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第二話


 ディエイラを引き取ってから早くも一ヶ月以上が経過する。昼夜が逆転した生活をしていたクラウドは彼女に合わせ日中に行動し夜に眠るようになっていた。昼夜交代で仕事をしていた使用人たちも今は主の生活に合わせて昼のみの仕事となっている。昼に行動するクラウドにディエイラは疑問を抱いていたが、混血という事実は彼女を説得するのに実に役に立ってくれた。完全には信用していないかもしれないが、使用人たちにも言わないようにと命じてあるため彼女が真実を知ることはないはずだ。
 そんな彼女は好奇心こそ強いが同年代と比較すると圧倒的に落ち着きを持っているため、子供がやりそうな騒ぎを起こすことはなかった。しかし、ひとつだけ例外がある。それは――。
「クラウド様ぁぁ」
 足音高く薄暗いクラウドの書斎に駆け込んできたのはミッツアだ。半泣きの彼女が両手で守るように抱え込んでいるのは洗濯籠。洗濯済みのようでしっとりとしているのが見て分かった。またか、とクラウドは隣の執事――クーガルと顔を見合わせる。真実の目と呼ばれる人工物が埋め込まれた右目は無機質な反応だが、緑の左目はクラウドと同じ呆れと微笑ましさと複雑に混ぜていた。
「ディエイラ様を止めてください! いくらお止めしても聞いてくださらなくて……!」
「見つけたぞミッツア殿。さぁ、大人しく此にそれを渡すのだ」
 同じく駆け込んできたディエイラは意気揚々と両手をミッツアに差し出す。言葉だけ聞くとまるで追いはぎだが、このひと月の経験から察するに――。
「また手伝いをしているのか、ディエイラ?」
 問いかけると、ディエイラは牙を見せて頷いた。吸血時のクラウドほどではないがそれなりに長い彼女の牙のような犬歯は、口角が上がると簡単にその姿を表に出す。その表情にはすっかり年相応の明るさが定着していた。
 出会った時は痩せ細っていた彼女だが、満足な食事を取り駆け回る日々はその回復と成長を十分に助けているようだ。今のディエイラはふっくらと子供らしい体型になっている。
「うむ。しかしミッツア殿は頑なでな。他の使用人殿たちは手伝わせてくれるのだが、彼女だけは中々手伝わせてくれない」
 困ったものだ、という風にため息をつくディエイラ。察したミッツアは半泣きで「困ってるのはこっちですからね!」と叫んだ。何だかんだで仲の良い様子を見せる少女たちに、クラウドは軽く肩を揺らし、クーガルはふぉっふぉっと髭を揺らし笑う。
 この屋敷にいる使用人はクーガルとミッツアを含めた五人。その内四人がすでに彼女の唯一子供らしい我侭を――「手伝いたい」という欲求をそのままに受け入れていた。現在必死に抵抗しているのはミッツアだけである。もちろん、他の者も最初は主人であるクラウドが同等として迎えた彼女に手伝わせるのを避けていた。しかし、ある時彼女が不意にこぼした過去を聞いてからは「とんでもない」「申し訳ない」という感情を封印している。
『此は一族でも魔力は中の中。だが物覚えは良かったのでな。里の歴史の語り手として育てられていたのだ。だから、ほとんど外に出たことはないし、生活と里の運営に必要な動作と勉強以外したことがない』
 本人としては特に気にしていることではないらしく、そう言っていた時もあっけらかんとしていた。ただの昔話、というように。その後クラウドが彼女の我侭を聞け、と使用人たちに命令したことはない。彼らは自分の意思で彼女がようやく得た自由を尊重したのだ。
 ではミッツアがそうではないのか、というと、それは話が違う。使用人の中でディエイラを一番気にかけ遊んでいるのは彼女だし、ディエイラも彼女に懐いてよく近くにいた。ただ、まだ年若い上素直すぎる額の目のせいで前の職場を追い出されたミッツアには、自分の仕事を素直に明け渡すことが出来ないのだ。聡いディエイラはそれも分かっているだろう。お互いがお互いの事情を分かった上でのやり取り。であるなら、クラウドたちが止めるのも無粋だ。
「さて若様、先ほどの続きですが――」
 クーガルが会話を再開させたためクラウドもそちらに向き直る。扉の近くではミッツアがショックを受けたようにこちらを呼んでいた。その隙をつかれ、飛び上がったディエイラが洗濯籠を奪取する。すっかり体力が戻った今のディエイラの身体能力は、鬼族としての素質も助け十分高い。
「これは此が貰ったぞ!」
「ああっ、ディエイラ様ひどいです!」
 大声を出し合いながら少女たちは部屋から退散して行った。まるで嵐だ、とクラウドは笑いをこぼした。その様を見やるクーガルはにこにこと嬉しそうにしている。
「……何だ?」
「いえ? ただ最近若様に笑顔が増えたと思いまして。喜ばしいことです」
 言葉通り心底嬉しそうにするクーガルにクラウドは照れて口元を隠した。色々と体をいじっているが、人間であるこの執事はクラウドよりもずっと年下だ。にも関わらず、精神的には見た目通りの年齢差があるようである。寿命が違えば精神の成長具合も違う。いつか言われた言葉はまさにその通りだと思った。
「そ、それより先ほどの話だろう。……ディエイラを攫ったのが別世界≠フ者の可能性が高いというのは間違いないのか?」
 少し低くなったクラウドの声音に混じるのは怒り。クーガルも笑みを抑えて神妙な顔で頷く。
「はい。最近この地域で人攫いが増えたらしく、警邏に捕らえられた者の話だと別世界の者が主犯だと」
 寿命相応の年の功と社交的な性格から、クーガルの人脈はクラウドの比ではない。その彼が得てきた情報が間違いであることは少ない。クラウドは思案顔で視線を落とした。
 クラウドたちが住まうこの世界は、創霊という高位の存在によって作られた「エスピリトゥ・ムンド」といい、唯一ある大陸は「エスピリトゥ・テレノ」という。世界と世界の間にたゆたう世界であるため、他の世界との往来も可能である。出て行く者も入って来る者も、正邪で拒まれることはないため、他世界との移動手段を持つ者が商品欲しさに踏み入ってくる可能性は十分にあった。
「……黒角の鬼族の里とこの地までは距離があるはずだが、ディエイラが森で倒れていたということはこの付近に来ていたのだろうな。まだいるかは分からないが、騎士団に連絡を入れておいてくれ。ひとまずディエイラのことは言わなくていい。誘拐された娘を保護すると乗り込んでこられても面倒だ」
 承知しました、と一礼し、クーガルは書斎から出て行く。ひとり残されたクラウドは本棚の横にある椅子に腰をかけた。深いため息が漏れ出る。領主でなければ騎士でもなく、まして警邏でも自警団でもない。クラウドに出来ることは今のところ情報を渡すだけだった。今までも問題があればそれで済ませてきている。――それが歯がゆいと思ったのははじめてだ。
 彼らが再びディエイラを狙うのなら容赦するつもりはない。平然としているが、今でもディエイラは茂みが揺れると怯えて近くにいる誰かの服を無意識に掴んでいる。時折ひとりになると何か置いてきたものを気にかけるように辛そうな顔をする。その様を見て心に怒りが湧かないほどムーンスティアの情は浅くない。
 しかしそう思いながら、クラウドはもうひとつ矛盾する思考に捕らわれていた。
「そやつらがいなければ、ディエイラは追い出されずに済んだ。だが、そやつらがいなければ、私たちが彼女に出会うことも、彼女が日差しの下で笑うこともなかった――」
 誘拐犯たちは許せない。それは間違いない感情である。だが、現状の楽しさを認めるが故、完全にその所業を憤慨することが出来ない自分がひどく情けなかった。
「誘拐犯の話を伝えられる者の存在を隠している時点で、褒められたものではないか……」
 クラウドは頭が回らないわけではない。彼は近隣の平和のためにディエイラの存在を騎士団に伝え、その知りうる情報を明け渡す必要があるのを十分に理解している。子供とはいえディエイラであれば自身が置かれた状況をしっかりと把握していたはずだ。そう考えると、彼女の持つ情報は大変重要だろう。しかし、それを行うつもりになれなかった。自身が嫌だ、という思いももちろんある。だがそれ以上に、そうすることで、ディエイラを二重に苦しめる可能性があるから。
 ディエイラがただの天涯孤独の少女であれば騎士団も考慮してくれただろう。だが、彼女は黒角の鬼族。ひとりいれば戦況が覆るとも言われる存在は、里に固まっているから見逃されてきた。それが外に出て、誰か個人の手元にいる。恐らく国は看過しない。ディエイラは十中八九国に引き取られることになるはずだ。
 そうなったら、国はまず誘拐犯たちのことを彼女に問うだろう。ディエイラはきっと拒まず、いつも通り平静に問われたことに答える。本当は内心怖くて仕方ないはずなのに、彼女は訪れることを受け入れるのだ。誘拐犯たちから逃げ出したのだって、クラウドが認識する彼女の性格からすれば奇跡に近い。
 そしてもうひとつは――これはただの自惚れかも知れないが、素直な笑顔で過ごせるこの屋敷から強制的に出され、またひとりになってしまえば彼女は再び寂しさに襲われる。もしかしたら今度こそ笑えなくなってしまうかもしれない。そんな未来は彼女に相応しくないはずだ。
 クラウドは衣装かけにかけていたマントを羽織り、フードをつけて廊下に出た。少し歩いた先にある窓際に立って外を眺める。視界の先にあるのは中庭で、そこではディエイラと、観念したのかミッツアが一緒に洗濯物を干していた。物干し竿に向けて顔を上げたディエイラはその先にいるクラウドに気付き笑顔で手を振ってくる。クラウドは微笑み、それに手を振り返した。
 そう、暗い未来は相応しくないはずだ。あんなにも、太陽の光が似合う娘なのだから。



 夜半、自室で本を読んでいたクラウドはノックの音で顔を上げる。軽い音に相手を予測しながら入室を許可すると、ひょこりとディエイラが顔を出した。ランプのオレンジが黒い角に鈍く輝かせる。
「クラウド、入るぞ」
 ディエイラが断り室内に入ると、クラウドは壁際の本棚の前に踏み台を寄せた。軽く礼を述べてそれを使うと、ディエイラは厚みのある本を取り出す。
「昨日の続きか?」
 覗きこみながらクラウドが尋ねる先では、ディエイラがページを流すようにめくっていた。
「ああ。クラウドの家にある本は面白いな。此の里にはない本ばかりだ」
 しおりが挟まれた目的のページに辿り着くと、ディエイラは先ほどまでクラウドが腰かけていた広めのソファに座る。しっかり開けられているスペースはクラウドのためのものだ。示された位置にクラウドは座りなおした。
「毎晩本を読みにくるのも資料本にばかり目を通しているのも慣れたが、たまには物語にも目を通してみたらどうだ? 私が子供の頃に読んでいた本も書庫にあるぞ?」
 勧めてみるが、本に目を落としたままのディエイラは言葉なく首を緩く振る。退屈なのだろうか、と思っていると、ディエイラ自身の口からその予想は否定された。
「物語も興味はある。ただ、まだ読む気にはなれないんだ。……物語には家族がいるし、仲間や、見ず知らずの人を救える姿は、眩しい」
 だから、まだ。呟いてディエイラは力ない笑みを浮かべる。クラウドの位置からでは彼女の頭しか見えないが、その雰囲気は察した。
「――そうか。まあ、自分のペースで読めばいい。時間はいくらでもある」
 下手に慰めない方がいいだろう。クラウドは自身の本に再び視線を落とす。その横顔を見上げたディエイラは、少しの間じっと彼を見つめ続け、ふっと先とは違う笑みを浮かべた。
「そうだな。その内、きっと――」
 それきりディエイラは口を閉ざす。それ以降、ふたりはこれといった会話もないままお互いの手元の本を読み耽った。彼らが集中を途切れさせたのはミッツアがディエイラを呼びに来た時だ。
「もうそんな時間か。夜は時が過ぎるのが早いな」
 名残惜しそうに文字を追い続けるディエイラは、読みながら本棚に近付く。台に上ってからも少しの間止まらなかったが、ミッツアに呼びかけられてようやくしおりをページに挟んだ。昨日読み始めた六百ページ越えの本はすでに終わりが近付いている。
「邪魔したなクラウド、また明日来させてもらう。おやすみ」
「ああ、おやすみ。良い夢を、ディエイラ」
 軽く手を振り合いまずディエイラが、続いてミッツアが丁寧な礼をして部屋を出て行った。
「そうだクラウド、頼みがあるのだが」
 消えたばかりの扉からディエイラがひょこりと顔を出す。どうしたのか問いかけてやると、彼女は真面目な表情でここに来てはじめて聞く言葉を口にした。
「試したいことがあるのだ。もしよければ、明日森に一緒に行ってもらえないだろうか? 出来れば夜が好ましいんだが――」
「別に構わないが――試したいこととは?」
 軽い疑問で問い返すと、ディエイラは少し視線を落として「ある術を」とだけぽつりと答える。その表情は、彼女が何かに思いを馳せている時に浮かべる辛そうなものだった。クラウドは目蓋を閉じると、一拍置き、再び視界に不安そうに答えを待つディエイラを捉える。
「分かった。明日の夕飯の後に森に出るとしよう」
 クラウドが微笑むと、ディエイラは安堵したように頬を緩めた。
「ありがとうクラウド、何をしたかったかは終わった後に必ず説明しよう」
 再度就寝の挨拶をし、ディエイラは廊下に戻る。扉が完全に閉まりきり音が遠ざかると、クラウドも本を閉じてサイドテーブルに置いた。
「……ディエイラが頼みごととは珍しい」
 何をしたいのかは分からないが、あの様子だと相当大事なことなのだろう。とはいえ、読書の約束も取り付けているので、そうそう長くかかる用事ではないと予測する。ちらりと視線を向ける先にはディエイラが片付けた本があった。その横数冊はすでに彼女が読破した別の本だ。
 こんな風にディエイラがクラウドの部屋を訪ねてくるようになったのは、確か引き取って一週間としない頃のこと。その日の昼に顔を合わせた彼女が青い顔をしており、理由を訊いたら眠れなかったと答えた。眠れぬ子供に何をしていいのか分からなかったクラウドは彼女が好きだと言った読書を勧めたのだ。結果、彼女は毎夜クラウドの部屋で読書をしてから寝る習慣がついた。ちなみにミッツアが迎えに来るようになったのは通い始め二日目からだ。初日に一晩中読んでいたことがばれて「体に良くない」と時間を決めた。
 その甲斐あってか、最近はディエイラの目にくまがあるのはこっそり本を読んで夜更かしした時だけになっている。そういう時は朝からミッツアに怒られているらしい。
 ソファから立ち上がり、クラウドはテラスに続く窓を開けて外に出た。夜のひんやりした空気が温まっていた体に心地よい。見上げた天には半月より少し太った月が浮かび、星が輝いている。
「少し散歩に行って来るか」
 純血の同族よりも日差しに強いとはいえ、やはり吸血鬼は吸血鬼。身に魔を宿す一族にはやはり夜の方が合っていた。さっと手を振ると、クラウドの周囲に蝙蝠が大量に出現する。一箇所に固まって飛ぶそれらに足を乗せると、クラウドの体はふわりと宙に浮いた。そのまま彼は屋敷から飛び出し、夜の中に消えて行く。
 その時の彼は気付いていなかった。森の中で息を潜め、その姿を見ている者がいたことに。
「あれが噂の吸血鬼か。面倒な奴の所に拾われたもんだぜ」
 しゃがれた声の中年の男が心底面倒そうに呟く。
「どうする? 今行くか?」
 若い声の男が勇んだ様子を見せるも、隣にいる壮年だがまだ若い女が「馬鹿ね」と留めた。
「トリスト、あんた屋敷中に張り巡らされてる結界が見えないの? 魔術だけじゃなくて、魔法とか他の系統の防御も張られてる。今行ったってこっちが捕まるだけだよ」
 こんなことも分からないなんて、とため息をつく女に、若い男――トリストは「そっか」と素直に納得してみせる。
「まあ、もう少し様子を見てみるとするか。おいアビゲイル、鬼族の封印具はちゃんと買えてんだろうな?」
 しゃがれの男が女に問いかけると、女――アビゲイルは頷いて答えた。
「なら吸血鬼用のも買って来ておけ。あっちも捕まえられたら金になりそうだ」
 命じられ、アビゲイルは「分かった」と答えた言下にその場から去っていく。
「俺は一旦アジトに帰る。トリスト、お前はもう少し見張ってな」
「分かったよ父ちゃん。……あいつら捕まえたらさ、そしたら俺たちさ――」
 何か言いかけたトリストだが、父に拳骨を落とされ口をつぐんだ。
「そういうのは言うんじゃねぇって言っただろうが。ちゃんと見張れよ」
 肩を怒らせ去って行く父に、トリストは伸びた返事をする。横に広めで自分より少し低い父の背が闇に消えると、トリストは吊りズボンの紐をいじりながら再びクラウド邸を見張りだした。



 翌日の夜、約束通り夕飯を済ませた後にクラウドとディエイラは森の中にやって来る。深い森の夜は大の大人でも怯えそうなほど不気味な雰囲気を醸しだしていた。その空気を受け、慣れた夜にむしろ昼より調子のいいクラウドは、連れの少女が大丈夫かと懸念を抱いている。聞くに彼女は夜にこっそりと抜け出した先の森で人攫いに遭ったらしい。今でも夜には森を見ないようにしているのに、果たして大丈夫なのだろうか。
 ちらりと視線を向けると、両目を閉じたディエイラが何やら深い呼吸を繰り返していた。自分を落ち着かせているのか、はたまた何かしようとしているのか。見下ろしながら彼女が目を開けるのを待っていると、その行動が五度ほど繰り返されてからディエイラはぱちりと目蓋を持ち上げる。
「よし。クラウド、すまないが、此が見えぬ位置に行ってはくれないか? 出来れば匂いも音もしないくらい遠くに」
 今正に心配していたことをさらにやれと言われ、クラウドは眉をひそめた。
「ディエイラ?」
「頼む」
 短く繰り返され、クラウドは逡巡してから渋々と頷く。
「ただし、護衛はつけさせてもらうぞ」
 言下、クラウドは指を口に当て空気を噴出した。それは高音と変わり夜の森に響き渡る。その残滓が消えるより早く、軽い足取りが複数近付いてくる。間も無く近くの茂みが揺れ、そこから狼が三頭顔を出した。何をしているのかとクラウドを見上げていたディエイラは反射のようにびくりとする。だが、現れた狼たちが近付くと従順に並んで座ったことで冷静さを取り戻した。
「け、眷属か? クラウドの――」
「ああ。昔屋敷の周辺に近付かぬよう死に掛けていた狼数頭に血を混ぜたんだ。一代だけのつもりだったのだが、その後子孫にも引き継がれたようで、今は群れの八割以上が眷属化している」
 悪いことをした。軽い溜め息をつくクラウドを慰めるように、狼たちはさらに彼に近付き擦り寄ってみせる。鋭い獣の勘に加えて眷属化しているため主の心情がよく伝わるのかもしれない。
 吸血鬼の眷属化は簡単だ。相手に唾液や血液などの体液を注ぎ込むことで完了する。それが吸血鬼としての基本であり本能であるため、たとえばキスや吸血時などに眷属化させないためには意識してそれを防がなくてはならない。それが不要なのは相手が自分よりも強い魔力を持ち、かつ眷属化を拒絶している場合のみだ。その場合は体液に含まれた魔力が眷属化の契約を引き起こす前に消滅する。この狼たちの血筋に当たる狼は普通の狼だったため、魔力に対抗が出来なかった。
「クラウドは眷属化するのが嫌なのか?」
 浮かない顔を見上げてディエイラが尋ねると、クラウドは苦笑を返す。
「そうだな。眷属化は私の元に魂を束縛することだ。死ぬまで拘束されるなど寒気がする話だろう?」
 最初に相手をクラウドで考えたためあまり嫌悪感が湧かなかったが、別の者で考えると確かにそれは嫌だった。そう思う反面、問われたディエイラはとある疑問を覚えた。
「吸血鬼に吸血されたら眷属化して不死になるのではないのか?」
 以前読んだ本にそのように書かれていたはずだし、かつて里を襲った者の中に吸血鬼もいた。確か、不死の存在ゆえ倒すのに苦労したと記録に残っていたはずである。ディエイラの質問にクラウドは心当たりがあるのか特に悩まずに「ああ」と声を漏らした。
「それは外来種の吸血鬼の特徴だな。以前に軽く話したかと思うが、私を含めたムーンスティア家はこの世界に従来より存在する吸血鬼だ。古き吸血鬼とも呼ばれる。我々と外来種の違いは、まず何より生者か死者かということだ。我々は生者で、あちらは死者。我々に命の制限がある以上、眷族にも当然寿命は課される」
 他にも、十字架は効かないしにんにくも効かないが、銀の銃弾は効果がある。流れる水は渡れるし鏡にも映るが、太陽は苦手。などその相違点があることをクラウドは語った。外来種と呼ばれる別の世界の吸血鬼たちに弱点が多いのは、彼らの世界の宗教に強く影響を受けているのがその原因らしい。一方のクラウドたちは宗教を起因としないため、それらの「弱点」は効果がない。
「ただし、生者である以上通常の攻撃にダメージは負う。魔力が間に合えばすぐさま回復するのだが、怪我の度合いが大きいと回復は間に合わず死んでしまう。よく知られた弱点こそないが、強い相手と戦うことになればそんなものは関係ないな」
 時々ハンターなどを名乗る連中に襲われることもあったが、三〇〇余年そのほとんどを平和に過ごしてきたクラウドにはあまりぴんとこない事態の説明だ。だが、目の前の聡い娘には十分伝わったらしい。真摯な顔で頷いている。説明は十分と判断し、クラウドは蝙蝠を呼び出した。
「では私は離れる。……本当にいいのか? 危なくなったらすぐに呼ぶのだぞ。駆けつける」
 呼び出した蝙蝠に乗ったものの、気になってしまいクラウドは何度も何度も心配そうに振り返る。ディエイラは苦笑してそれを見送った。
 その姿が完全に空に舞い上がったところでディエイラは目を閉じ耳を塞ぐ。声に出さずに千を数えきってから、赤い双眸は再び夜の世界を映し出した。くるりと周囲を見回すと、狼たちがディエイラを守るように三方に睨みを利かせている。
「頼りになる護衛たちだ」
 くすりと笑ってから、表情を改め再び目を瞑った。深い呼吸を繰り返し集中を高め、静かに魔力を広げる。数十メートルほど魔力のカーペットが広がってからディエイラは眉を寄せて苦い顔をした。
「違う。こうではない。これでは魔力が無駄に消費されてしまう。そうではなく、対象を感じ取って糸で引き上げるように――」
 広げていた魔力を引き上げ、今度は細く長く、そして高く伸ばす。頂点で更に細く長くした魔力を放射状に広げ、周囲を探るように魔力の先端に意識を乗せた。
 ちらちらと意識の端に何かがちらつくのに、それが掴み切れないもどかしさ。ディエイラは焦れながらもさらに集中して意識を広げる。その時、不意に伸ばしたそれを掴まれたような感覚を覚えて咄嗟に目を開けた。
 広げていた魔力が途切れるが、一本だけ……先ほど掴まれたものだけがまだ残っている。しかしそれはディエイラが成功したから残っているわけではない。対象がディエイラの魔力を補強したまま掴んでいるからだ。ディエイラは少し不機嫌な顔で伸びた魔力の先に向かった。左右と後ろからは狼たちが付いてくる。
 しばらく歩いてから、何かを掴んだような形の手を顔の前に置いているクラウドを見つけた。太い木の根に腰かけていたクラウドはすでにディエイラに気付いていたらしくにこりと笑いかけてくる。
「これがやりたかった術か? 気配察知だな。最近読んでいる本で知ったのか? 上手く出来ているではないか」
 見事と褒められるが、間近に来たディエイラは不機嫌な顔でクラウドを睨みつけた。何かまずいことを言っただろうかと、クラウドは思わず掴んでいた魔力を放して軽く頬を引きつらせる。
「クラウド! 何故其から掴んでしまうのだ! 其が掴んでしまっては此の修練にならん」
 珍しい大声で怒鳴られ、クラウドは両手を首の高さまで挙げて申し訳なさそうな顔をした。
「すまん、良かれと思ったのだが、考えなしだった……」
 素直に謝られ、熱くなっていたディエイラも急速に落ち着いたのかしょんぼりとした様子で肩を落とす。
「いや、こちらこそすまなかったクラウド。此が何も言わずに付き合わせているのに言葉が過ぎた。本当にすまない」
 深く頭を下げると、そこそこに長さの整ってきた灰色の髪を撫でられた。顔を上げれば、クラウドが宥めるように優しく微笑む。
「構わん。だが、出来ればどうしたのか教えてくれるか?」
 問われ、ディエイラは一瞬の沈黙の後こくりと頷いた。クラウドが腰かけている木の根の横の小さな木の根に腰かける。狼たちは周りを警戒するように先と同じく三方を向いて座った。
「……此が、逃げ出してきた場所を探したい」
 逃げ出してきた場所。それに該当する場所はひとつしかクラウドには思い浮かばない。
「……誘拐犯のアジトか? 何故?」
「置いてきてしまった人が、いる」
 ディエイラはぽつりぽつりと語り出す。彼女は攫われた後広い牢に入れられた。そこには多くの者がいたが、誰もが他人を気にかける余裕を持ってはいなかった。だがただひとり、ディエイラに声をかけてくれた者がいた。常々飄々としつつも、眼差しにはいつか逃げるのだという強い意思が煌々と灯っていたことを今でも明確に覚えている。
「此は、かの御仁と約束したのだ。共に逃げ出そうと。けれど結局此はひとりで逃げてしまった。……助けたいのだ。全部諦めようとしていた此を引き止めてくれた礼をしたい。――本当は、もっと早くに始めるべきだったのだ。だが、ここの生活が心地よすぎて先延ばしてしまった。昨日読んでいた本に先ほどの術について書かれていて、やるべきことを突きつけられた気がしたのだ」
 組んだ手に額を当ててディエイラは俯いた。悔恨の念に駆られている彼女を見やってから、クラウドは昨日より少し太った月を見上げる。
「その意思は尊重したいが、まさかひとりで行く気であったわけではあるまいな? そやつらはそなたを攫った者たちでもあるのだぞ? そなたは確かに黒角の一族ではあるが、技術の足りぬ幼子(おさなご)だ。ひとりで何もかも出来るとは思わぬことだ」
 厳しい言葉かもしれないが、真実の言葉でもある。彼女は実際に単純な魔術戦になれば大抵の相手には勝利出来るだろう。今どれほどの術を覚えているかは分からないが、レベルの低いそれですら彼女が使えば他の者が使う高レベルの威力を発揮する。だが、いかに聡明でも経験も技術も足らぬ子供であることもまた事実だ。虚を突かれれば一瞬で形勢が逆転することも大いにあり得る。
 本人もどうやら分かってはいたようだ。反論することなく俯いてしまった。言い過ぎたか、と思ったものの、彼女のためだとクラウドはその件に関しては慰めを口にしないことにする。代わりに、先ほどディエイラが行おうとした術を実践して見せた。察知の対象は屋敷にいるはずのクーガル。その気配はほんの一瞬で把握される。クラウドは行おうとした術を感じ取って顔を上げたディエイラに視線を向けた。
「だが、そなたが術を覚えることは支援しよう。ただし、見つかっても決してひとりで向かわないで騎士団に情報を提供することを誓うのが条件だ。よいな?」
「分かった、誓う!」
 僅かな迷いもなく即答するディエイラの真剣な表情にクラウドは微かに微笑み頷く。
「では早速はじめよう。まずはミッツア辺りでも探ってみるといい。まず展開し――」
 クラウドの丁寧な説明にディエイラはいちいち頷き、同時に術を実践した。何度も何度も繰り返し、中々上手くいかないことに悔しい思いをすること数十回。不意にミッツアの気配を感じ取る。が、それはあまりにも帰りが遅いクラウドとディエイラを迎えに彼女が間近まで来ていたせい。ふたり揃ってミッツアに叱られ、その日は帰途についた。
 それから一週間ほど毎夜修練を続けた結果、ディエイラは森の範囲内であれば気配察知を行えるようになる。しかし、ディエイラは、クラウドは、気付いていなかった。「指定対象を見つけること」を念頭に置いていたため、覚えるべきもうひとつの気配察知――本来主な使い方である、「周辺の気配を把握する」――を覚えていないことに。もし彼らがそれに気付いていたならば、この後の出来事は変わっていたことだろう。