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 時は12月31日午前11時。所は千葉県 木更津市。この市の名物のひとつとも言えるサッカークラブ「グラン・グリモワール」の寮玄関では、今ふたりの選手による攻防戦が繰り広げられていた。
「やあぁぁぁだああぁぁぁぁ!! 大楠さん行かないでよぉぉぉぉっ!!」
 ピャアアア、と遠慮ない声量で泣いているのは金色の髪といくつものピアス、そして長いもみあげ・長いまつげが特徴の青年、飛鳥あすか 常勝ときまさだ。技術と実績により「守護神」と称される齢23の男が上げるにはそれはあまりにも情けない。しかし、その泣き声を向けられているどこにでもいそうな青年風のチームメイト――大楠おおくす 淳二じゅんじ――は慣れたもので、一切動じず服を掴んでくる常勝の手を離そうとしてくる。
「だーかーらー、俺も流石に今日は家帰んなきゃいけないんだっての。去年の正月帰らなかったらすげー文句言われたんだよ!」
「今年行ったって結婚しないのって聞かれて大楠さんも他の人も気まずい思いするだけだよぉぉ!」
「何で俺が何の予定もないって答えるの前提で喋ってやがんだお前!!」
 実際予定はない大楠 淳二24歳である。
「ああもう、11時すぎちまった。銚子まで帰んの時間かかるんだぞ」
 勘弁してくれよ、と淳二は壁の時計を見上げて頭を掻く。それからちらりと自分より上にある常勝の顔に視線を移した。だって、と俯く常勝はまだ涙をぽろぽろとこぼしている。彼の足元にはすでにこぼした涙で小さいながら水溜りが出来ていた。夏なら脱水症状だな。斜め方向に思考を飛ばして現実逃避をする淳二の横で、時はなお静かに過ぎていく。
 常勝と淳二はお互いにグラン・グリモワールの所属選手だ。いつもならばこんな大騒ぎをしていればチームメイトたちが何だ何だと次々に顔を出してきていたことだろう。しかし、今この寮にいるのは常勝と淳二のみ(スタッフも数人いるだろうが忙しいのか顔は出さない)。何故かと問われれば答えは簡単。今が年末だからだ。しかも、年の最終日。遠方の者たちはもちろん、近場の者たちもすでに実家へと帰っている。淳二も本当はあと2、3時間前にここを出るはずだった。だが、常勝があの手この手で引き止めてきたためこの時間まで寮に留まってしまっている。最終的に玄関まで強行してきたのだが、靴を履いたところでこの状態に持ち込まれた。見た目に反して力強い常勝の全力引き止めはさすがに振り切れない。
 ふー、と溜め息を吐き、淳二は常勝の両もみあげを軽く引っ張る。



「飛鳥。どうしたんだよお前。いつもみんないなくなる時そんなに駄々こねないだろ」
 持ったもみあげを上げたり下げたり引っ張ったりして軽く訊いている雰囲気を出すと、常勝はぱちりと深い瞬きをした。大粒の涙が地面の水溜りに落ちると、ようやく彼の目から涙が消える。まだ潤んではいるが、落ち着いて話をするのに支障はない。
 口元がもごもごと動くのを見て、淳二は「最初からこうしときゃよかった」と内心で苦笑した。ひとつ年下なだけのチームメイトを甘やかすつもりはないが、根が兄貴肌の淳二はやはり泣く子を前にするとつい気を回してしまう。――その優しさが命取りだと知らずに。
「あのね、いつもみんながいなくなる時は今と同じくらい寂しいの」
「うん」
「俺ひとり嫌いだからね、いつも本当は引き止めたいんだよ」
「うん」
 ここまでは予想通り。淳二の災難はここから始まる。
「でもね、いつもはそういう時千景ちゃんが一緒にいてくれるから耐えられるんだ」
「……は?」
 淳二の眉がぴくりと動き、口元がひくりと上がった。千景ちゃんこと真宮まみや 千景ちかげは常勝を通じてグリモワールのメンバーと知り合った少女だ。チーム内と彼女の周りで周知の通り、千景は常勝に恋心を抱いており、常勝もまた――自覚の有無は置いておき――彼女を「特別な女の子」と見ている。そんな彼らを見つめる微笑ましい視線の中唯一混じるマイナスの主こそ、この大楠 淳二その人に他ならない。彼もまた、千景を「特別な女の子」と見ているひとりである。……残念ながら思いは空回り気味だが。
 この先を聞きたくないと挙動不審になる淳二に気付かず常勝は言葉を続けた。
「この間みんなが一晩中いなかった時はお泊りさせてくれたし、今年のお正月の時も一緒にいてくれたんだけど、来年……というか、今日と明日は色々あって無理だって」
 そう言ってきた時の千景がこの世の終わりかというほど絶望していたのを思い出す。寂しいことには変わらないが、唯一、「彼女も自分と過ごせないことを残念がっている」という事実を感じ取れたことだけは、常勝にとって嬉しいものだった。
 それでもしゅんとする常勝は、目の前で急激に変わった事態に気付いていないようである。空回りとはいえ、確かな恋心。その相手と目の前にいる男がお泊りデートだのお正月デートだのしていたという事実を、淳二は受け入れ切れなかった。ぷるぷると震えると、これまで以上に容赦なく常勝の手を払いのける。
「ピャッ!?」
「ちくしょぉぉぉっ、お前なんて知るかぁぁぁぁぁっっ!!」
 涙目になりながら淳二は寮から駆け出て行った。最後に寮内に響いたのは払われた手の痛みとひとりになった心細さで盛大に泣き出した常勝の声。



 泣くだけ泣いた常勝はサイフや携帯、携帯ゲーム機などポケットに詰められるものだけを詰め、変装用の眼鏡と帽子を身につけて寮から出る。しんとした寮に耐え切れず逃げ出してきたのだ。
(……寒いなぁ)
 吐いた息が白く染まり風に流れて消えた。ひんやりとした空気は寒いよりむしろ痛くて、手袋をつけた手で何度か耳を揉む。その内に常勝が辿り着いたのは少々歩いた先にある公園だ。いつもならこんな明るい時間は近所の子供たちが遊んでいるのだが、今日はそうではないらしい。誰もいない公園に足を踏み入れると、雑踏が遠くに行ってしまった気がした。けれど常勝の足は戻ることより進むことを選ぶ。真っ直ぐ向かったのはオレンジ色のプレイドームだ。小さなドームにはいくつも穴が開いており、常勝は長い手足を曲げハイハイの要領で下側の穴から中へと入った。そうすると、今度こそ本当に雑踏が遠のく。傾斜のついた壁に背中を預けて膝を立て座り込み、目を瞑った。
 寂しい、寂しい、寂しい。声に出して大声で叫びたいのに、同じくらい、何も言いたくない。このまま氷の彫像にでもなれればいいのに。それで、みんなが帰ってくる頃に戻してくれれば最高だよ。非現実的な考えが頭に浮かぶ。その彼の足に、小さな何かが触れた。
Areだい youじょう ok ?」
 舌足らずな子供の声。日本の大晦日に英語で話しかけられるとは思っていなかった常勝はばっと顔を上げる。
(銀髪の、女の子――)
 目の前に座り込み常勝の両足に両手をついているのは銀髪の幼女だった。まだ小学生にも上がっていないだろう幼いその子は完全防寒のふわふわもこもこで、毛糸の帽子からは常勝が注目した銀色の長髪がこぼれている。くりくりの双眸は灰色をしていた。顔立ちも併せ完全に海外の子供だと理解した常勝は呆然とその姿を見つめる。一方、幼女はこてんと首を傾げた。
「あれ? 日本のひと? えっとね、だいじょうぶですか?」
 言葉が通じなかったと思ったのか、再び状態を尋ねられる。常勝は慌ててそれに頷き笑顔を浮かべた。
「うん、大丈夫だよ。ありがとう。……え、日本語お上手だね」
 普通に日本語で問いかけられたのだと気付き遅れて反応すると、幼女はにっこりと笑って胸を張る。
「でしょ? あのね、ボニトのおうちね、1日ずつおしゃべりに使うことばを変えてるんだよ。きょうはね、日本語の日なの。……あっ」
 思い出した、というように幼女――ボニトは自分の口を小さな両手で隠した。どうしたの、と優しく問いかけると、ボニトはきょろきょろした後、顔を近付け声を潜める。
「あのね、英語の日は英語だけで、日本語の日は日本語だけなの。だから、さっきボニトが英語使ったのないしょね!」
 しー、と口元に立てた指を当てるボニトに常勝はくすりと笑って同じように口元に指を当てた。
「分かった。しー、だね」
 常勝が応じて秘密が成立したと分かると、ボニトはまたにっこりと笑う。子供の笑顔は凄い、と笑い返しながら常勝は思った。先ほどまでの冷たい息苦しさがほんの少しの間にもうなくなってしまっている。心の浮上の理由には、「人と関われた」ということ自体に常勝自身が喜んだためでもあるのだが、本人はそのことに気付きもしない。
「ボニトー? どこ行ったー?」
 ドームの外から少し焦ったような男性の声が聞こえてきた。ボニトはぴょんと立ち上がり、「おとーさんだ!」と嬉しそうな顔をする。どうやら父親と遊びに来ていたらしい。ボニトがそそくさと外に出て行くのを寂しい気持ちで見送って、常勝は再び視線を落とした。すると、外から見――聞き過ごしてはいけない会話が聞こえてくる。
「いた、ボニト! そこにいたのかー。お父さん心配しちゃったじゃないか」
「ごめんなさーい。でもね、ボニトおにいちゃんとお話してたんだよ」
「お兄ちゃん?」
「うん、泣いてたおにいちゃん。金色の髪でね、おっきい人。おとーさんよりおっきいかも」
「泣いてた大きいお兄ちゃん……?」
 父親の声に不審感が帯びる。公園に不審者がいるなんて通報でもされたら選手生命が終わりかねない。さっと青くなった常勝は慌ててドームから這い出した。その際逆に相手を驚かせたが、そんなことを気にしている余裕はない。見上げた先にいるのはぎりぎりくくれる長さの茶色い髪をした男性。腕にはボニトが抱き上げられ、髪と同色の双眸はぎょっと見開かれている。
「あのっ、違うんです俺不審者じゃないんです! 俺あの……っ!」
 自分の状況を上手く説明出来る言葉がすぐに出てこず、常勝の目にはまたも涙が浮かんだ。どうしよう、と状況を打破する手段を必死に考えていると、不意に頭上から男性の声が落ちてくる。
「……飛鳥選手?」
 自分の名前を紡いで。
「え……俺のこと知ってるの……?」
 ぽかんとして見上げると、男性は柔らかい笑みを浮かべてしゃがみ込んだ。
「そりゃあ、有名なサッカー選手だしね。ちょっと眼鏡と帽子で迷ったけど、君は特徴的な顔立ちしてるからすぐ分かったよ。それに、おじさんは一度君の事を取材したこともあるんだぞー」
 囲みの内のひとりだったけどね、と男性は明るく笑う。おずおずと体を起こすと、常勝はその場に座り込みしゃがんでいる男性と目を合わせた。ボニトとはあまり似ていないが、顔立ちからして海外の人間であることは明らかだ。
「えっと、ボニトちゃんのお父さん? ……は、記者さんなんですか?」
「ああ、アドルフ・ミスカだよ。この天使のお父さんで、イギリス新聞社の日本支社に勤める記者のひとりだ」
 男性――アドルフがぎゅっとボニトを抱き締めると、ボニトはきゃあーと楽しげな笑い声を上げて父親を抱き締め返す。外国の人っぽい。そんな感想と微笑ましさを覚える反面、常勝の心はちくりと痛んだ。
「ところで、飛鳥選手はこんなところで何を? ……泣いてたみたいだけど」
 太めの指が常勝の顔に伸びる。反射的に伸ばされた側の目を瞑ると、目の端にたまっていた涙が拭われた。これは先ほどの焦りで浮かんだ涙だが、泣いていたのは事実だったので、朝からの出来事と自分の心情を常勝はこれでもかというほどに語り続ける。記者だというアドルフの忍耐もさすがだが、褒められるべきは30分に及ぶ常勝の話を最後までちゃんと聞き、常勝が涙ぐめば必死に宥めたボニトだろう。
「それで、ここで丸まってたらボニトちゃんに会って」
 最後まで語りきると、常勝はまた寂しくなったのか涙ぐんだ。話の途中から座る常勝の横に立っているボニトはすかさず「よしよし」と彼の頭を撫でる。同じく話を最後まで聞ききったアドルフは何かを考えるように「ふむ」と唸り顎に手を当てた。そして僅かな間を空けただけで何やら結論を出したように膝を打って立ち上がる。
「よし分かった。じゃあ、今日はうちにおいで」
「え」
 突然の提案に脳の処理が追いつかず常勝は目を見開き言葉を取りこぼした。彼より早く反応したのは隣のボニトだ。
「あすかくん今日おとまり?」
「そうだね。飛鳥君がいいならそうしよう。どうだい?」
 両手を挙げて喜びを示すボニトを笑顔で見下ろしていたアドルフは、同じ表情を常勝に向ける。
「え、あの、えと」
「ん? 怪しいと思うならうちに着いてから住所を誰かに連絡してもいいよ? あと俺の名刺でもつければいいかな」
 そんなことを疑っているのではない。声を大にしてそう主張すると、アドルフは「ならやっぱり急すぎたかな?」と特に気負わず笑った。
「嫌なら断ってもだいじょ」
「嫌じゃない! 行く! 絶対行く!! 行くからねぇぇぇ!!」
 言下にアドルフの言葉を否定すると、常勝はピャアアア、と声を払って泣き出す。その彼をアドルフが先導しボニトが手を引いて自宅まで案内するのは、それから十数分後のことだった。