常勝の目が自然に開いたのはそれから数時間後。室内は暗く、枕もとのスマホを見てまだ23時過ぎだと認識する。もう一度寝よう、と寝返りを打ち、常勝ははたと気付いた。隣の布団が空っぽだ、と。そこに寝ていたはずの一家の主を探して常勝は体を起こし室内を見回す。しかし、部屋に姿はない。
「トイレかな――?」
ぽそりと呟いた言下、リビングの扉のラッチが音を立てた。少々驚きつつそちらに視線を向けると、ドアノブが下りきった状態になっている。続けて、扉がぎぃとすれる音を立てながらゆっくり開かれた。奥から顔を出したのはアドルフで、ホラーやサスペンス的展開を脳内で繰り広げていた常勝はほっと息を吐く。
「おや、起こしちゃったかい?」
部屋に入ったアドルフが上半身を起こしている常勝に気付き、声を潜めて問いかけてきた。常勝はふると首を振り、「ちょっと前に起きちゃったの」と答える。
「寝たのが早かったからね。そうだ、おじさんと少しお話しするかい?」
指先が指し示したのは天井。2階に誘われていると気付き、常勝は笑顔で頷いた。すぐ隣のボニトを起こさないようにそっと立ち上がる。
抜き足差し足でアドルフについてフットライトのついた階段を上ると、手前から2番目の部屋へと招かれた。先ほどまでこの部屋にいたのか、蛍光灯がうっすらと光っている。それを見上げていると、ぱちりと音を立てて明かりが点いた。
「ぴゃっ!」
電気に目を向けていた常勝は急な刺激に悲鳴を上げ両手で目を覆う。
「おっ、すまない。大丈夫かい?」
慌てるアドルフに常勝は震える声で大丈夫と答えた。じんじんする目に耐えている内に軽く背中を押されて室内に完全に入れられる。背後でぱたりと扉が閉まると、アドルフが離れる気配がし、短い電子音がした。常勝の目が光に慣れるより早く、音が聞こえた方向から温風が吹き込んでくる。
「うう、痛かった……」
ようやく目が慣れ、常勝は涙目の双眸を瞬かせた。
「ははは、急な変化はきついな」
近くに戻ってきたアドルフにぽんぽんと背中を叩かれる。そこでようやく、常勝は室内を見回す余裕を得た。
「すごーい、本いっぱいだー」
壁際には本棚がいくつも並び、所狭しと本が並べられている。ぱっと見ただけでも英語と日本語の本が混在しているのが分かった。扉の正面には紙類や本が重ねられた机があり、この部屋はアドルフの書斎だと常勝は予測を立てる。
「趣味と実益を兼ねて、ってやつかな。さ、座るといい」
アドルフが勧めたのは入って右側の壁際にあるソファ。こちらは趣味のための家具なのだろう。常勝が応じて座ると、アドルフは向かい側に本棚の前にあった丸椅子を持って来た。
「人の家だとあまり寝付けないタイプなのかい?」
「ううん。俺そういうの気にならない」
人がいると一晩中喋っていたくて仕方ないので、そういう意味では寝付けないが。
「そうか、じゃあやっぱり寝るのが早すぎたかな? 9時だと早いもんな」
おじさんもみんなが寝付いてからさっきまでここにいたよ、とアドルフは肩を竦めて笑う。その笑顔を見て、常勝はずっと気になっていたことを訊く決意をした。
「あの、アドルフさん。一個訊いてもいいかな――?」
控えめに問いかけると、アドルフは「ん?」と促すような笑顔で首を傾げる。軽く深呼吸し、常勝はその双眸を真正面に捉えた。
「アドルフさんたちは、何で俺に優しくしてくれるの?」
ずっと気になっていたのだ。いくら有名なサッカー選手とはいえ、はじめて会った他人を自宅に招くだけではなく泊まらせるなど無用心にもほどがある。日本は安全、という外国人独特の感性ゆえだろうか。それとも底抜けのお人よしだからだろうか。真意を探るように眼差しを捉え続けると、不意にアドルフが今までと違う笑みを浮かべた。苦いものを含んだように眉を八の字にし、口元を若干歪めた、そんな顔。どきり、と、嫌な意味で心臓が鳴る。
「……どこの国にもゴシップっていうのはあってね」
静かにアドルフは語りだした。早速耳についた単語に常勝は耳を塞ぎたくなるが、腕は凍ったように動かない。自分の目が見開かれていくのが分かる。アドルフの視線はいつの間にか彼の手元に下がっていた。
「スポーツ選手も、君ぐらい有名になると多くなる。特に君は、その、移籍前にひと騒動あったから余計にね」
待って。もうやめて。もう聞きたくない。心は叫んでいるのに、それは舌に乗らない。
「仕事が仕事だからね。君の過去についても、多少なりは耳に入ってる。家族関係のことなんかも」
聞きたくない、聞きたくない、聞きたくない。だって、だってそれじゃあ、今までの優しさは全部――。自然と視界が歪んでくる。じわりと浮かぶ涙は静かに目に溜まっていった。そして
「それを少し自分と重ねてしまってね」
続いた言葉を聞いた瞬間、直前までの掻き乱される感情は掻き消える。代わりに浮かんだ「どういう意味か」という疑問は零れる寸前だった涙を引っ込ませた。
「え、それって――?」
先ほどとは逆に続きを促す言葉はあっさりと音になる。それを受けたアドルフは深く瞑目してから再び瞼を開けた。視線はまだその手に向かっている。
「俺の母親は俺が子供の頃に亡くなっててね。父親は職業軍人で、休むことは悪だとでも考えてたのか、ほとんど家には帰ってこなかった。そんな父親への反発もあって、恥ずかしいことに10代の頃は荒れていたよ」
思い出すと顔から火が出そうだとアドルフは苦笑した。
「その内に父親に『たるんでる』って怒られて、軍に入れって言われたんだ。当然逃げたけど、さすがに軍人に力じゃ敵わなくてね。そのまま士官学校行かされて軍に入ったよ」
軍人さんだったんだね、とぼそりと呟く。この平和な日本ではあまりにも遠い世界のことに聞こえる職業に、今目の前にいる優しげな男が入っていた。結びつかない事実に常勝はまじまじと視線を落としたままのアドルフを見やる。その視線に気付かないのか、それとも気付かない振りをしているのか、アドルフはさらに話を続けた。
「そうなんだよ。……でもやっぱりしばらくは荒れてたな。大人なんて信じられなくて、大っ嫌いだったんだ。何度も上の人間とぶつかってたから、最初の頃の俺は周りからはとても扱いづらい子供だっただろうね」
苦笑したアドルフに、常勝は自分のかつてを思い出しぎゅっと胸元を握り締める。するとそれを宥めるかのように、アドルフの視線が上がった。ばちりと合った目には穏やかさが浮かんでいる。
「でもね、軍に入ってすぐぐらいに上官が代わった。その人は俺と真正面から向き合って、本当はただ寂しかっただけの俺に呆れずに手を差し伸べてくれたんだ。――それが、これ以上なく嬉しかった。はじめて大人をカッコいいと思って、はじめてこんな大人になりたいって思えたんだ。これは軍を辞めた今でも変わらないよ」
だからね、とアドルフの笑みは少し恥ずかしげなものに変わった。
「なんというか、君にかつての自分を重ねちゃってるんだよ。だから、俺がやってもらいたかったこと、やってもらって嬉しかったことをしてるって感じかな。……ごめんな、純粋な優しさじゃなくて。でも、マーシャとボニトは何の裏もなく純粋に君に接しているからね」
勘違いしないでやってくれ。そう頼むと、アドルフは軽く肩を竦める。まるでこれから責められたとしても仕方ないというように、どこか諦念を混じらせた顔をして。それを見た常勝が思ったのはただひとつだ。何を言っているんだろう、と。
(純粋な優しさじゃないなんて、何言ってるんだろう、アドルフさん……)
かつての自分に重ねて同じことをしてやりたいと、自分が助けられたように相手も助けたいと思う、その心のどこが不純だというのだろう。ただの同情心からくる哀れみだと思ってしまった自分が恥ずかしくなるくらい、それはあたたかさに満ちているというのに。
「アドルフさん!」
「はい!?」
大きな声を出したかと思うと常勝はばっと両腕を広げた。アドルフが咄嗟に両腕を広げ返すと、その中に常勝が飛び込んでくる。タックル並みの威力であったが、そこは元軍人・現新聞記者。鍛えぬいた足腰でしっかりと踏ん張り受け止めきった。
「常勝君? どうしたんだい?」
頭上に疑問符をいくつも散りばめつつ、アドルフは腕の中で腰を曲げてまで丸くなる高身長を見下ろす。
「あのねアドルフさん、俺それでも十分嬉しいよ。だって俺のこと心配して気遣ってくれたってことでしょう? 純粋じゃないなんてありえないからね! ホントに、ホントに……っ、ピャアアアアア」
嬉しさが抑え切れず、ついに瞳の奥の堤防が決壊した。泣き声と共に溢れる滂沱たる涙は留まることなくアドルフや常勝の服を濡らしていく。その内に声に気付いたマーシャとボニトが上がって来た。事情を聞いた二人に重ねて慰められると、その勢いは更に強まる。ミスカ家と常勝が再び就寝したのは、日付が翌年に回ってからのことだった。
翌日(すでに当日だったが)1月1日は少し遅めに起床し、ミスカ夫妻特製のおせちとお雑煮を食べ、揃って初詣に行った。可能な限りにデジタル・アナログの遊びを尽くした明くる1月2日。常勝は玄関で、ミスカ家と相対している。
「2日間本当にお世話になりました!」
大きく頭を下げる常勝にミスカ家は「そんなことないよ」と笑顔を返した。着替えはあと一日分残っているが、常勝は本日ミスカ家を出る。昨日の夜に主事から淳二が3日の夜に帰ると連絡が来たと伝えられたためだ。では本日は、というと、用事が終わった千景に「会いましょう」と誘われたのでそのまま泊まることになっている。電話先の千景はやけに慌てていたが、結局OKしてくれた。これから彼女の家に向かう予定だ。
「……えっと……」
顔を上げた常勝は手をもじもじと動かしている。持って来たみかんは鞄の中にある数個を残して食べてしまったので諸手は空の状態だ。
「あの、その」
何か言いたげにもごもご口を動かす常勝。ミスカ家は「どうしたの?」とそれぞれが口にしたり首を傾げたりして先を促すが、中々言葉は続かない。
「もしよかったら、また――やっ、やっぱり何でもない! それじゃあ!」
もどかしさといたたまれなさに耐え切れず、常勝はもう一度頭を下げるとダッと駆け出した。しかしその足は次の瞬間はたりと止まる。
「「「行ってらっしゃい」」」
耳に届いた三重奏。今の言葉は聞き間違いだろうか。目を見開き、常勝はゆっくりと後ろを振り返った。視界では、笑顔のアドルフとマーシャ、ボニトが手を振っている。
「来たくなったらまたいつでもおいで。ここは君のもうひとつの家だ」
「私はしばらくセンギョーシュフだから、大体いつでもいるからね」
「ボニトもよーちえん終わったらちゃんといるよ。あとね、土曜日と日曜日もいるよ!」
鼻の奥が痛い、喉が痛い、目の奥が痛い。込み上げて来るそれは、おとといの夜に感じたそれと全く同じ感情で、長いまつげが水滴を叩くのに時間はかからなかった。
「〜〜っ、うん! ありがとう! 行ってきます!」
感激を爆発させるように、常勝は大きく手を振る。感涙しながらも咲く満面の笑顔を、新年の日差しは明るく照らしてくれた。
「それでね、俺家族が出来たんだよ! 今度千景ちゃんにも紹介するね!」
「……………………はい?」
ミスカ家を出た数十分後、常勝は千景と顔を合わせる。彼の感情先行の話を聞いた千景がその言わんとすることを理解したのは、5回以上の説明と20回以上の補足質問を交わした後のことだった。
あとがき
りーちゃんことパピコさん宅の飛鳥君と「創霊の紡ぎ歌」のミスカ家(現パロバージョン)の交流です。ちなみに、「千景」ちゃんはりーちゃんのフォロワーさんリィさんのお子さんです。飛鳥君といい仲なので無許可で(←)お借りしてしまいました。なんだろう、飛鳥君を語るのにモミ千が外せなくなってきている私がいる……。
さてそんな飛鳥君ですが、アドルフがわん時代に仲良くさせてもらっておりまして、「親子みたい」な関係性を持たせてもらっておりました。
企画が終了してしまい、現代物の飛鳥君とアドルフじゃ関われない状態に。が、諦めきれない若槻現パロミスカ家を作成。この話へと至りました。そして今回も懲りずに親子感を、むしろパワーアップして家族感を出させていただきました。
飛鳥君いつでもミスカ家来ていいんだよ!
2016/01/04
2016/04/04 追加
りーちゃんから挿絵をいただきました(1) → P1