大きな丸い目がぱちりと開き、ニワトリのぬいぐるみはすっくとその場に立ち上がる。そして、綺麗に縫われた丸い柔らかな翼を天井に向けた。どこに入っているのか、大きく息が吸われる。
「こーけこーっこー」
 想像よりもずっと小さい声でぬいぐるみが鳴いた。少女は微かに身じろぎするが、まだ起きる様子はない。すると、ぬいぐるみは再びその場で鳴きだした。今度は先ほどよりも大きな声で。まだ起きなければ、二度、三度、とそれを繰り返す。徐々に鳴き声が大きくなる中、ようやく覚醒した少女は鳴き声を認識するや否やぱちっと目を開け布団から飛び起きる。
「おはよールット! ボニト起きたよ!」
 小さな両手でニワトリのぬいぐるみことルットを抱き上げ、少女――ボニトはルットに声をかけた。次の鳴き声の準備に入っていたルットはゆっくり両翼を下ろす。
「おはよーボニト。おはよーボニト」
 挨拶を返すルットに軽いキスをして、ボニトは友達を抱えたままベッドから降りた。まだ少しボニトには大きいベッドから降りる時はいつもトンッ、と軽い音がする。心配性の父は最初にこのベッドを買い与えてくれた時脇に階段をつけようとしてくれていたけれど、ボニトが実際に危なげなく上り下りするのを見てそれはやめてくれた。
「ボニト髪凄いね。ボニト髪凄いね」
 腕の中でボニトを見上げるルットが片翼をぱたぱたさせると、その先が三つ編みに編まれた髪の先とぶつかる。
 いつもふたつにまとめている水色の髪は、今は首の横でひとつにまとめられ、緩い三つ編みが編まれている。夕べ母が綺麗に整えてくれたのだが、寝ている間にすっかりぐちゃぐちゃになってしまっていた。年頃であればそんな髪にため息の一つもつくところであろうが、まだまだ幼い少女にとっては、父母や親しい人たちが朝から自分に構ってくれる嬉しい理由でしかない。
 なので、ほんの2週間ほど前にせいとうさいで父母からもらったばかりの魔導人形の小さな友達に、ボニトはにっこり笑いかける。
「いいの。今日はね、リーゼちゃんがおとまりしてるからリーゼちゃんが直してくれるの」
 リーゼちゃんことリーゼロッテ・アベーユは母の昔の生徒であり、今は王都の診療所で働いている女性だ。赤紫の髪と目を持つ彼女は容姿に恵まれスタイルがよく、幼いボニトの「綺麗」の代名詞である(ちなみに、母・マーシャはボニトにとって「可愛い」の代名詞だ)。
 普段から彼女はボニト達ミスカ家の家によく泊まるのだが、昨日はいつもとは少し違った。
 聖冬祭が終わればすぐに年が明ける。本来は一日に新年のお祝いがされるのだが、ボニト達ミスカ家が盛大に新年を祝ったのは年が明けて3日経った昨日のことだ。というのも、昨日の客人たちが、皆それぞれ年始においそれと休めない職に就いているためである。
 客人は全部で5人。1人目がリーゼロッテ、2人目は彼女の弟で何でも屋のロナルド、3人目は騎士の職に就いているジーン・T・アップルヤード、4人目は彼の妹のユーニス・F・アップルヤード、5人目はジーンの従者のフィオン・ペルセギドル。父母の年若い、そして、ボニトの年上の友人たちだ。年末年始には、患者の絶えない医者も、稼ぎ時の何でも屋も、警戒の必要がある騎士も、由緒ある実家の伝統ある行事に参加する令嬢も、主が仕事中の従者も、休みなど取れなかった。
 それを心配したボニトの父・アドルフが彼らに年始のお祝いをミスカ家でやらないか、と声をかけたのが昨日の始まりである。気心知れたメンツしか集まらない、とあって、声をかけた全員がパーティには参加した。特にはしゃいでいたのは、意外なことにいつも落ち着いているユーニスであった。ジーン曰はく、堅苦しいパーティにばかり出ているからこんなに気を抜ける場所がないんだろう、とのことだった。父にそう話しているのを聞いたボニトだが、いまいち内容はよく分からなかったし、今も実は分かっていない。ただ、とにかくユーニスは笑ってくれた。ボニトにとって大事なのはそこだけである。
 とん、とん、と軽い音を立ててゆっくり階段を下りきると、リビングからはふわりと鼻をくすぐる美味しそうな匂いが漂ってきた。焼きたてのパンの匂いだ。背伸びをしてドアノブに手を伸ばし、軽い金属音を立てたドアを押し開ける。中に踏み入ると暖められた空気が一気にボニトの小さな体を包み込んだ。知らない間に強ばっていた体の力が自然と抜けていく。
「おっ。おはようボニト。早起きさんだね」
 ボニトに気付いてキッチンから声をかけて来てくれたのは両手でパンの乗ったプレートを抱えている父だった。奥にいた母もボニトに気付き笑顔で挨拶してくれる。
「おはようおとーさん、おかーさん」
「おはよう、おはよう」
 同じような明るい笑顔と挨拶を返し、ボニトは少し早足でキッチンに向かった。
「いいにおいだねー。今日のあさごはんなーに?」
 ぴょんぴょんと跳んでキッチンの上を眺めようとしていると、プレートを置いた父が温かい両手で抱っこしてくれる。一瞬で上がった視界の中には朝食のメニューがずらりと並んでいた。
「ボニト、何が並んでるかお父さんに教えて」
「えっとね、パンでしょ、サラダでしょ、ハムでしょ、スープでしょ、卵でしょ、あとね、あとデザートもきっとあるの」
 目を輝かせて小さな両手を軽く指を交差させるように合わせた愛娘に、アドルフは柔らかい表情を浮かべる。
「凄いな、ボニトはエスパーなのかな? お父さんちゃーんと果物とヨーグルトを用意してるんだよ」
 ぐりぐりと合わせた額を押し付けると、ボニトは嬉しそうな歓声を上げて父の首を抱きしめた。そんな仲睦まじい夫と娘の姿を、マーシャは微笑ましく見つめている。
 その時、不意にリビングの扉が開いた。間を空けて入ってきたのは眠そうな顔をしているリーゼロッテとすっきり目が覚めている様子のユーニスだ。印象は180度違うが、どちらも身支度は整えられていない。庶民な上幼い頃からミスカ家と交流のあるリーゼロッテはともかく、貴族のユーニスがこうもだらしなくしている姿は実はかなり珍しい。それだけミスカ家が気を抜ける場所だ、という証明であるため、ミスカ夫妻はじめ、この家に集う者たちはこの姿をからかったことは一度もない。彼らは皆、名門と名高い貴族の役割をしっかりこなすこの少女の努力と気苦労を知っている。
「おはよぉ。ごめんねー、寝坊しちゃったぁ」
「おはようございます皆さま。起きるのが遅くなりまして申し訳ありません」
 こちらも180度違う様子で、しかし全く同じ内容を謝る客人ふたりに、マーシャはくすりと笑った。
「おはようリーゼ、ユーニスちゃん。気にしなくていいのよ、ふたりともお客様なんだから。それに今日はお休みでしょう? もう少しゆっくりしていていいのよ。ご飯の準備ももう少しかかるし」
 マーシャに気を遣われると、2人はならばその残りを手伝うとキッチンに来ようとする。だが、リビングとの境目まで来ると、同じく向かってきていたアドルフにボニトを差し出されてしまった。抱っこされる相手が代わる、とすでに確定事項になっているらしいボニトは、半身を捻って片手を伸ばしている。そんなボニトを無碍にすることは出来ず、リーゼロッテは反射的に彼女を受け取った。肩に手を置く小さな体を抱っこし直すと、腕の中のボニトは期待のこもった眼差しで笑顔を咲かせる。
「リーゼちゃんユーニスちゃん、ボニト今日おしゃれさんがいい」
「おしゃれさん、おしゃれさん! ボニトおしゃれさんになるの」
 リーゼロッテやユーニスなど女性陣が泊まった次の日のボニトの楽しみには、彼女たちに可愛くしてもらうことだ。昨日の夜から――いや、彼女たちのお泊りが決まった日からずっと楽しみにしていた。ボニトに視線を向けていたリーゼロッテとユーニスはちらりとアドルフに視線を向ける。迎えてくれたのは余裕の笑顔。
「君たちには大任を任せよう。俺の娘をおしゃれさんに仕立て上げて来てくれ。頼んだよ」
 軽く肩を叩かれ、リーゼロッテとユーニスは今度はお互いに目を向け合い、気が抜けたように笑った。
「はーい。じゃあまずは顔洗ってきましょうか」
「わたくしが持ってきた髪飾り貸して差し上げますね、ボニトさん。ルットには服につけていたリボンを貸してあげます」
「おねがいしまーす!」
「お願いします、お願いします」
 きゃっきゃとはしゃぎながら娘たちがリビングから出ていく。残されたミスカ夫妻は穏やかな様子で笑い合い、再び朝食の準備を続けた。