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第五話


 クラウドがこの地に辿り着いたのは数分前のことだ。彼が痕跡を辿り辿り着いたのは森の中だった。彼が住まう森よりも鬱蒼としており、人が行き来する痕跡はあるものの密やかな印象がある。
 クラウドはずれていたフードを被り直し、不可視の術を自身にかけると慎重に辺りを見回した。探るべく探索術で意識を広げると、少し行った先にやけに気配が固まっていることに気付く。そちらに向かって行けば、この森の中にあるには違和感がある木材造りの建物が出てきた。入り口の前に置かれた机には談笑する客が数人いるが、どこかぴりぴりした空気が伝わる。恐らく見張りなのだろう。
 クラウドは一度下がり、自らの手に噛み付いた。溢れる血を地面に二箇所滴らせる。それに術を注ぐと、地面がぼこぼこと盛り上がり、あっという間に土塊(つちくれ)は仮面を被りフード付きのマントを羽織った人型になった。血の量を制限したため大人の男と見るには一回りは小さい作りだが、問題はないだろう。
「派手に暴れて来い」
 命じると、土人形二体は自ら地面から両手剣を作り出し、それを握って飛び立つ。二体が表と裏に分かれて突撃をかけると、建物からはけたたましい音が聞こえてきた。頼んだぞ、と一言呟き、クラウドも裏手に向かって動き出す。
 人間、ウォルテンス、機械、それ以外。建物からは土人形の対処をしようと多くの者が出てきた。その者たちが開けたままにした扉から堂々と入り込むと、クラウドは早足で建物の通路を歩く。幸い、大量の人間が慌しく行き来しているためクラウドの足音に気付く者はいない。
 騒がしすぎではないか、と少々疑問に思いながら幅のある通路を歩いていくと、扉のない部屋に差し掛かる。壁際にはいくつか大きな箱が積まれていた。荷置き場か、と思ったクラウドは、しかし覚えのある魔力が近付いている事に気付きその部屋に足を踏み入れる。
「……地下か」
 ありがたい。内心でそうひとりごち、クラウドは部屋を見回した。結果、三箇所に似たような魔力の受け皿を見つける。同時にそれに魔力を注ぐと、床が低く響く音を立てて開いた。流石にその音には気付かれ、何人かが部屋に駆け入ってくる。その内のひとりである人のシルエットを持つ猫頭のウォルテンスは魔力がそれなりにあるらしく、姿を消しているクラウドに気付いた。彼が武器を構えようとした直前クラウドは魔力を打ち出し彼を気絶させ、戸惑っている隙に残りも同様に気絶させる。彼らは普通の人間だったようだ。
 その隙に床下に現れた傾斜の緩い階段を下がっていったクラウドは、階下に弓を構える者たちと、その彼らに狙われている一団を見つけた。一瞬どちらが敵か味方か判別がつかなかったが、その疑問はすぐに解消される。一番下にいる一団に、ディエイラとミッツアの姿を見つけたから。
「行け!」
 放たれるまで間もない、と慌てたクラウドは少し大きな声で命じた。応じてクラウドから生じるように現れたのは大量の蝙蝠。彼らは敵たちの周りを邪魔するように飛び回る。その隙に、クラウドは不可視の術を解いた。
「待たせた。無事か、ディエイラ、ミッツア」
 見つけた安堵と心身ともに傷付いていないだろうかという心配を込めて問いかけると、ディエイラとミッツアは揃って微笑んでくれる。ほっとして、クラウドも安堵の笑みを浮かべた。
「詳しく話したいが、まずはこいつらをどうにかしてからだ」
 蝙蝠たちが徐々に払われて来たことに気付き、クラウドは自身の周りの光球を浮かび上がらせる。そして瞬く間もなく、その光球からは光の筋が放たれまず近場にいた数人を打ち倒した。
「おおっ、ビーム! ウォルテンスでも使えるんだね」
「ジルヴェスターさぁ、ちょっと状況考えなよ」
 階下からやけにはしゃいだものと呆れたもの二種類の男の声が聞こえてくる。
「……こうか」
 今度聞こえたのはディエイラの声。彼女に視線を向けると、その周囲にはクラウドが出しているものよりも大きな光球が浮かんでいた。探知は苦手なようだが、攻撃系は逆らしい。黒角の一族の才能たるや、と感心している間に、残りの敵はディエイラの光球で打ち倒される。
「おおっ、凄いねディエイラちゃん! 後でもう少し詳しく見せて」
「今覚えたのかい? たいしたもんだね」
「へぇ、やるじゃんちびっ子。でもそんなあっさり出来るんだったらもっと早く覚えておけってのー」
 口々に見慣れぬ者たちがディエイラを褒め称える中、僅かとはいえ時間が出来たので、クラウドは階下に飛び降りた。受け止めるように足元に来た蝙蝠たちに乗ってディエイラたちの元へ向かい、床に着地する直前に蝙蝠を自分の中に戻す。
「無事で安心したディエイラ、ミッツア。……しかし、随分大所帯だな。他に捕まっていた者たちか?」
 質問を肯定し、ディエイラは同じ牢にいたメンバーのみにクラウドを、また彼らのみをクラウドに紹介した。
「皆、こちらは吸血鬼のクラウド。此が世話になっている御仁だ。クラウド、こちらが獣人のナリステア殿。こちらが爬虫人のファラムンド殿。こちらが人間のジルヴェスター殿。彼らは此らと同じ牢にいた者たちで、ここまで逃げるのに協力してくれた」
 ディエイラの紹介に合わせてクラウドたちは順に頭を下げたり手を挙げたりと相手に挨拶する。
「そうか。我が屋の者たちが大変世話になった。ここまで連れてきてくれたこと感謝する」
「そうだクラウド」
 クラウドが丁寧に頭を下げた言下、ディエイラは思い出したようにファラムンドの腕を引っ張った。
「彼が、此が以前捕らわれていた時唯一気を遣ってくれた御仁だ。再会出来た」
 嬉しそうにディエイラが言うと、ファラムンドは「やめろっての」とまたディエイラの頭をぱしりと叩く。ミッツアは怒るが、クラウドはかつての、そして今日のファラムンドの行動を思い自然と笑みを浮かべて彼に手を差し出した。
「ディエイラが助けたいと言っていたのはそなたのことか。ファラムンド殿、過日ディエイラを気遣ってくれたこと心より感謝する。そして今日は、彼らと共にディエイラとミッツアを無事に守ってくれたことに」
 握手を求めて差し出されたクラウドの手をファラムンドは軽く目を見開いて見つめる。続けて彼が視線を向けたのは自分の腕を掴んだままのディエイラ。視線が合ったディエイラは目を輝かせて笑みを浮かべた。かつてこの地で見た諦念に塗れ前を向くことさえしなかった少女と同一人物とは思えないほど明るく希望に満ちた表情。ファラムンドは僅かな間を空け、くしゃりと表情を崩す。
「どーも」
 短い返事と共にファラムンドはクラウドの手を握り返した。隣のディエイラは満足げに笑い、ミッツアとナリステアはその様を見て微笑を浮かべる。少しの間手を握り合ってから、どちらともなく手を離し、クラウドはすぐに話を現実に戻した。出来れば浸りたいところだが、状況はそれを許さない。
「今土人形を暴れさせているから敵は少々ながら分散されているが、恐らくこの建物にいる敵は多いだろう。全滅させるよりは逃げる方が現実的だが――」
 ぐるりと周囲を見回し、クラウドは難しい顔をする。
「この人数を移動させられるほど霊力は残っていないな……」
 ざっと数えたところで二十人は越えていた。クラウドには元々精霊術などを使用する時に必要な霊力が魔力の半分もない。術ではなくただの移動とはいえ、「本物」ではないクラウドは霊力を必要とする。そしてクラウドの霊力はせいぜい少数を往復で運ぶ程度のことしか出来ない。だが一時的とはいえ置いて行くには心苦しい。
 クラウドの言葉が聞こえていた者たちが難しい顔をする中、ひとりの少女が手を上げながら人の間を縫ってくる。彼女は先の分かれ道でこちらの道を勧めた少女だ。
「あのっ、霊力で移動ってことは風の精霊術ですよね? それなら、私風の精霊術士です! 術はまだ上手くないですけど、マナの変換は得意ですから供給なら出来ます!」
 マナ、というのは世界中に満ちる、霊力の源と言われるものの名称である。通常、霊力は周囲に溢れるマナを受動的に取り込み徐々に回復するものだ。その常識を外れるのが術士。彼らはマナを能動的に取り込み変換し、即時霊力にすることが可能なのだ。
「そうか。ならそなたがいればこの人数も運べそうだな」
 正確に言うと術ではないのだが、マナが必要なのには変わりないので訂正は入れないでおく。
「話まとまったー? 昇降機改造してみたから怪我人全員ここに乗せて。元気な人は階段ダッシュだよ」
 状況にそぐわぬほど明るい声音がする。声の主は昇降機の隣で手を振りながら立っていた。少しマントの下のシルエットが細くなったジルヴェスターだ。彼の言葉に従い見れば、昇降機を動かす大きなハンドルに見慣れぬ物体が接続されている。白に近い銀色で、所々に継ぎ目が浮かんでいた。大小の歯車がいくつか重なっており、かちりかちりと音を立てている。動かせば一気に巻き上げられるよ、と拳を握り力説する彼の足元には恐らく本来その役目をしていたであろう寸胴な魔法人形が転がっていた。邪魔だと判断され取り外されたのであろう。哀れな魔法人形と動かす瞬間を今か今かと待っているジルヴェスターを見比べていたクラウドの肩を、諦めて、とファラムンドが叩いた。
 気を取り直し、走れる者は階段をのぼり、怪我人と体力の無い者は昇降機に乗り込む。一階へ辿り着くと、一同は集まってくる敵を払いのけながら外へと飛び出した。久しぶりに見る日の光に目が眩んだのか立ちすくむ者が続出する。クラウドもまたフードを被り直した。
 少し深い呼吸を二度ほどしてから、もう一度深く息を吸う。その息を吐き出すように先を促そうとした言葉は、しかしその直前霧散した。木で出来た建物の壁を破壊して現れた異形たちと、それに対して上がった敵味方問わぬ悲鳴によって。



 壁を壊して現れたのは一言目に「異形」と表現する他ない存在だった。体色はガマガエルを髣髴とさせる。デフォルメして描かれた蛙のように丸く突き出た目はぎょろりと前を向き、突き出た下顎からは大きな二本の牙、その間と上顎には細かな牙がびっしりと並んでいた。目と目の間にある頭頂から長い後頭部には申し訳程度に藻のような色をした体毛が生えている。サイズは人より少し小さいものから人より少し大きいものまで多岐に及んでいるようだ。前傾気味の姿勢で、ひょろりとしているが筋肉が詰まっていることが見て取れる両手足のいずれかには、皆同様の輪がはめられている。また、四肢のいずれの先にも鋭い爪があり、見る者の恐怖をかき立ててきた。
 しかし、恐怖をかき立てる理由はただ鋭い爪を持つが故ではない。ソレらが、クラウドたちが「敵」と認識した奴隷商人たちに襲い掛かっているからだ。しかも、人の体の一部を手に持っているものや口に咥えているものもいる。引きつった表情で固まっている生首を噛み砕いている途中のものが出て来た時には脱出者たちからも悲鳴が上がった。
 ぞろぞろと脱出者を越えるほど連なって出てくるソレらは、最初は逃げ惑う奴隷商人たちを追いかけていたが、すぐに近くにいるクラウド達にも気が付く。何匹かが方向を変えこちらにやってくる。
「やっ、やだやだやだっ、何ですかあれ!? あんな種族知らないんですけど!」
「ちょっとファラムンド君、同じ爬虫類系でしょ!? 話してきてよ敵じゃないって」
「いや無理無理無理、『爬虫類皆兄弟』とか言ってる奴いるけど普通に他人だから! っていうか俺も知らないよあんな種族」
 やや混乱状態のミッツアとジルヴェスターがファラムンドの後ろに隠れながら彼を前に押し出そうとした。ファラムンドは腰を落とし足に力を入れ本気でそれに抵抗している。
「落ち着きな。あれはウォルテンスじゃないし、話が通じる奴じゃないよ」
 大剣を油断なく構えたナリステアが、兜の下から厳しい視線を異形たちに向けつつミッツアたちを宥めた。
「姐さん、あの気持ち悪いの知ってんの?」
 ミッツアとジルヴェスターが止まったことにほっとしながら、ファラムンドは安堵した様子でナリステアを見上げる。
「ああ。ザナベザっていう水陸両生の魔獣だよ。凶暴な性質で、敵だと判断するとその爪や牙で容赦なく相手を攻撃する。――こんな風に、ねっ!」
 説明の最中、ナリステアの説明を証明するためのように現れた通常の人サイズの異形――ザナベザが襲い掛かってきた。ナリステアは突き出された爪を剣を盾にすることで受け、その返しの剣で袈裟懸けに斬りつける。紫色の血飛沫が舞う中、こちらも完全に敵だと判断してさらに多くのザナベザたちが襲いかかってきた。戦える者たちが一斉に前に出る。
「あの、クラウド様、魔獣ってあの、どこからか発生するっていう――?」
 マントに縋りながら尋ねてきたミッツアにクラウドはフードの下で頷いた。この世界には魔族や魔物と呼ばれる存在がおり、彼らの多くもまた異形を持っている。しかし、魔族はそのほぼ全てが、魔物はそこそこの数の種族が、知能を持ったり文化を持ったりしている。その全てではないが、ウォルテンスに数えられる種族もあり、境界は曖昧だ。
 必ず襲ってくる魔獣ほどではないが、彼らの中には人を襲うものも少なからずいる。その点について、普通の人にとって魔族も魔物も魔獣も危険な存在には変わりないだろう。だが、魔族・魔物と魔獣には決定的な違いがある。それは、魔獣は他と違い突然生じる存在であることだ。生殖器も確認されているため子孫を増やすことも可能なようだが、たとえ狩り尽くしても魔獣は再び現れる。彼らが「魔素(まそ)」から構成されるためだ。
 魔素とは、この世界につながる全ての世界から多少の差をつけながら止め処なく流れてくるものである。専門家からは複雑な説明が返されるが、簡単に言えば「悪意」が変質したものをそう呼ぶ。知性を持つ生き物がいれば絶対的に悪意は生じ、あらゆる世界と平等につながるためこのエスピリトゥ・ムンドは生じて変質した魔素も取り込んでしまう。それが凝り固まったものが生命を得て、魔獣となるのだ。その成り立ちゆえ、魔獣は総じて凶暴な性格をしている。食べるためでも身を守るためでもなく、襲い、殺すために別の生命体に目をつけるのが本質だ。
「数が多いな。よし、此も参戦してくるぞ」
 両拳を握り締め気合を入れたかと思うと、ディエイラは止める間も無く乱戦の中に飛び出してしまった。周囲には先ほど覚えたばかりの光球の魔術が早速展開されている。
「待てディエイラ!」
 慌てたクラウドはミッツアを近くにいたジルヴェスターの腕に託してその後を追いかけた。
「うわ、頭いいと思ってたけどやっぱ馬鹿なのかなあのちびっ子」
 呆れた調子で肩を竦めるファラムンドをミッツアは三つ目でじろりと見上げる。気持ちは分かるがどうもこの男は口が悪い。視線に気付いたファラムンドは間違ったことは言っていないと笑い――直後表情を一変させたかと思うと目の前から姿を消した。何が、とミッツアが思うより早く、その背後で肉を打つ音がする。
「えー、こっちの人たちの方が馬鹿じゃないの? この状況でこっち襲うー?」
 隣で振り返ったジルヴェスターが先のファラムンド以上に呆れた調子で言い捨てた。見れば奴隷商人たちが何人かそこに立っている。いや、立っていた。今、飛び上がって回転したファラムンドの太い尻尾でふたりが同時に打ち倒されたので、もう立っている者は誰もいない。
「あ、ありがとうございます。……え、ファラムンドさんもう尻尾生えたんですか?」
 先ほどディエイラに食われたはずの尻尾が変わらぬ姿でそこにあり、ミッツアは素直に驚きを露にする。
「超回復の一族って言ったでしょ。普通のトカゲと違って何度でも回復するしそのスピードは早いの。それよりマジで戦えない人たちは下がって下がって。何匹か漏れてきてる」
 示された方向を見やれば、言葉通り何匹かのザナベザがこちらに向かってきていた。戦えない者たちは兢々(きょうきょう)しながら建物の壁際に下がる。細すぎて枯れ木のような印象を与える金髪の女性が何事かを唱えると、彼らを包むように半透明の黒いドームが出現した。恐らく防御結界の役割を持つのだろう。
 背後の危険はないと判断し、ファラムンドと残った数人がザナベザたちを迎え撃った。だが、実際に手を合わせる前に二匹の異形たちの頭が吹き飛ぶ。頭の中心が丸々吹き飛んだのが一匹、向かって右側の顔半分が無くなったのが一匹。紫の血を噴きながら倒れるザナベザたちから、ファラムンドたちの視線は背後に向かった。
「調整してないから人相手だと無理だったけど、魔獣相手なら遠慮いらないね。テストも兼ねてエネルギー切れになるまでガンガンやらせてもらうよ」
 こちらが状況を勘違いしそうなほど明るく楽しげな声の主はジルヴェスターだ。その両手には二丁の拳銃が握られている。ファラムンドが以前旅先で見たことがある物と大まかな形は同じだが、ごつい銃身の一部は透明になっており、中では小さな稲妻がぱちりぱちりと走っていた。機械文化というのはいまいちついていけないが、魔法などの能力とは違う意味で「凄い」ものだと改めて認識する。
「よし、来る奴は全部片付けるよー。みんな怪我しないようにね、守るの面倒だから」
 やる気があるのかないのか分からないファラムンドの号令を合図に、後方での戦闘も開始された。



 生じさせた光球を前後左右に動かし、ディエイラは近付いてきた、もしくは自分から近付いた先のザナベザたちを次々に打ち倒して行く。もう少し広さがあるか味方が少なければ元々覚えている大掛かりな方の魔術を使っていたが、細かな調整が必要となる現状だとこちらの方が使いやすかった。倒した数が五を越えた辺りから、ディエイラはむしろ自分の意思で操作するこの魔術が楽しくなってくる。魔獣と聞いて少し警戒はしたが、どの爪も牙もディエイラには届かない。時々吐きかけてくる毒液も生じさせた不可視の障壁で防げていた。危険な状況だと分かりつつも、ディエイラは心のどこかでゲームのような感覚を抱き始める。
 しかし、ディエイラは忘れていた。かつてクラウドが釘を差した言葉を。自分が、ただ魔力が強く要領がいいだけの、戦いのことなど何も知らない子供だ、ということを。
 背後に動く気配を感じたディエイラは咄嗟に振り返り光球から光を放つ。突然のことで少し力が入ってしまったが、どうせ魔獣――と思ったその赤い双眸に映ったのは誘拐の実行犯の息子・トリストだった。人間を殺してしまう、と反射的に体が跳ね生じた光球が歪む。それとほぼ同時にディエイラはまた別のことに気が付いた。トリストの前で、放った魔力の光が停滞し渦巻いている。にやりとトリストが笑うと同時に、停滞していた光が跳ね返ってきた。防御を、と考える間も無く光が迫る。
 不意にそれが遮られたのはその次の瞬間。目はつぶっていないが、突然横から吹いた強風と共にやって来た何かが、ディエイラに覆い被さったのだ。光線はその「何か」にぶつかったらしく、痛みより先にディエイラに襲い掛かってきたのは衝突の衝撃だ。その衝撃は凄まじく、「何か」はディエイラごと吹き飛ばされた。衝撃ゆえか、それとも「何か」が意図的に行ったのか、ディエイラたちは空中で回転する。その結果、「何か」は今度は壁に激突する。ディエイラの短い悲鳴に被さったのは聞き慣れた声の、聞き慣れぬ呻き声。同時に鼻がようやく認識したのは、鉄の臭いの奥にある、嗅ぎ慣れた匂い。
 ざわりと全身に鳥肌を立てたディエイラは、反射のように自分と「何か」を包むように障壁を展開させる。それと同時に背後で障壁と鋭いものがぶつかる音がするが、今はそんなことに構ってはいられない。ディエイラはすぐに「何か」の腕の中から身を起こした。その動作すら痛みを与えてしまうのか、「何か」は――ぐったりとしたクラウドは声を漏らす。
「クラ……ウド……ッ」
 言葉が続かない。見上げたクラウドは内臓が傷付いたのか口から血を吐いており、どの段階でそうなったのかは分からないが肩付近の骨が鋭角に割れ肉を突き破っている。ヴェーチルから渡されたという風の大剣が横に転がり、握っていたはずの手は力が入らないのかぴくりともしない。見れば、足もあらぬ方向に曲がっていた。ぽたりぽたりと降ってくる血がディエイラの灰色の髪を染めていく。
「だい……じょ……か……?」
 このような状況だというのに、クラウドの口から出たのはディエイラの安否を問う言葉。
「此は大丈夫だ! そんなことよりクラウドが……! 何故、何故回復が間に合って――」
 何故回復が間に合わないのか、取り乱して叫ぶように言いかけたディエイラの頭は急速に冷えた。冷静を通り越し、震えまで起こるほどに。彼女は自問する。彼はここにくるまでに、どれほどの無茶をした、と。
 朝は食事の途中だった。その後、ここまで追ってきてくれた。土人形を陽動用に使ったと聞いた。何人も敵を倒している。この――この、真昼の太陽の下で。
 ディエイラは両手を握り締めた。それはどれほどの無茶なのだ。風の精霊の半身のおかげで純血の者より耐性があるとはいえ、本来夜の住人である彼にとって雲が僅かに浮かぶ程度の晴天の日差しは毒にしかなりえないはずだ。
 顔を上げたディエイラは自分が来たはずの方向に目を向ける。回復が使える者はどこにいる? ファラムンドは? 視線を巡らせてファラムンドの姿を見つけるが、それはすぐに、何故か先ほどよりも凶暴性を増しているザナベザたちに遮られてしまった。
 誰かに助けを求めるように視線をさらに動かすが、誰も彼もが激しく暴れるザナベザたちに苦戦してこちらに気を向けられないでいる。動悸が徐々に激しくなっていく。呼吸が段々と荒くなっていく。ディエイラの一番誇るべき点である冷静さはその度になりを潜めていった。
「……此のせいだ、此の……」
 カチカチとぶつかり合う歯の隙間から漏れるのは自責の言葉。青ざめていく顔には絶望が静かに浮かび始める。大人たちに手放しで褒められ続け、捨て切れなかった黒角を持つ者の自尊心がすっかりディエイラを調子に乗らせていたのだ。ディエイラが飛び出さなければ、クラウドはこんなことにはならなかった。自覚したためにディエイラは一層自分を責める。せめて彼を救う術を持っているならば良かったが、ディエイラは回復の術を覚えていない。
 元々黒角の鬼族は力を求めてくる無法者を退けるために七つの頃から戦う術を教え込まれて行く。本来は回復や強化、防御の後方支援を覚え、それから戦術と共に攻撃を覚えていく。しかし、ディエイラが六歳の頃一族の里への強襲が続き、ひとりでも兵が欲しいという理由から彼女はすぐに攻撃を、次いで防御や強化・劣化を覚えさせられ前線で戦っていた。これが以前ディエイラがクラウドたちに語った「里の運営に必要な動作」であり、ディエイラの歳にそぐわぬ冷静さがもたらした弊害だ。
 その後里は無事に平穏を取り戻した。ディエイラは前線での戦闘を経験したことを理由に同年代と同じ術を習うことはなく、また元の通り歴史の語り手としての勉強に追われることになった。一族の大人たちはもちろん気付いていたが、ディエイラの要領の良さと物覚えの早さを目の当たりにしたため思ってしまったのだ。「必要な時に教えればいいだろう」と。その結果、ディエイラは回復の術を覚えず今に至ってしまっている。
 そのことでディエイラが許せないとしたら、それは里の大人たちではなくディエイラ自身だ。何故、自らの意思で覚えたいと言わなかったのか。そう言えばきっと教えてくれた。不要なことを聞けば怒られたが、一族のためになることを聞く時はいつもちゃんと教えてくれたのだから。
 ディエイラは歯を噛み締め再びクラウドの青ざめた顔を見上げる。血の気がどんどんと引いていた。このままでは――。
 不吉な想像をしてしまったディエイラは、それを追い出すように激しく頭を振る。そして、改めてどうしたらいいかを考えた。クラウドはこの世界に古くから存在する方の吸血鬼種であるため、肉体の損傷を回復させること自体は本来難しいことではない。魔力が自動的に足らない部分を作り出し再生させるからだ。今は、朝から無理をし通していたため魔力が足らない状態にある。自分の魔力を送れないものかと手にそっと触れて魔力を流してみるが、入れるそばから流れ出てしまう。怪我のせいで魔力の流れがどこかで分断されてしまったのか、多少の魔力では再度結ぶのは難しいだろう。しかもディエイラは元々魔力の受け渡しが得意なわけではない。
 何か手はないのか、と更に考えたその時、頭に浮かんだ案にディエイラははっとした。ひとつ、まず間違いなく上手く行く方法がある。それを行えば彼は確実に回復するはずだ。だがその方法には同時に問題もあった。実行すれば、彼の命を助けるのと同時に彼の誇りを穢すことになる。
 行っていいのか、と、ディエイラは俯き考えた。やるか、やらぬか。頭の中で二択がぐるぐると回る。その時、どこからか悲鳴が聞こえた。ミッツアの声だ。慌ててそちらに視線を向けると、雷が閃いたような光の真横でファラムンドが胸を切り裂かれた瞬間が目に入る。即座に回復し逆に犯人であるザナベザを尻尾で打ち倒したが、彼の顔もすっかり青ざめていた。以前聞いた話を思い出す。彼らの種族は、回復こそ早いが何の補給もなしに血が戻るわけではない、と。
 見渡せば、恐らく先ほどの雷のような光の主であるジルヴェスターも腕を切られており片手が上がっていない。最前線で戦っているナリステアは鎧のおかげで怪我はなさそうだが、周囲の者たちを守って戦いづらそうにしている。
 迷っている暇は、もうない。決意したディエイラは、それでも泣きそうな顔ですっかり意識の混濁したクラウドを見上げた。
「……すまない、クラウド……。だが此も――上手くいくかは分からぬが、其に捧げる覚悟はある」
 言下、ディエイラは自身の左腕を切り裂き、血に溢れる部分をクラウドの口元に寄せる。途端に、反射のようにクラウドの牙が伸び、ディエイラの腕に噛み付いた。本来吸血時には魔力を浸透させ痛みを感じさせないというが、今は生きるために無意識に起こした行動のためかディエイラは鋭い痛みを感じる。それでも、悲鳴は一切噛み殺した。これは、ディエイラが負うべき痛みだから。
「……本当に、すまない、クラウド――」
 もう一度謝るディエイラの目には、痛みではなく申し訳なさで涙が浮かんだ。