綾瀬 加奈子(あやせ かなこ)の人生は大変穏便で平凡なものである。子供の頃から大きなトラブルに見舞われることはなく、学校でも友人や恋人に恵まれ、時に傷つくことはあっても耐えられないことはなかった。
就職先は地元のおもちゃ工場の受付嬢。それなりに整った見目で生んでくれた親のおかげで比較的優先して回してもらえた。普段は入り口に向かって座り続け、客が来たら笑顔で対応。誰も来ない暇な時は同じ受付嬢の先輩・後輩たちとこっそりとお喋りに興じるのが密かな楽しみだ。
主な話題は会社の人間関係。特に、最近は元部下に役職を追い越されイライラし続けている課長だ。M字に後退を始めている髪がコンプレックスなのか、ちょっとでも目がそちらに行くと睨まれるので対応する時は注意が必要だったりする。
「あのオヤジの最新駄目ニュースはあれよね、この間の就職希望の子の」
受付カウンターの下でこっそりと爪を磨いている先輩が小声で振ってきた話題に、加奈子は話題の青年のことを思い出す。
眼帯をした黒髪の青年で、笑顔が明るくやり取りもしっかりしている人物だった。受付歴の長さがイコール人物評の確かさにつながっている先輩や、それなりに人を見る目を養った加奈子には好人物の印象だった。そんな人物が何故こんな時期まで就職が決まっていないのか気になりはしたが、恐らく問題ないはず。加奈子たちはそう予測していた。
しかし、結果として彼は落とされ、今となっては「シノヅキ」という苗字しか分からない。彼が何故落とされたか。理由は件の課長にある。
面接官として出向いたその日、課長はひどく不機嫌だった。彼は部屋に入るや否や、距離が近いとはいえ受付まで聞こえる大声で青年を罵りだしたのだ。内容は聞き取れなかったが、怒鳴っている、ということは分かった。課長が出てから少しして出てきた青年は青ざめており、加奈子は思わず彼に慰めの言葉を送ってしまった。
後から同じフロアで働く女性社員たちに聞いたところ、どうやら目の前で上役に元部下を褒められたらしい。それくらいで、と誰もが思い、その日は課長の悪口祭りだった。
「あの子可哀想ですよね〜。正式に落とされたんじゃなくて不機嫌だったから難癖つけられて落とされたんですもん。あのハゲ本当に左遷されませんかね」
加奈子自身何度あの課長に怒鳴り散らされたか。個人的な恨みも込めて願望を口にすると、先輩は「ねぇ〜」と小声ながらも力強く同意してくる。
そのまましばらく雑談を興じていると、正面入り口の自動ドアが開いた。加奈子と先輩は揃って表情を取り繕う。しかし、内心で来訪者に対し首を傾げた。訪れてきたのは1人の少女――女性との境目ほどの年頃だろうか。長い茶髪はそのまま背中に流し、メイクはどこか幼げだ。オフィスカジュアル風な服装だが、就職のために訪れたようには見受けられない。ファッション誌で見たものをそのまま使っている、という印象を持ってしまう。
少女はきょろきょろと周囲を窺うように入ってくると、早足で受付に近付いてきた。
「いらっしゃいませ。どのようなご用件ですか?」
不思議な来訪者だが、正面から来た以上は対応するのが受付嬢。先輩が笑顔で尋ねると、少女はまた周囲をきょろきょろと見回してから、カウンターに乗り出すように顔を近づけてくる。何か決意したような表情に、暇をもてあましていた受付嬢たちは好奇心をくすぐられ、彼女の言葉を待った。
「あの……こんなこと訊きにくるの凄く子供っぽいし馬鹿な事だって分かってるんですけど」
少女は不安そうに、しかし目だけは強く加奈子たちを見つめる。加奈子たちが黙ったまま頷き先を促すと、少女は意外な人物に該当する質問を口にした。
「この会社の人事の方って、どんな方ですか?」
それは、先ほどまで加奈子たちが話題に上げていた男を含めた者たちに対する質問。
「ええと……失礼ですが、理由を伺っても?」
先輩が優しい――聞き慣れた加奈子からすると好奇心にうずうずした――声で問いかけると、少女はしゅんとした様子を見せる。
「……この間、彼氏がこの会社受けたんです。でも、何か酷い落とされ方したっぽくて。それから鬱みたいな感じになって部屋閉じこもっちゃって。あたしもう見てられなくて、どんな人が担当したのかなって――すみません。お仕事中なのに」
視線を落とし、少女は今にも泣きそうなほど痛ましげな表情をした。その辛そうな表情から、本当に例の青年が精神的に追い込まれ、彼女が本気で心配していることが窺える。子供じみた、と分かりながらもここまで彼女を動かしたのは彼への思いなのだろう。
加奈子と先輩は顔を見合わせた。出来れば同意して騒いでやりたいところなのだが、大人として、加奈子たちは冷静に対応しなくてはならない。加奈子たちは静かに立ち上がると揃ってカウンターから出て、少女に向けて頭を下げた。
「お客様、弊社人事が大変失礼をいたしましたようで誠に申し訳ございませんでした」
「人事の対応については上に報告させていただきます。誠に申し訳ございません」
しばらく頭を下げてから再び上げると、目の前の少女は恐縮したように戸惑った様子を見せている。そして少しの間逡巡した後、諦めたように息を吐いた。
「……こちらこそお邪魔して申し訳ありませんでした。ぜひ、お伝えください。失礼します」
同じように深々と頭を下げると、少女はとぼとぼと歩き出し、何度か振り返っては頭を下げて出て行った。それを同じく頭を下げて見送ってから、加奈子たちはカウンターに戻る。
そして、席についてから小声で声を漏らす。
「……うわー」
「マジであの課長辞めないかな」
昼時、加奈子は先輩と共に多数の女性社員が固まる一角で昼食を広げていた。中々箸が進まないのは、口が食べるよりも喋るに使われているせいだ。話題はもちろん、午前中にやって来た少女と彼女が伝えてきた件の青年のその後。
「――って。ホントありえなくないですか? 社内の人間だけじゃなくて社外の人間にまでメンタルダメージ与えるとかどんだけだって話ですよ」
「ありえなーい。ってゆーか人事としてどうなのそれ。普通ちゃんとした面接もしないで落とすかってねぇ」
「普通やりませんよねー」
「ねー」
わいわいと女性陣が賑やかに話していると、不意に男性の声が話に割って入ってくる。
「今の話本当ですか?」
女性たちの視線が一気に集まる。その視線の先にいるのは、この工場の工場長。しかし、声の主は彼ではなくその隣の人物。最初彼が誰だか分からなかった加奈子は、しかし今朝の朝会で上司が知らせてきた内容を思い出し、彼が誰だかを察した。
彼はこの工場の親会社の主――社長だ。年齢は確か50代。中肉中背で面差しや口調は柔らかだが仕事はやり手。そして――規則に大変厳しい人物であると社内でも有名だ。
社長からの優しい口調ながら尋問のような質問を受けてから一ヶ月としないうちに、例の課長は平社員への降格が通達された。女性陣だけでなくその他の社員にも同じように聞き込みを行った結果、彼が管理職にふさわしくないと判断したらしい。当然本人からの反論は出て一時大騒ぎになったが、「嫌なら辞めてくださって結構」と社長がばっさりと切ってから大人しく仕事に精を出している。
彼を哀れに思う反応がないわけではないが、社内では圧倒的に「自業自得」の声が強かった。それだけ社内で嫌われているのに降格で済んだのならむしろよかったじゃないか。そんなことを先輩たちと話しながら、今日も加奈子の人生は穏便に平凡に過ぎていくのであった。