戻る   

/

第四話


 三〇〇人は優に収容出来そうなほど広さのあるその建物は、酒場のような造りをしており、そこに集まる者たちの心情を映したように照明は薄暗い。壁際の席にはメモ帳に何やら真剣に書き込んでいるアビゲイルと机に突っ伏したトリストがいた。
「姉ちゃーん、父ちゃんまだ戻らないかな? 俺腹減った……」
 訴えに同調するようにトリストの腹の虫が盛大に鳴る。育ち盛り――はすでに過ぎたが、まだ若い上に燃費が悪いことこの上ないのだ。父がこの建物の主に会いに行ってそろそろ四十分。朝もろくに食べずに張り込んでいたので、そろそろ限界だろう。メモ帳から顔を上げたアビゲイルはため息をひとつついてペン先を斜め向かいの壁際にあるカウンターに向けた。
「いいよ、行って来な」
 許可が下りるや否や、トリストは目を輝かせて跳ねるような足取りでカウンターに向かって行く。それを見送ってから再びアビゲイルがメモ帳に落とした視線は、一文字も書き込まない内に持ち上げられた。
「――何の用だい?」
 厳しく問いかけた相手は近くの席から近付いてきた柄の悪そうな男たち。ただの人間もいれば獣に近い容貌のウォルテンスもおり、見かけだけならば町にたむろする若い衆、と言っても通りそうである。ただし、それぞれが腰に差した剣や銃、棍棒等の武器を所持していなければ、だが。にやにやとしている彼らは半円を描くようにアビゲイルを囲んだ。
「随分な言い草だなアビー。誰がお前ら流れ者の親子を囲ってやってると思ってるんだよ」
 正面に来た赤茶色の髪の男が腰を曲げて顔をアビゲイルに近付ける。作りは良いが中身の悪さが滲み出たそれをアビゲイルは真正面から迎えうった。少し濃い目の化粧で飾った顔には相手を嘲る笑みが浮かぶ。
「この建物の主さんだねぇ。少なくともあんたたちみたいな三下に借りはないよ」
 三下、という単語に後ろの方にいた若い取り巻きが怒鳴りかけるが、正面の男がそれを留めた。
「へぇ? じゃあお前らがヘマしたせいで捕まった俺の弟分については? 言うことはないのか?」
「人のせいにすんじゃないよ。あの腰抜けが黒角の娘にびびって逃がしたから追わせたら勝手に捕まったんだろう。あいつが間抜けなのさ。ふん、あんたの弟分だけあるねぇ?」
 互いに一歩も退かない様子を見せ、その間には火花が散る。落ちた沈黙を最初に破ったのは半身を持ち上げた男だ。アビゲイルを見下ろす彼は、腐った性根がそのまま顔に映し出されたような表情を浮かべていた。
「ウザイ親父も馬鹿な弟も近くにいないのに、よくそう強がれたな」
 男が引くと同時に周りの男たちがアビゲイルに手を伸ばしてくる。知恵のない欲獣の集団に、しかしアビゲイルは冷静にペンを振った。その途端、尋常じゃないほど溢れたインクがかかったそばから男たちを切り裂く。血と悲鳴が一瞬にして周囲を埋めた。興味を持たない者と余興を楽しむような声を上げる者で建物内は二分される。
 男たちが退いた隙に立ち上がったアビゲイルは腰のポーチからナイフと魔法が込められた透明の瓶を複数取り出した。
「上等じゃないか。やるってんなら相手してやるよ」
 好戦的に笑うアビゲイルに男たちは怒りを込めて相対し直す。それぞれが得物を握る中、彼らの背後から低いしゃがれ声がした。
「俺の娘に何してやがる」
 ぎくりと取り巻きたちが身を強張らせる中、男が憎々しげな笑みで声の主――ゴルヴァを迎える。
「よぉクソ親父。てめぇの娘がうちの弟分たちに上等くれやがったんだが、少し貸せよ」
「駄目だ」
 にべもなく断られ男が持っていた銃を向けようとした。しかしそれより早く、男の額に斧の刃先が振り下ろされる。寸止めされようやくその存在に気付いた男は顔を引きつらせ冷や汗を流した。その彼をゴルヴァは迫力のある眼力で睨みつける。
「俺ぁ商人だ。目的のために協力するっつー取引はしたが、ガキ共をおめぇらと遊ばせるのは契約に入ってねぇ。俺からモノを引き取りてぇならちゃんと交渉しに来な」
 言下、ゴルヴァは顎をそらせる。失せろ、と言われたことに気付いた男は、切れそうなほど血管を浮かび上がらせながら舌打ちと共にその場を去って行った。その際弟分たちに「大丈夫か、行くぞ」と声をかけられるのが彼に取り巻きがいる理由だろう。
 男たちが去って行くのと前後して、慌てた様子のトリストが駆け寄ってきた。それでも買って来た大量の食事が乗ったお盆を放さないところが彼らしい。
「ねねね、姉ちゃん大丈夫!? 怪我してない? 喧嘩すんなら俺呼んでよ――いてっ!」
「馬鹿言ってんじゃねぇこの馬鹿が。離れるなって言っただろうが。おめぇも騒ぎ起こすんじゃねぇ。また料金上乗せされたらどうすんだ」
「痛っ! ……悪かったよ……」
 息子、娘と拳骨を落とし、ゴルヴァは血の臭いが残る席に躊躇なく着いた。アビゲイルとトリストも元の席に座り、三人はトリストが持って来た食事に手を付ける。常人であれば鼻の奥に突き刺さるような鉄の匂いに食事どころではないだろうが、彼らはすでにこの臭いに慣れてしまっていた。
「……あの黒角のガキと三つ目のガキの代金で料金までもう少しだそうだ。つっても、それこそあの吸血鬼を捕まえるぐらいは必要だがな」
 先は見えた、とぽつりと呟く父の言葉に、アビゲイルとトリストはお互いに強く頷く。その後は時折トリストが喋りアビゲイルが相槌を打ったり訂正したりするだけで、ほとんど会話はなかった。
 静かな時間に終わりが告げられたのは、食べ終わるまであと少し、というその時だ。不意に室内にけたたましい音が響き渡る。
 咄嗟に耳を塞いだ家族は椅子を蹴立てて周囲を見回した。そして何とか拾い上げた言葉から、侵入者が来たことを知る。
「……このタイミング。もしかして、もしかするかもしれねぇな」
 騎士などの討伐組織でも来たのかと騒ぎたて、建物内の者たちが逃げる準備をしたり戦う準備をしたりする中、ゴルヴァは地下へ続く階段へと向かった。その後をアビゲイルとトリストが追いかける。
「父ちゃん、どうしたの?」
 トリストが尋ねると、階段を数段下りたゴルヴァが振り仰ぐように顔だけをトリストたちに向けた。
「もしかしたらあの吸血鬼が黒角のガキを取り返しに来たのかもしれねぇ。一応牢屋の前で張っておくぞ」
 言い終わるよりも早くゴルヴァは地下へ向かって歩き出す。一度顔を見合わせ、まずはアビゲイルが、次にトリストがその後に続いて地下へと向かった。



 時を遡ること二十分前。気を失っていたミッツアは、引き上げられるように目を覚ました。現状が把握出来ずぼんやりと視線を泳がせると、自分が冷たい石畳に転がされていることに気が付く。
「……何で私……ディエイラ様!? 痛っ」
 思い出そうとした直後に気を失う直前のことを思い出し、ミッツアは勢いよく体を起こした。しかし、いつの間にか体の前で縛られていた手にバランスを崩して転んでしまう。痛みに悶える彼女に、すぐ横から声がかけられた。
「大丈夫?」
 女性の声だ。大丈夫です、と震える声で返しながら何とか顔を上げたミッツアは、しかしすぐに悲鳴を上げる。見上げた先に、とても大きな獣がまるで人のように座っていたから。黄土色の体毛と茶色の目をした獣は、ぴんと立っていた耳を少し曲げ、口輪の下に隠された口元を歪めた。
「やかましいね。あんた自分も三つ目の癖に獣人ぐらいで驚いてるんじゃないよ。ま、元気そうで何よりだけどね」
 声音は少々低いが、本当に気遣ってくれているのだと気付いたミッツアは自分の非礼を気付き慌てて頭を下げる。
「たっ、大変失礼いたしました! ミッツア・バエスと申します。お気遣いただき、誠にありがとうございます」
 再び顔を上げ、ミッツアは改めて獣人――恐らくキツネだろう――の女性を見上げた。座っているのに立った時のミッツアと同じほど大きさがあるように見える。身につけているのははじめてディエイラと会った時彼女が来ていたものと同じ粗末な貫頭衣。両手には先が丸くなっている筒のようなものがつけられて爪を封じられていた。どうやら、彼女も捕まったひとりらしい。こんなに大きな獣人まで、と恐ろしく思った直後、ミッツアは再び大きな声を上げる。
「ディエイラ様! ディエイラ様は!?」
「落ち着きなって。ディエイラってのはあんたと一緒に来た子だね? それならあそこに転がっているよ」
 獣人の女性が口輪の付いた顎で示す先に目を向けると、確かにそこにディエイラが転がされていた。首には壁から伸びる長い鎖がつながっているようだ。
「ディエイラ様! よかった……!」
 何度かバランスを崩しながら何とか立ち上がって駆け寄ったミッツアは、か細い呼吸を繰り返すディエイラの真横に膝をつく。真に良かったとは言えない状況だが、目に付くところに彼女がいたことと大きな怪我をしていないことはミッツアを安堵させるのに十分だった。
「他の奴に聞いたんだけど、その子前にもここにいたんだってね? 折角逃げられたのにまた戻ってきちまうなんて、運のない子だよ」
 元の位置に座ったままの獣人の女性は心底同情するように言い放つ。少しむっとしてミッツアは視線をそちらに向けた。険が取れたのはその直後。離れて気付いたが、彼女の首にはディエイラを捕らえるものと同じ鎖がつなげられている。
「……そんな顔するくらいなら、あたしらの拘束を解いて自由にしてくれていいんだよ? 折角運よく牢が満杯で鎖なしなんだから」
 女性が苦笑した。ミッツアは感情を丸出しにしているだろう額の目を恥ずかしく思いながら牢の中を見回す。牢にいたのはディエイラとミッツアを除いて三人。獣人の女性と、人の姿をしているが肌と生えている太い尻尾が爬虫類のそれである青みがかった銀髪の青年、そして恐らく普通の人間だろう青年だ。最後の青年は顔にかかり気味の濃茶の髪を気にした素振りもなく、同色の目を輝かせてミッツアを見ている。
「おお、今度の子は三つ目なんだね。この地方は本当に亜人や獣人が多いなぁ」
 僕の地元じゃ見ないよ、とやけに明るい。その彼にもうひとりの青年が文句をつけた。
「ちょっとおい、ジルヴェスター。俺前にも言わなかった? 亜人じゃなくてウォルテンスだっつの。亜人って『人に劣る』って意味だろ。ホントに人間ってなーんでこんな傲慢かね」
 歯を剥く彼の手には女性と同じ筒型の拘束具が付けられている。
「あ、ごめんごめん。ほら、僕の住んでる領って機械文化メインだから、こっちの領のことよく知らないんだよ。ウォルテンスね、次は気をつけるよファラムンド君。ナリステアさんとそっちの女の子――えっと、ミッツアちゃん? も、ごめんね」
 突然話を振られたミッツアは戸惑いながらとりあえず返事をし、女性――ナリステアは肩を竦めた。
「あたしはあんまり気にしてないよ」
「あーもう、姐さんはそういうこと言うんだからなー。誇りの問題っしょ誇りのー」
 唇を尖らせ、爬虫類の皮膚と尾を持つ青年・ファラムンドは手をバタバタとさせる。少々呆れてその様子を見ていると、不意に彼の視線がミッツアに向いた。ぎくりと身を強張らせる彼女から目を逸らし、ファラムンドはその視線を流れるようにディエイラにそそぐ。
「ちびっ子、逃げた後あんたのトコいたの?」
「は、はい。私の主の家に迎えられました」
 ふーん、とファラムンドは視線を戻し金の目を目蓋の下にしまった。沈黙が落ちる直前、再びジルヴェスターが口を開く。
「ねえねえ、それ気になってたんだけど、この子どうやって逃げたの? この拘束具って人に合わせて痛いところつく奴なのに。まあ僕はただの人間だからただの手錠だけど」
 じゃら、と音を鳴らして鎖につながった手を持ち上げると、その手には確かに手錠がはめられていた。
「あー、あの時の奴で残ってるのもう俺だけだもんなー。……特別なことしたわけじゃないよ。ただほら、鬼族って肉が主食じゃん? でもここの連中が回復されるとヤバイからってあげなかったわけよ。そしたら飢餓状態になっちゃってさ。拘束具ぶち破って檻壊して逃げてった。まあつまり、火事場の馬鹿力的な?」
 ファラムンドの視線がまたちらりとディエイラに向く。
「俺前はダウンしてたから逃げられなかったんだよなー。あの時みたいになれば今度こそ逃げられるんだけどなー。飢餓状態になるまで今度は待ってくれないだろうしなー」
 だるそうに言ってファラムンドは諦めたように目を瞑りゴロンと横になった。その背を見て諦めなくてはいけないのだろうか、とミッツアはスカートを両手で握り締める。ふと気を抜くと泣いてしまいそうで、その表情は厳しい。
「あ、でも今度はみんな逃げられるかもよ? 上手くいけばだけど」
 そんな中、軽く口を開いたのはジルヴェスターだ。ミッツアと体を起こしたファラムンドが視線を向けた。同じく視線を向けたナリステアは目をすがめる。
「ジルヴェスター、ここにいるやつはすぐにでも逃げ出したいんだ。冗談でしたじゃ済まされないよ?」
「やだな、冗談なんかじゃないよ。僕だって早く帰って開発の続きやりたいんだ。発見は多いけど、売られるのはごめんだからね」
 疑われるなんて心外だと言わんばかりにジルヴェスターは頬を膨らませた。完全に体を起こしたファラムンドがその彼を急かす。
「信じる信じる! で? 何? どうすりゃいい?」
 問われたジルヴェスターはにっと笑うと、ミッツアを手招きした。少し戸惑ったものの、帰りたいのはミッツアも同じ。素直にそちらに向かう。
「ミッツアちゃん、ちょっとさ、この辺り探って貰える? 左のあばらのちょっと下辺り。あ、服の上じゃなくて肌の上からね」
「ええっ? ……えっと、この辺りですか?」
 初対面の男性の肌を触れと言われ戸惑ったものの、こんな時におかしな性癖を出してくることはないだろうと信じて、ミッツアはジルヴェスターの指示のまま彼の肌に触れた。冷たいと思うほど熱のない肌の上で何度か指を行き来させた後、不意に指に引っかかりを感じる。
「あ。それそれ。指で引っ掛けて引っ張って」
 意味が分からないままミッツアは指示の通り指を動かした。すると、人体で有り得てはいけない開閉が服の下で起こる。
「ひぃっ!?」
 悲鳴を上げたミッツアが手を引いて後ずさった。彼女を含めた目を覚ましている三人の視線はあばらの下に生じた服のふくらみに注がれる。
「あれ? ジルヴェスター、君人間じゃなかったっけ?」
 怪訝に問いかけるファラムンドにジルヴェスターは満面の笑みで応じた。
「人間だよ。でも僕機械大好きでさー、装備するのもいいんだけど、やっぱり常に感じていたいじゃない? だからつい自分の体も改造しちゃったんだよね。人工皮膚を被せてるから分かりづらいけど、左側は大体機械だよ!」
 噂に聞くもあまり多くは見ない機械に関する改造というものがどんなものなのか、ミッツアたちには分からない。だが、意味の分かる改造という言葉と異常と分かるジルヴェスターの感性から背筋に冷たいものを感じるには十分である。
「それはさておき、ミッツアちゃんこのスペースに入ってる金切鋸出して」
 そんなもの入れているのか、と呆れ顔をするファラムンドとナリステア。しかし言いつけられたミッツアは動き出したものの非常に引きつった顔をしていた。人体に手を入れる、という抵抗感が拭えないのだ。それでも先に進むため、何とか手をいれ、携帯サイズの鋸を取り出す。
「ありがとー。いやさー、すぐ逃げられるからと思ってたんだけど、手首を拘束されてるとこの位置触れないんだよね。焦っちゃったよ〜」
 とても本心とは思えないほど気軽に笑いながら、ジルヴェスターは手際よく自身の手錠を切り落とした。続けて首輪につながる鎖を切ると、ようやく自由を得られた爽快感で大きく伸びをする。
「あー、やっと外せたー。さて、誰を先にする?」
 問いかけられ、先に答えたのはナリステアだ。
「一番簡単なのはミッツアだろうね。次はファラムンドを外してやりな。あたしのは量が多いし硬いから時間がかかるだろう」
「姐さあぁん、マジで男前! 俺も姐さんの口輪とか外すの手伝うかんね。爬虫人の爪は鋭いんだぜ」
 喜びの声を上げるファラムンドにナリステアははいはいと苦笑した。そのやり取りを見て、ミッツアは彼女は地声が低いだけで怒っているから低いわけではないと確信する。
 その後、言われた順にまずミッツアの手錠が外され、続けてファラムンドの拘束具と鎖が外された。そして宣言通りファラムンドも協力し、ふたりがかりでナリステアの拘束具と鎖が外される。むくりと起き上がると、ナリステアはこの場にいる誰よりも大きく、二メートルを優に超えているようだった。クラウドより小さいがファラムンドも十分大きいというのに、並ぶと大人と子供のように見える。……ミッツアやディエイラだと巨人と小人のようなサイズ感になりそうだ。
「さて、最後だね。……って言っても、これは金属じゃなくてただの皮みたいだけど。違うの?」
 首を傾げながらジルヴェスターがディエイラの腕の封印具を指で引っ張った。
「他の奴には効果がないだけさ。あんたさっき自分で言ったじゃないか、痛いところをつく奴だ、って。これはこの子――鬼族かな。それ専用の封印具なんだよ」
「そういうのもあるの? いや、僕は牙や爪とか、種族の外的特性に合わせたって意味で言ったんだけど、そうなんだねぇ」
 心底感心したように見下ろしながら、手元は危なげもなく鎖を切り落とす。後は封印具を外せばいいだけなのだが、何故かミッツアはその前で躊躇していた。
「どしたのミッちゃん?」
 ナリステアの首輪を外していたファラムンドが問いかける。ミッちゃんとは私のことなのか、と頭の端で疑問に思いながら、ミッツアは少し引きつった顔をした。
「その、以前のものは外した直後に魔力が爆発したように襲い掛かってきたので、ちょっと心配で……!」
 クラウドは平気だったようだが、魔力がほとんどないミッツアには彼女の魔力の圧に抗う術がない。転ぶ程度で済むだろうが、それでも怖いものは怖い。戸惑っていると、ファラムンドがミッツアの後ろから手を伸ばし、封印具の裏側をちらりと覗く。
「うわっ。……あーびっくりした」
 弾かれるように手を放したファラムンドは熱を払うように手を振った。
「何かあったの?」
 解放されたばかりの首をさすっていたナリステアが見下ろす。鋭い爪を引っ掛けて自分の首輪を落としながら、ファラムンドは肩を竦めた。
「うん。あ、って言っても、痺れたとかじゃなくて魔力持ってかれただけ。前回の失敗から学んだのかねー。これ魔力を抑えるタイプじゃなくて魔力を吸収して周りに垂れ流すタイプだ。ちびっ子魔力空じゃないのこれ」
 人事のような軽い口調。それとは真逆に慌てたのはミッツアとナリステアだ。
「そんな! ディエイラ様今すぐ外します!」
「あんた何そんな悠長に! こんな小さい子なのに死んだらどうするんだ」
 揃って封印具を解きにかかる女性陣に、自分の首輪を鋸で落としていたジルヴェスターは首を傾げる。
「何でこんなに慌ててるんだい? 魔力空だとまずいの?」
「普通はあんまり関係ないかな。でもちびっ子みたいに元の魔力が強くて魂に魔力が深く絡んでる奴は、空になると命に関わる。だから俺は触りたくない。ちびっ子ほどじゃないけど俺もそんな感じだし。姐さんとかミッちゃんみたいに魔力がない同然だと関係ないから触れるけどね。君もいけると思うよ。魔力全然感じないし」
 ここにいる中じゃ最大の売り物だから死ぬことはないだろうけどね、とファラムンドは軽く笑いながら自分の尻尾の先を鋭い爪で切り裂いた。ぷくりと赤い血が浮かんでくる。何をしているのか、とジルヴェスターが問うより早く、封印具を全部外し終わったミッツアが叫ぶようにディエイラを呼びかける方が早かった。
「ディエイラ様! ディエイラ様起きてくださいっ、お願いします!」
 真っ青な顔で硬く目蓋を閉じた姿は、はじめて会った時と同じだ。しかし今は、魔力を回復する手段がない。もしもこのまま本当に空になってしまったらどうしよう。ミッツアは涙目になりながら何度もディエイラに呼びかける。その彼女をファラムンドが軽く押しのけた。
「ファラムンドさん? 何を――」
「俺の一族はねー、ケアキュイア族っていう一族なのよ。知ってる?」
 見下ろしてくる金の目にはどこかからかいの色が含まれている。ミッツア、そしてジルヴェスターが首を振るが、ナリステアだけは心当たりがあった。
「確か爬虫人族の中でも特に回復力の強い一族だった?」
「さっすが姐さん! そうそう、俺らの一族は回復力が超強いの。しかも、俺らの血肉には同じ効果が含まれてる。俺が捕まったままずっとここにいるのはそういう理由ね。切り売りされてんの。んで、俺が何故わざわざこう前に出たかというと、こういうこと」
 ディエイラの隣に膝をつくと、彼は無理やり口を開かせ、そこに尾の先を突っ込む。
「なっ……! 何してるんですか!! そんな無理やり!」
 ぎょっとしたミッツアはファラムンドに飛び掛り彼を引き離そうと腕を引いた。しかし、どれだけ力を入れてもファラムンドの体は動かない。細身に見えるがその内の筋肉はそれこそ爬虫類のように詰め込まれているらしい。
「俺だってどうせなら好みの可愛い女の子の口に突っ込みたいけどさー」
 さらっととんでもない発言が飛び出すが、必死のミッツアには聞こえていないようだ。若い娘が気にしてないので他のふたりも聞こえない振りを決め込む。
「今はそんなどころじゃないっしょ。逃げ出さなきゃいけないんだし、こいつには回復してもらわないと。前は置いてかれたけど、今回はちゃーんと俺も助けてもらうんだから。血を飲ませてある程度回復したら嫌だって言っても肉も食ってもらう――」
 言葉の最中、ぶちり、と鈍い音がした。ミッツアは悲鳴を上げ、彼女に目を向けていたファラムンドも視線を音の先に向ける。見やれば尻尾がない。自切機能があるため痛みはないが、さすがに驚いた。視線を更に動かすと、半身を起こした鬼の子は貪るようにファラムンドの切り落とされた尻尾を食らっている。血を啜る音と肉を咀嚼する音、尻尾を食い破ったせいで一瞬にして満ちた血の臭いに、ミッツアは思わず顔を逸らし口元を覆った。ナリステアがそんな彼女を抱き上げ格子の近くに連れて行く。
 その間に尻尾は完全にディエイラの腹の中に消えた。口元を拭うと手の甲に血がつくが、すでに零れた血で汚れているためか本人は気にした様子を見せず顔を上げる。生気を取り戻した宝石のような赤い双眸がまっすぐにファラムンドを捉えた。
「――その節は、そして今も世話になった、ファラムンド殿。今度は、必ずや此が其を救う。そちらの人間の御仁と獣人の御仁ははじめてだな。此はディエイラ。微力ながら、脱出には此も尽力しよう」
 両膝をつき両手を捧げるようにして頭を下げるディエイラ。かつて捕らわれていた時唯一彼女を気にかけ何かと世話を焼いてくれた恩人であるファラムンドに、自分の意志ではないとはいえ再会出来た幸運。そしてやり残したことをやり切る機会を得られた幸運に、その心は燃えている。強く輝く双眸に最初に答えて頭を下げたのはジルヴェスターだ。
「こちらこそよろしく、ディエイラちゃん。僕はジルヴェスター・ジル。機械の研究者だよ」
 握手を求められ、顔を上げたディエイラはそれに応えようと手を挙げるが、自身のそれが血だらけだと思い出して服でそれを拭う。ディエイラが普段身につけているのはクラウド邸に招かれてからずっと彼のおさがりだ。ただ捨てる機会を失していただけの代物だと聞いているが、進んで汚すのはやはり申し訳なかった。帰ったらクラウドに謝らねば。そう心に決めながら、改めてジルヴェスターの手を握り返す。
「あたしはナリステア。傭兵をやってる獣人だよ。よろしくねディエイラ。……ところで、ファラムンドと前に何かあったのかい?」
 顎をしゃくってナリステアに示されたファラムンドは肩を竦めて「何もない」と笑って答えようとした。それに被るようにディエイラが口を開く。隠すどころか大いに彼の厚意を伝えたかったのだ。
「以前捕らわれていた時に何かと世話になっていた。逃げる時は一緒に、と言っていたのだが、彼が血と肉を取られすぎて寝込んでいた時に此だけ逃げてしまったのだ」
「ちょっとおいちびっ子! そういうの言うなよ、俺がロリコンみたいじゃん」
「それを言わなければ好青年で終わったと思うよファラムンド君?」
 ディエイラの頭を両手で掴んで揺するファラムンドに、ジルヴェスターは笑いながら茶々を入れた。その彼らに一度笑いかけてから、ディエイラは格子に両手で掴まって俯いているミッツアに視線を向ける。一度開きかけた口は躊躇するように閉じられ、少しの逡巡の後、ようやく音を舌に乗せた。
「ミッツア殿、おぞましい姿を見せてしまい申し訳ない。近くにいるのも嫌かもしれないが、どうか其をクラウドの元に連れて帰るまでは耐えて欲し――」
「何言ってるんですか!」
 青い顔を跳ね上げたミッツアがふらつく足でディエイラに近付く。驚いているディエイラの前にしゃがみ込むと、彼女はディエイラの口元に残った血を自分のハンカチで拭い始めた。少し怒ったような全ての目は潤んでいるが真っ直ぐにディエイラを映している。
「ちょっと驚いただけです! ちょっとだけ! 謝る必要なんてないんです、近くにいるのが嫌なんて絶対絶対ありませんから!!」
 言うが早いかミッツアの腕はディエイラを抱き締めた。本当に怖がっていない、気を遣っているわけでもないその様子に、ディエイラは目を細めて微笑み、ミッツアを抱き締め返した。
「……ありがとう、ミッツア殿」
「どういたしまして、ディエイラ様」
 体を離し微笑み合うと、ディエイラは気付いたようにミッツアの手のハンカチを取る。一言謝ってから、不思議そうな顔をするミッツアの頬をそれで拭った。
「い――あれ、痛くない? あれ?」
 一瞬痛みが走ったはずの頬をミッツアは手でさする。確かそこにはアビゲイルにつけられた傷があったはずなのに、今は指先に傷の感触はなくなっていた。手につくのは乾いた血だけだ。
「血を塗るんでも効果はあるよ〜」
 補足するようにファラムンドがピースサインを作って笑いかけてくる。なるほど、とミッツアはディエイラとファラムンドに頭を下げて礼を伝えた。
 それに頷き返してから、ディエイラは気を取り直すように全員を見回す。
「お待たせして申し訳ない。さぁ、ここから脱出しよう」
「お前が仕切んなっての」
 ぺしりとファラムンドがディエイラの頭を平手で叩いた。ミッツアが怒って噛み付く中、気にしないディエイラとナリステア、ジルヴェスターは次の行動を話し合い始める。
「とりあえず、まずは装備を回収しよう。話はそれからだ。戦わないで脱出が一番だろうけど、備えはしておくべきだろう」
「うんうん、僕の大事な機械たちが取られたままなんだ! 回収しないと」
「内部の情報など分からないからな、しらみつぶしに行くしかあるまい」
 目下の目標を取り上げられた物の回収に設定し、一同はひとまず牢を出ることにした。
「ではここは此が」
 張り切って魔力を放出しようとしたディエイラをナリステアが留める。
「他にも必要になる時があるだろうから温存しときな。黒角の一族の魔力は切り札になりえるんだから。それより、強化の術は使える? 弱くていいんだけど」
 それもそうか、と頷き、ディエイラは返事代わりに肉体強化の魔術をナリステアにかけた。詳しく言うまでもなく自身の考えを察したその理解力にナリステアは「たいしたもんだ」と相好を崩す。
 魔術の効果を噛み締めるように両手を開閉させたナリステアは改めて格子の前に立った。そして、目の前の並んだ二本を掴むと力を込めて左右に開く。途端に、まるで粘土で出来ているように鉄の格子がぐにゃりと変形し、横の格子は勢いよくぶつかった拍子に拳型に変形した。後ろで見ていたミッツアは言葉を無くし、ジルヴェスターは顔を輝かせ、ファラムンドはひゅうと口笛を吹く。
「驚いた。これが黒角の鬼族の魔力なんだね。もう少し力入れなくても余裕だったねこれは」
 感心したようにナリステアは自身の両手を見下ろしていた。
「此は一族でも中の中程度しか魔力を持たぬ。もっと凄い者は山のようにいるぞ」
 ディエイラのさらっとした補足にナリステアは苦笑して肩を竦める。
「さ。さっさと脱出しよう。姐さん匂いで辿れる?」
 いの一番に檻の外に出ると、ファラムンドは左右を確認するように見回した。すると、突然跳躍して姿を消してしまう。
「ファラムンドさん!?」
 驚いてミッツアが悲鳴のように呼びかけ、ナリステアが飛び出した。しかし、彼女はすぐに立ち止まる。
「見回りか。殺したの?」
 恐ろしい確認にミッツアがディエイラに抱きついた。ディエイラはそれを慰めるようにぽんぽんと背中を叩いてやる。
「いんやー? どうせ犯罪者だし殺してもいいけど、ちびっ子とミッちゃんいるから気絶にしといた」
 俺って優しー。軽口を叩くファラムンドに同じく廊下に出たジルヴェスターがそれを眺めながら自身を指差した。
「僕は気遣ってくれないの?」
 尋ねられたファラムンドは笑顔を彼に向ける。
「自分を嬉々として改造する奴はいいんじゃないかな」
 もっともな答えだ。ジルヴェスターは不満げだが、口に出さない女性陣はそう内心で頷いた。
 ミッツアとディエイラも順に廊下に出ると、何やら左右の牢が騒がしい。ディエイラは左右を見回し、この場所が通路を挟んで片側に牢が六つ並び、もう片側は壁になっていることに気付く。今更だが、以前捕らわれていた場所とは少し違うらしい。以前の場所は丸い広場の壁際に牢が並んでいる仕組みだった。
「何事だ?」
 ディエイラが右側の牢の前にいるナリステアに問いかける。ちなみにこちらは奥にもうひとつ牢があるだけで後は行き止まりだ。
「他の捕らえられている奴らだよ。自分たちも出せってさ」
「そこまで時間ないんだから俺は放置でいいと思うけどねー」
「でもそれは流石に可哀想じゃない? 僕らだって運良く牢から出られただけだし」
 年長者三人が相談する中、ディエイラは牢の中にいる者たちと真正面に向き合う。牢には老若の男性が捕らわれているようで、先のディエイラたち同様首輪でつながれていた。入り口近くにいた犬の耳を持つ青髪の青年と鳥の頭と羽を持つ――恐らく壮年の――男性と目が合う。彼らはディエイラを見て一瞬「こんな小さな子供まで」という表情を浮かべ、次いで黒角を見つけたのか目を見開いた。直後、ディエイラは助けを求めるべき相手と判じたのか再び懇願を始める。
「頼む、ここから出してくれ!」
「僕たちも必ず役に立つ。それに、逃げる者が多い方が成功率は上がるはずだ」
「もう家に帰りたいんだよぉ。お願いだから出して」
「何でもする! 何でもするから俺たちも逃がしてくれ」
 手前のふたりが声を上げると奥のふたりも合わせて頼み込んできた。一度瞑目したディエイラは、瞳に強い光を輝かせる。
「全員逃がそう。強化の術をかけるから、ファラムンド殿も手伝ってくれ。劣化の術も得意ではないが使えるから、金属も比較的すぐに外れるはずだ。中には道具がなくてもいける者もいるだろう」
 決めるが早いかディエイラはファラムンドに術をかけ、ナリステアは頷くと同時に牢の格子を次々に開き始める。萎えた様子のファラムンドとジルヴェスターを引きつれ、ディエイラは右端の牢から順番に劣化の術をかけていった。無事に効果は出たようで、ふたりは「確かにさっきより切りやすい」と揃って口にする。
 解放された者たちは、自分だけ逃げ出そうとする者はナリステアに睨まれ留められ、協力的な者は解放を手伝ったりやってくる見張りの撃退を行った。そして、数分後には全ての牢から捕らわれた者たちが解放される。
 一同は同時に進み、ナリステアをはじめとした獣人たちの鼻を頼りに自分たちの荷物が置かれている倉庫まで向かった。途中何人か敵と遭遇するが、多人数のおかげで応援を呼ばれる前に全員を無事に撃退できている。中には怪我をした者も出たが、回復の術を使える者がいたため動けなくなる者は出なかった。
 ほとんど実害を被らず一同は倉庫に辿り着く。各々が各々の装備を回収し始める中、特に何も取られなかったディエイラとミッツアは倉庫の入り口近くで留まっていた。
「おまたせ〜」
 機嫌よく近付いて来たのはファラムンドだ。身につけているのは白を基調とした袖がなく裾が片方だけ長いシャツと、同色のゆったりとしたズボン。丸くつなげられた黄色の縁取りがされた茶色にも見える深緑の生地を脇のすぐ下に通し胸の前で交差させ首にかけている。
「やっぱりこれが落ち着くね」
 続けてやって来たのは緋色を基調に黒が随所に入る重装鎧を身につけたナリステアだ。背には大剣を背負っており、腰には一角がついた兜が下げられていた。がしゃりがしゃりと音を立てて歩いてくる彼女を見上げ、ディエイラとミッツアは本当にどうして彼女は捕まったのだろうと疑問を露にする。それに答えたのは本人ではなくご機嫌な様子で文字通り跳ねてやって来たジルヴェスターだった。
「凄いねナリステアさん。村人さんたちを人質に取られなかったら絶対捕まりそうにないね」
 まあね、とナリステアは苦笑する。一方、納得したディエイラはジルヴェスターに視線を向けた。彼は褪せた茶色のシルクハットに金色のゴーグルをつけ、肩にパットが入った帽子と同色のコートを身につけている。その下には彼が言う所の「機械」なる物があり、胸には鈍い金色や銀色が輝いていた。色々と身に着けているうえにコートの下にも何か隠しているらしい。彼が動くたびにがちゃがちゃと見た目に反する音がする。また、耳には同じく機械製なのかごつすぎる耳飾りがついていた。
 全員が自分の装備や服を取り戻すと、一同は倉庫を出て再び先に進もうと歩きだす。その直後、廊下中――いや、この建物中に響いているのではないかというほどけたたましく警報が鳴り始めた。
「脱走がばれたの?」
「気絶させた奴が起きたのかも」
「とにかく早く先に進もう」
「急げ急げ!」
 捕らえられていた者たちは口々に叫ぶと廊下を駆け出す。先ほどよりも騒がしい行軍は相手にもばれたらしく、様子を見に来たのかこちらを疑って来たのか単純に騒ぎすぎて気付かれたのか、倉庫に至る前とは比べ物にならないほど敵の数が増えた。それなりの広さはあるとはいえ結局は建物内。狭い中での交戦は互いに負傷者を多く出し、ひとり、またひとりと血に塗れる者が増えて行く。そもそも戦えぬ者や魔法を主体で戦う者がいるため戦力が少ないのがディエイラたちにとっては痛手だった。
 それでも何とか進むと、一同の足が止まる。分かれ道だ。
「……どっちからも外の匂いはするから、多分出入り口がふたつ以上あるんだろう。ただ、どちらも敵は来てるだろうだね」
 ナリステアが鼻をひくつかせ言うと、同意するように獣人など鼻の良い者たちが頷く。
「でもあっちの方が吹き込んでくる風が多いです! あっちの方が広そうですよ」
 後ろから分かれ道に飛び出した、ディエイラより年上・ミッツアより年下といった年頃の紫のローブを着た少女が左の道を示した。迷うところではない、と、一同はナリステアを先頭に走り出す。向かった先には、少女の言う通り広間があった。数段の段差をのぼりきった先にあるそこは天井が高く、見上げれば吹き抜け構造になっていることが分かる。どうやら今までディエイラたちが駆け抜けてきたのは地下二階で、ここは地下一階と二階の両方につながるという不思議な造りのようだ。
「見ろ! 出口だ!」
 誰かが叫ぶのに引かれる様に一同の視線が斜め上方向に集まった。階段をのぼり、地下一階の床に相当する吹き抜けからさらに階段をのぼった先に、確かに入り口がある。大きな物を運搬する時に使うのか、その横には昇降機の乗り場も設けられていた。
「誰もいない……? おかしい、これまでの様子だとここに敵がいてもいいはず――あ、待ちなあんた達!」
 立ち止まり訝しむナリステアに焦れた者たちが、彼女の制止などお構いなしに一斉に走り出す。しかし直後その疑惑は正しかったことが明らかになった。ぐるりと囲むように一定の間隔を開けて吹き抜けの壁部分に隠れていた敵たちが、弓矢を構えて姿を現す。即座に躊躇なく放たれた矢の雨が先に進んだ者たちに降り注いだ。悲鳴が響く中、咄嗟に飛び出したディエイラは力の限りに叫ぶ。
「やめよっ!!」
 焦りと怒りを孕んだ声と同時に放たれたのは術ではなくただの魔力。だが強烈なそれは強い圧となり周囲を薙ぎ払った。落ちてきていた矢は壁に当たり、弓を構えていた敵たちはころころと人形のように転がって行く。弊害は、敵だけではなく味方も吹き飛ばしてしまったことだろうか。負傷した者たちも同時に床の上を転がされてしまった。
「ばっか! ちびっ子お前何で術使わないんだよ! 指向性持たせなきゃお前の力はただの無差別兵器だっての!!」
 身を低くしてミッツアを抱えていたファラムンドが怒鳴りつける。
「す、すまぬ。此が覚えている攻撃の術は大掛かりなものばかりだからつい――!」
 仲間まで吹き飛ばしてしまい、流石に慌てたディエイラが言い訳した。黒角を持つ者の「大掛かり」への恐怖を多少の差あれ皆が胸に抱く。しかし、今こそ好機と取ったのか、気を取り直した面々も広間に駆け出した。それぞれに盾や剣などの武器を掲げ矢を警戒し、道すがら転がり唸っている者たちを拾い上げていく。すぐに回復出来そうな者はファラムンドや回復術を使える者が治した。
 だが、一同が広間を抜け切るよりも敵が体勢を立て直す方が早い。再び複数の弓が一同に狙いをつける。
 放て、と命が飛ぶ最中、異変は起きた。
「うわぁっ、何だこれ!?」
「蝙蝠!?」
「くそっ、どけっ!!」
 突如現れ敵の周りのみを飛び回るのは大量の蝙蝠だ。敵が混乱に落ちる中、一体何がと脱出者たちは困惑する。その中ふたりだけ、その顔に安堵の表情を浮かべる者がいた。ディエイラとミッツアだ。
「――来て、くれたのか」
 ディエイラが空を見上げて呟けば、答えるようにその姿が現れる。
「待たせた。無事か、ディエイラ、ミッツア」
 心配そうな響きをこめるその問いかけに、ディエイラとミッツアは同時に微笑んだ。冷静そうな顔に声通りに心配そうな表情を浮かべる吸血鬼に向けて。