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第三話


 朝食用の血を口に含んだ途端、クラウドは眉を寄せ剣呑な顔をする。片手を軽く上げるとすぐさま年かさな女性が近付き、白いナプキンを複数枚重ねて差し出した。クラウドはそれに血を吐き出す。
「どうしたのだクラウド? まさか毒でも入っていたのか?」
 ナイフとフォークを握り締めながらディエイラが引きつった声で問いかけてきた。その顔は声同様引きつり緊張を醸し出している。水で口をゆすいで再びナプキンに吐き出していたクラウドは緩く首を振った。
「いや、そうではない。少し血に含まれている魔力が強すぎてな……」
 指で血が入ったままのグラスを弾くと、応じるように血が光を放つ。クラウドが流した魔力に反応したようだ。理解したディエイラだが、別のことに首を傾げた。
「吸血鬼は血から魔力を得るのだろう? ならば強いのは良いことではないのか?」
「そうだな、弱いよりは強い方がいい」
「なら」
「ただ、あまり強すぎる魔力を含む血を飲むと隷属の関係が生まれてしまう」
 隷属、という穏やかではない言葉にディエイラはぴたりと動きを止める。訝しがる赤い双眸に答えるように、クラウドは説明を続けた。
「我々吸血鬼の存在には名の通り血が大きく関わる。だが、血には本人の魔力が大いに宿るのは知っているな? 口から別の生命体の魔力を直接摂取するというのは存外危険な行為でな、接触による魔力供給よりも侵略性が高い。自分よりも魔力が弱い者であれば何の影響もないが、同等の者だと魔力が体内で競合を起こし、強い者であれば血の主への隷属が発生する。儀式も何も関係ない、吸血鬼限定の弱みと言えよう。……とは言っても、直接の摂取でなければ効果は弱いし、相手との係わりが薄ければ継続力もない。存在への拘束だからな、お互いの結びつきも重要なんだよ。まぁ、主の強さに合わせて魔力が上がるので、手っ取り早く魔力を上げたい者が敢えて飲むこともあるそうだが――誇りを穢す行為とも言われているから、あまり好まれはしないな」
 そのことは詳しい本になら記されてしまっている情報であるが、本来は当の吸血鬼たちにとって知られたくないものだ。悪用するには意味のありすぎる弱点は、銀よりも吸血鬼たちには危機を伴っている。かつては吸血鬼同士でもお互いの魔力のレベルは明かさないものだったが、現在は売買契約によって血を得ているため、どうしても取り扱いを統括する者には明かす必要があるのだ。クラウドの場合はムーンスティア本家がそれに該当する。開いた窓から吹き込んだ風に煽られた髪をかき上げ、クラウドは小さく息を吐き出した。
「今までこんなミスなかったんだがな――」
「ミスじゃないわよぉ。近々帰るから、それ私用に入れてもらったの」
 明るい口調がすぐ背後からするや否や、細い手がクラウドの手元のグラスをさらう。途端に部屋に蝙蝠が出現し窓を塞いでしまった。薄暗くなる室内で困惑の声が上がる中、クラウドは聞き覚えがあるものの記憶が定かではない声を聞いて両目を見開き硬直する。ふた呼吸分の間を空けてから、彼は意を決して背後を振り返った。
 そこに立っていたのはグラスを傾けて盛大に喉を鳴らすひとりの少女。短く切ったふわふわな髪は紫がかった黒で、目は濃い青をしている。長いマントの旅装に包まれた身は一五〇センチを少し超えた程度の小柄だ。
「いい飲みっぷりだねハニー。久しぶりに質のいい食事だからかな?」
 少女をにこにこと見下ろしているのはひとりの青年。三白眼の双眸は紫で、薄紫の髪は前を左右に分けひと房だけ長い後ろをひとつにまとめている。少女と同じく旅装をまとっているが、こちらはマントが短い。身長は少女より頭ひとつと少し大きいが、クラウドよりはいくらか小さいようだ。
 姿を見て確信する。この場にいる他の誰が分からずとも、クラウドには彼らが誰だか分かっていた。
「……父上、母上……」
 使用人たちから驚きの声が上がる。気持ちは分かる。彼らは両親が出て行った後に雇われた者たち。知っているはずがないのだ。
 少女のように見える彼女はクラウドの母にして純血の吸血鬼、リンダ・C・ムーンスティア。純血の吸血鬼ながら分厚い日よけマントを羽織って魔力のガードをフルに使用して大陸中を夫と飛び回る道楽者だ。青年はクラウドの父であり風の精霊であるヴェーチル。束縛を嫌う風の精霊らしくないほど長期間仮初の体に宿り続けながら、風の精霊らしくあちこちを妻と放浪する変わり者だ。今は彼の精霊としての能力を使い風と共に訪れたのだろう。
「やっほークラウドただいまぁ。何年振りだっけ? 大きくなったわねぇ」
「僕が作った大剣この間使ってただろ? 役に立ってるようでお父さん嬉しいなー」
 にこにこと笑顔の絶えない夫妻には一五〇年ぶりという事実は隔たりにならないらしい。双方の笑顔にも言葉にも、気負いやぎこちなさは何もなかった。――相対するクラウドが同じかというと、そんなことはないのだが。
「……おかえりなさいませ、父上、母上。ご無事のご帰宅お喜び申し上げます」
 立ち上がったクラウドは両親に向き合うと、少し上ずった声で丁寧に頭を下げる。その彼の肩や腕をリンダとヴェーチルは笑いながら叩いた。
「やっだー、そんなにかしこまらないでよぉ。お父さんとお母さんよ?」
「クラウドは真面目だなぁ。僕に似たのかなぁ?」
「あらダーリンってば何言ってるの、あたしよ」
 笑い合いながら仲睦まじく主張を交し合う両親を前に、クラウドはこっそりと溜め息を吐く。そうだ、思い出した。このふたりはこういう者たちだ。
「おや? そっちの子は――」
 クラウドの体の脇から顔を出したヴェーチルが机を挟んで相対するディエイラに気が付く。呆然としていたディエイラは慌てて両手のナイフとフォークを置き、早足で机の向かい側に向かった。そして迎えるように体の向きを変えたリンダたちと相対する。
「お初に目にかかる。此はディエイラ。先頃ご子息に救われこちらのお世話に――」
「あ、里から追放された語り手の子か」
 思い出した、というようにヴェーチルは明るく告げた。ぴしりと固まった空気には気付いていないようだ。
「この間ちょうど行って来たばっかりだよー。新しい語り手を育ててるっていうからどうしたのかと思ったら、君おじいちゃんたちの言いつけ破って勝手に外出ちゃったんだろ? それで攫われたんだってねー。すぐに察知はしていたみたいだけど、里の掟を破ってまで助けるべきじゃないって判断されちゃったんだよね。可哀想に。僕たちだったら助けるのになぁ」
「そうよねダーリン。可愛い子供のためだものね。私たちなら絶対助けるわ」
 お互い笑顔で「そうそう」と頷き合いちらちらとクラウドを気にかける。クラウドが感激してくれることを期待しているのだとすぐに分かった。だがそれが叶うはずがないとクーガルやミッツアたち使用人たちはすぐに判断する。はじめて見(まみ)える本来「旦那様」「奥様」と呼ぶべき御仁たちは、踏んではいけないものを盛大に踏み抜いた。彼らには怒りに染まっていく息子の顔色が窺えないらしい。
「まぁ、君は運が悪かった――」
「父上いい加減に――っ!」
「その通りだクラウドの父君殿」
 なお軽口で言い募る父にクラウドが噛み付こうとしたその瞬間、明るく大きな声がそれに先んじる。クラウドが思わずそちらを見ると、ディエイラが笑顔を浮かべていた。しかしその笑顔にクラウドは顔を歪める。まだひと月半ほどとはいえ分かった。その顔が感情を封じた作り物だ、と。
「ディエ」
「クラウド、此は少し席を外そう。家族での団欒を楽しんでくれ」
 手を伸ばした途端にディエイラはそのままの笑顔でクラウドを見上げ、答えを待たずに部屋から飛び出してしまう。その後をミッツアが慌てて追いかけた。一瞬静まり返った室内に、再び場にそぐわない明るい声が放たれる。
「気遣いの出来るいい子だね。もう実家には帰れないだろうけど、この家を第二の家と思って過ごせばいい。さぁ、クラウド、お嬢さんの気遣いをありがたく受け取って僕たちとお喋りでも――」
 誘いかけるように肩に置かれかけた手からクラウドはするりと逃れた。きょとんとする両親にはその視線はすでに向いていない。
「誰か私の日よけを」
 短い命令に使用人の女性が走って食堂から出て行く。
「ちょっとクラウドー、お散歩なら後で行きましょうよ。お母さんも行くから。ね、今は一緒にお喋りを」
 手を掴もうとする母からも、クラウドは逃れた。不機嫌そうに非難の目を向ける両親を、クラウドは冷たくも怒りに燃える視線で睨みつける。
「――一五〇年会えなかったために、私はおふたりの幻影に焦がれていたようだ。今更思い出したよ。おふたりはそういう人たちだった」
 本家や分家の誰もが息子にすら憚らず「変わり者」と呼ぶリンダが、ほんのひと時訪れた風の精霊が「機微に疎い扱いづらい奴」と酷評して行ったヴェーチルが、まともだとどうして思ってしまっていたのだろう。
「もう千年は帰ってこなくていい。今すぐこの家から出て行け」
 心の内からふつふつと湧き出てくる感情のまま拒絶を口にする。年の概念などないヴェーチルはともかく、九百を越えたリンダにはそれは永遠の決別を乞う言葉だ。さすがに一人息子から永劫会いたくないと突きつけられた事実は伝わったらしく、リンダは青い顔でふらついた。慌ててその小さな体を支えると、ヴェーチルはクラウドを睨みつける。
「クラウド! ハニーに何てこと言うんだ! いくら君でも彼女を傷つけるのは許さないぞ」
「許してくれなくて結構。二度と会うことはないし会いたいとも二度と思わん。出て行け。どうした? 何を躊躇う? いつも勝手に出て行っていたんだ。いつも通り出て行くだけだろう。後は二度とこの地に踏み込まなければいいだけだ。何も思わずとも一五〇年出来たことだ。意識すれば永劫可能だろうよ」
 入ってきただろう窓を指差しクラウドは早口でまくし立てた。口に出すたびに込み上げてくる怒りを隠す気は毛頭なく、その言葉にクラウドが望むのは刃となり父と母を傷つけてくれることだけだ。
「……何で? 何でいきなりそんなに怒ってるの? 私たち……何したの……?」
 泣き出すのを必死に堪えながらリンダが震える声で問いかける。クラウドは舌打ちしそうな表情で母を睨みつけた。
「それが理解出来ないなら一生分かり合えないだろうな」
 出て行け。もう一度告げようとしたその瞬間、クラウドの頬を何かが通り過ぎる。それを認識するが早いか、溢れるように血が迸った。遅れてきた痛みにクラウドは顔をしかめ、犯人と思わしき人物を厳しく見据える。
「僕は言ったぞクラウド……リンダを傷付けるなら許さない、って」
 およそ息子に向けるとは思えないほど敵意に満ちた眼差しには躊躇などなかった。言葉通り、愛する妻を傷つける敵に対するように、彼の周りに風が渦巻く。かまいたちが発生している、と認識したクラウドは認知感度を上げた。そうすると、ヴェーチルの周りに生じている風の刃が形となって視界に映る。
「私も言ったぞ愚かな風の精霊。出て行け、と」
 言下クラウドの周りに魔力で出来た光源が複数浮かび上がった。一触即発の空気が流れる中、突然その間にひとりの人物が身を差し入れる。緊張状態にあったクラウドははじめて彼≠怒鳴りつけた。
「クーガル! どけ!」
 ミッツア辺りが聞いていたら恐怖で身を竦ませそうな硬い声音だが、背の高い老人はどこ吹く風かと流して扉側を腕で示す。
「失礼を若様。ですが、日よけの上着が来ました。ディエイラ様を追いかけなくてよろしいのですか? 今頃ミッツア相手に強がって耐えていらっしゃいますよ」
 的確な指摘にクラウドは唇を引き結んだ。その様は、見たままを映したかのように頭に浮かんできた。
「……すまないクーガル。行って来る」
 光源を収め、クラウドはくるりと身を翻す。手の甲で頬の血を拭えば、出来たばかりの傷はすでに塞がっていた。この程度の傷であれば、クラウドの魔力でもすぐに回復する。
 入り口で固まっていた女性からマントを受け取った彼にクーガルは腰を曲げて「行ってらっしゃいませ」と告げた。黙っていなかったのはヴェーチルだ。
「待てクラウド! 僕たちよりあの子を選ぶつもりか?」
 大声で問いかけるヴェーチルに、マントを着ていたクラウドは振り返ることなく返答する。
「そうだ」
 短く告げると、クラウドは食堂から出て行った。それを呆然と見送っていたヴェーチルに近付き、クーガルは恭しく頭を下げる。
「お初にお目にかかります旦那様、奥様。私は現在この屋敷の執事をさせていただいておりますクーガル・レイロンと申します。以後、お見知りおきを」
 穏やかな彼の対応に落ち着いたのか、正気に戻ったヴェーチルとリンダは揃って彼に噛み付いた。
「ちょっとどういうこと? 何でうちの子があんなに反抗的になってるの? 昔はもっと素直で優しいいい子だったのよ?」
「執事とかいったけど、君もしかしてハニーのところの本家が出してきた人? 変なこと教えたんじゃないだろうね!?」
 口々に喚き出す彼らの前で身を折っていたクーガルがゆっくりと体を起こす。その間に、日よけを持って来た使用人の女性はそそくさとその場を立ち去った。旦那様とやらと奥様とやらには悪いが、彼女は巻き込まれたくはなかったのだ。あの老執事が一番に誰を思い、一番に誰を見てきたか知っているから、彼女にはこの先起こることが容易に予測できる。
 女性が部屋を出た途端、なお言い募っていたリンダとヴェーチルは思わず口を噤んだ。殺意を感じたわけではない。怒りを感じたわけではない。ただ、彼らの見上げた視線の先ではクーガルが笑っている。穏やかそうなのに何故か逆らうことを許さない断固とした空気を纏いながら。瞬きが必要ないため目蓋を切り落とし眼窩にはめ込んだ真実の目に刻まれた文様が輝いた。
「今から、私が知りうる全ての『真実』をお見せしましょう。この老骨めの自己満足に、しばしお付き合いくださいませ」
 溢れた光が、リンダとヴェーチルを包み込む。



 ひたすら駆け続けたディエイラは、屋敷の門を出たところで足を止めた。本当は森にまで駆け込むつもりだったのだが、後ろで盛大に転ぶ音がしては振り返らないわけにいかない。見れば、追いかけてきていたミッツアが転がっている。
「……大丈夫かミッツア殿?」
 放置するわけにも行かず近付き手を差し出すと、ミッツアはがっしりと両手でそれを掴んだ。
「ミッツア」
「お気遣いありがとうございますディエイラ様。私は大丈夫です。……ちょっと膝をすりむきましたが平気です。そんなことより、おひとりで外に出てはいけません。せめてお屋敷の敷地内にいらっしゃってください」
 強がっているが相当痛いらしい。額の目が涙ぐんでいる。しかしこれ以上気遣いの言葉を紡いだ所でこの真面目な使用人は痛みを素直に訴えることはしないだろう。諦めたディエイラは握り締めてくる手を小さな手でぽんぽんと叩いた。
「すまない、少し考えなしだった。すぐに戻ろう。其も食堂に戻ってよいぞミッツア殿。主の機嫌伺いは使用人の重要な仕事であろう」
 腕を引っ張ると、ミッツアが中途半端に立ち上がる。鬼族らしく力の強いディエイラが引けば立ち上げるのは難しくないが、如何せん多少なりある身長差は覆らない。しっかりと立ち上がったミッツアは頭を下げて礼を述べると、ディエイラと目を合わせられる位置まで頭を上げた。
「食堂には戻りません」
 きっぱりと言い切られ、ディエイラは戸惑うように眉を寄せる。その彼女を、ミッツアの三つ目はしっかり捉えていた。
「確かに旦那様と奥様にご挨拶をするのは必要だと思います。ですが、今の私の一番の仕事はディエイラ様のおそばにいることです。今の私の主はクラウド様。そしてクラウド様が家族として迎えられたディエイラ様のみです。他の方は今は知りません」
 後で怒られるぞ。そう思ったが、今のディエイラはそんな一般的な理屈よりもミッツアの考えなしの感情が嬉しかった。
「……ありがとう、ミッツア殿。だが私は本当に大丈夫だ。だからもう中に――」
「入らせるわけにいかねぇな」
 突然場に割って入ってきたのはしゃがれた男の声。聞き覚えのないミッツアは体を起こし辺りを警戒しだす。一方、その声に聞き覚えがあり、かつどこから聞こえてきたのかすぐに察したディエイラはそちらを睨みつけた。その視線の先にある茂みを揺らして現れた色褪せた黄色の髪を持つ男の姿を見て、ディエイラの視線は一層厳しくなる。忘れるわけがない。忘れられるわけがない。彼は、ディエイラを騙し商品として扱った男だ。
「性懲りもなくまた此の前に顔を出すか奴隷商人。ゴルヴァと言ったか? 今の此をあの時のように捕まえられると思っているのか? あの時とは心身の状態は違うぞ」
 脅しかけるように魔力を放出すると、その圧で周囲の草木が揺れる。周囲にいた鳥や小動物たちが一斉に飛び出し逃げ出した。緊張感が高まる中、突然風を切る音がする。
「きゃあっ」
 高い悲鳴をあげたのはディエイラが後ろに庇ったミッツアだ。驚いてディエイラが振り向くと、そこに彼女の姿はなかった。どこに、と視線を巡らせ、すぐに少し離れた所に彼女の姿を見つける。手放しに安堵出来ないのは、彼女が黄髪の青年――トリストの腕の中に封じられ、同色の髪の女――アビゲイルにナイフを突きつけられているから。アビゲイルのもう片方の手には鞭が握られており、その先端はミッツアの手首に絡まっていた。恐らくあれに引きずられたのだろう。
「この女を殺されたくなかったらこの封印具を着けてついてこい」
 しゃがれ声の男――ゴルヴァが端的に命令する。足元に投げ渡されたのは以前ディエイラが着けられていたのと同じ――否、さらに封印の強度が高まった封印具だった。それを見下ろし苦い顔で固まっていると、ミッツアの悲鳴が聞こえる。慌ててそちらを見やると、ミッツアの頬に赤い筋が入っていた。
「早くしな。このお嬢ちゃんの顔が見られないものになってもいいのかい?」
 言いながらアビゲイルはナイフの先を涙で潤むミッツアの右目に向ける。
「やめろっ! ……分かった、着ける」
 しゃがみ込み封印具を拾い上げると、ディエイラは震える指でそれを自分の首に巻きつけた。ミッツアがずっと駄目だと叫んでいるが、聞く耳は持っていられない。完全に巻きつけ終わる。その途端、ディエイラは全身から力が抜ける感覚に襲われた。その彼女に近付き、ゴルヴァが両手足に別の封印具をつけ、完全に動きを止めたディエイラを肩に担ぎ上げる。
「ずらかるぞ」
「父ちゃん、こいつどうする?」
 トリストは口を塞いで黙らせているミッツアを示した。少し考えてから、ゴルヴァは再び歩き出す。
「気絶させて連れて行け。魔力はそうないようだから価値は低いだろうが、女なんだから多少は金になるだろう」
 恐ろしいことを言われたミッツアが引きつった声を上げた言下、軽い返事をしたトリストに思い切り殴りつけられた。意識を手放しぐったりする彼女を、トリストも同じく肩に担ぎ上げる。
「帰るぞ。アビゲイル、門を開けろ」
 ナイフの血を切って鞘にしまい入れていたアビゲイルは、返事代わりに腰のポーチから多様の色を放つ砂が入った小瓶を取り出した。それを地面に撒くと、その場に魔法陣が出現する。波のような光を放つそれにゴルヴァ、トリスト、アビゲイルが順に入ると、彼らの姿はふっと掻き消えた。
 屋敷中を探し回ったクラウドがようやく門にやって来たのは、それから三十分ほど経ってからのことだ。普段感じない魔力の残滓に足を止めた彼は、周囲を見回し地面に散った血痕に気が付く。
「これは……ミッツアのものか」
 乾き始めている血に触れその持ち主を判断したクラウドは、厳しい表情でさらに血に残された情報を読み取るべく集中を高めた。時間が経ってしまっているせいで詳しくは分からないが、何者かの影と彼女が抱いた恐怖が脳裏に映し出される。得た情報のひとつに浮かんでいる「誘拐犯」という単語から、恐らくディエイラを攫った者たちが現れたのだろうと予測した。
「魔力の元はここか。移動の系統――ぎりぎりだな。魔術で追いかけては痕跡が消えるか……」
 冷静に判断し、クラウドは舌打ちする。忌々しいことこの上ないが、ディエイラとミッツアを救うためには使うしかない。片手で魔力の残滓が残る地面に触れ、クラウドは目を瞑る。
 人間が使う魔法と違い本能で使用できる魔術であるが、「意識」してから「実行」するという点においてタイムラグは当然生じるものだ。単純な魔力の放出とは違いそこには「それを成す」という目的があるから。故に、この消えかけの痕跡を魔術で追いかければ途中で「意識」と「実行」が間に合わずに痕跡が途絶えるだろう。
 しかし、クラウドにはもうひとつ手段がある。それは、先ほど喧嘩したばかりの父から受け継いだ風の精霊としての力だ。術を使うのであれば魔術と同じ。だが、風の精霊は自由気ままに世界中に吹き渡る存在という『本質』を持つゆえ、移動に関しては考えることなく行動できる。吸血鬼の半身が邪魔をするが、『本質』を受け継いでいるクラウドにも出来ないことはないのだ。子供の頃父の付き添いで使用したきりだが、一度得た感覚はクラウドの中に確かに存在している。
 ギリギリで残っている魔力の痕跡を可能な限り拾い上げたクラウドは、その流れに向かって風を吹かせた。次の瞬間、クラウドの体は半透明に変わり、吹き荒れた突風と共にその場から消え去る。