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 ふと時計を見上げたアドルフは、すでに時刻が17時を回っていることに気付く。
「常勝君、今日泊めるっていきなり引っ張って来ちゃったけど、着替え取りに行くかい? あと、誰かに連絡した方がいいかな?」
 思いついたままにそのままここまで連れてきてしまったので、常勝は着替えなど一切持っていない。アドルフのものを貸すのでもいいのだが、アドルフの身長は174センチしかなく、一方の常勝は185センチもある。ただでさえ大きい10センチの差は服で考えるとさらに大きい。
「あ、じゃあ取りに行ってくるね。他にも持ってきたい物あるし。そのついでに主事さんにも外泊するって伝えてくるよ」
 ソファに腰かけボニトを膝に乗せてテレビを観ていた常勝は、小さな体を隣に下ろすとさっと立ち上がった。
「ボニトも行く!」
 追いかけようとボニトが立ち上がるが、常勝と逆隣りに座っていたマーシャがそれを留めて膝の上に乗せる。
「駄目よ。もう暗いし寒いからとき君もさっと行ってさっと帰って来たいでしょ? ボニトが一緒じゃ時間かかっちゃうわ」
 母の言葉にボニトは唇を尖らせた。行きたい、と駄々をこねるが、アドルフが「お風邪ひいたら明日初詣いけないぞ?」と畳みかけるとむすっとしたままマーシャに抱き着く。一応納得したらしい。
「すぐ戻ってくるからねボニトちゃん」
 上着を手早く着込み、常勝は玄関へと急いだ。その後をアドルフがついてくる。ちらりと見ると上着も着ない状態なので、見送りに来てくれたらしい。
「じゃあ、ちょっと行ってきます」
「ああ、行ってらっしゃい。気を付けるんだよ。道を渡る時は焦らないで、ちゃんと左右確認してな」
 まるで子供に対する注意のようだ。肩を竦めて笑った常勝は「はーい」と返事をしてからミスカ家を出る。昼間も寒かったが、今はそれよりずっと寒い。世界全体を冷凍庫に入れたかのように空気は冷え込んでいた。救いなのは、風がそれほど吹いていないことだろう。それでも、せっかく温まった体は急激に冷やされていく。早く行って早く帰って来よう。一度ぶるりと震えてから、常勝はだっと駆け出した。
 寮に着いた常勝はすぐに着替えをはじめとしたお泊りセットと充電器などの細々したものを鞄に詰める。最後に大事な段ボール箱・・・・・を両手で持ち上げると、寮の玄関まで早足で向かった。一旦荷物を置いたら、近くの主事室へ向かい外泊を告げる。
「誰か帰ってきたら教えてね!」
 そしたら帰ってくるから、と笑顔で告げる常勝に、主事の男性は苦笑して了承を答えた。その彼に手を振って退室すると、常勝はすぐにまたグリモワールの寮を出る。来る時と同じひんやりとした空気の中を小走りに駆ける最中、冷たい風が真正面から吹き付けてきた。思わず両目を瞑ってから、変装のための眼鏡と帽子を忘れてきたことに気が付く。しかし年の瀬の黄昏時に常勝に気を回す者はいなかった。二回ほど「あれ、今のって」という声を背後に聞いたが、声をかけられなかったのは常勝が荷を持って前へ前へと急いでいたためだろうか。
 走るに連れて体は温まっていく。ミスカ家の前に着いた頃には、うっすら汗ばむほどだった。今は外気の冷たさが心地いい。
「とーちゃーく」
 明るい声でミスカ家の玄関の前に立った常勝は、そこではたと止まる。
「俺、これどうやって入ればいいんだろう……?」
 先ほどはアドルフとボニトについて入ってきたが、今はひとりだ。インターホンを鳴らしてお邪魔します? このまま開けてお邪魔します? 入ってから戻りましたー? それとも――。
 悩んだ結果、常勝は意を決した表情で数度深呼吸し、両手で持っていた箱を片手で持ち直した。そして空いた片手で、ドアハンドルを掴む。勢いをつけすぎないよう気をつけながら手に力をこめると、がちゃり、と音を立てて玄関が開いた。ふわりと暖かい空気が押し寄せてくる。
「ただいまー!」
 声だけは明るく、けれど内心はこれで合っているかと不安が渦巻いていた。ばくばくと鳴る心臓は、「お前の家じゃないだろう」という言葉が頭に浮かぶたびに一層主張を強くする。少しの間を開け、はじめて来た時と同じぱたぱたと軽い足音が聞こえてきた。ややあって顔を出したのは笑顔のマーシャだ。
「おかえりなさい、とき君。あらあら、ほっぺた真っ赤ね。早く中入りましょうか」
 疎む様子はもちろん訝しむ様子も見せず、マーシャは極自然に常勝を中に誘う。大丈夫だった、と常勝は緊張で強張っていた体の力を抜いて表情を緩めた。うん、と元気よく返事をすると、靴を脱ぐために荷物を降ろし腰を下ろす。
「ところでその箱は?」
 段ボール箱の後ろ、常勝の斜め後ろに膝をついたマーシャが首を傾げた。泊まる用意にしては随分大荷物だ、と。常勝はよくぞ聞いてくれたと言わんばかりに晴れやかな笑みを浮かべて箱の口を開けた。中から顔を出したのは艶やかなオレンジ色。――みかんだ。
「みかんだったらうちにも――」
「俺いっぱい食べちゃうから持参したの。それに、これ俺のオススメみかんだからマーシャさんたちにも食べてもらいたかったんだ」
 きらりと星が飛ぶような明るい声に、マーシャはくすりと笑って「嬉しいわ」と答える。
「リビングに持って行っちゃって大丈夫かしら?」
「え、ちょっと重いから俺持つよ」
「ふふ、大丈夫よ。お母さんってね、力持ちなのよ」
 言下、マーシャは立ち上がるついでにダンボールを持ち上げた。確かにぴしりと立つ姿に無理している様子は見えない。
「マーシャさんすっごーい」
 ぱちぱちと手を鳴らす常勝に謙遜を返しつつ、マーシャはリビングに向かっていく。常勝は「俺手洗いうがいしたらそっち行くね」と告げ廊下の途中で分かれた。用事を終わらせてリビングに戻ると、ボニトが常勝の名前を呼びながら飛びついてくる。
「おかえりー! あのね、ボニトもおみかん好きなんだよ!」
 どうやらお土産のみかんを見てテンションが上がったらしい。一方の常勝も、みかん好きという事実にぱっと笑顔を咲かせボニトを両手で抱き上げた。
「ほんとにー? お揃いだね! わーい、嬉しいなぁ」
 高い高いの要領でくるりと回転すると、ボニトは楽しげに笑い声を上げる。
「ほらほら、遊ぶのは荷物を置いて上着を脱いでからにしなさい」
 ソファに座ってテレビを見ていたアドルフが微笑ましいものを見るような目で声をかけてくる。常勝とボニトが声を合わせて返事をすると、その笑みはさらに深くなった。



 風呂に入り食事も終え、時刻は21時を回る。風呂に入る際ボニトに一緒に入りたいとせがまれた時は困った。一緒に入ること自体は別に良かったのだが、十代の頃の諸々により常勝の体は傷だらけだ。とてもじゃないが幼い娘に見せられるものではない。理由は隠して傷だらけの体をちらっとミスカ夫妻に見せたところ、何とかボニトを説得してもらえた。荷物取りの際も風呂の際も駄目だと言われたボニトはすっかり機嫌が悪くなってしまっていたが、夕飯にデザートを2つ出されてそれもすぐに戻っていた。ちなみにそのうちのひとつはみかんゼリーだったので常勝もテンションを跳ね上げていた。
(アドルフさんの料理も美味しかったなー)
 ソファに転がっていた常勝はぺろりと唇を舐める。歯磨きを終えた口の中にはもはや余韻も残らないが、記憶にはしっかり焼きついていた。夕飯は年越しそばとカリカリのかき揚げ、ぷりぷりの海老天(どちらもボニトに合わせて小さめだったが量があった)。それに寿司と茶碗蒸しが並んでいた。イギリス人の料理は……という話はよく聞くが、人によるらしい。常勝は満腹の腹を撫でながらひとり納得する。
 少しの間美味しく幸せな記憶に浸っていた常勝が、不意に身を起こしソファの背もたれの向こうに視線を向けた。そこにあるのは締め切られた扉。ミスカ家は何事か話した後その向こうに消えてしまい、今は常勝一人が扉のこちら側に残っている。
「……寂しいなぁ。早く戻ってきてくれないかなぁ」
 この時間までに交わした雑談の中、一家の寝室は2階にあることは話題に出ていた。そして客間らしい客間がなく、暖房機の関係上常勝はこのリビングで寝ることになる。
「寝るまでお話してないと寂しいよぉ……」
 ずるずるとソファの背もたれをなぞるように再びごろりと転がった。点いたままのテレビがありがたい。
 昔から、常勝はひとりきりになることが多かった。母はいなかったし、父が忙しい人だったので家にいる時は人と過ごしている時間の方がずっと少なかった。そのせいか、常勝はひどく寂しがりに成長してしまっている。20を過ぎた今でも、そばに誰かいないと落ち着かないし、誰もいないならラジオのひとつ点けないと眠れやしない。
(……楽しくて、あったかかったから、余計反動がひどいのかな――)
 ぶるりと体が震えた。早く戻ってきて。小さく小さくそう呟くと、まるで応えるようにリビングの扉が開く。ばっと体を起こしてそちらを見ると、ミスカ家の手には布団一式がかけられていた。しかし不思議なことに、それは一組ではない。
「ボニトね、ボニトときくんの隣! 絶対隣!」
 今度は譲らないぞ、と低めの枕を4つ持ったボニトが主張する。見た目的に手触りが良さそうな毛布の掛け布団を両腕いっぱいに抱きしめているマーシャは「はいはい」と微笑んで了承していた。
「常勝君。悪いんだけど、そのソファを動かすから手伝ってくれるかい?」
 床に3組の敷布団を置いたアドルフに声をかけられ、呆然としていた常勝はすぐさま立ち上がる。
「いくぞー。せー……の」
 掛け声に合わせてソファを壁際に寄せると、今度は敷布団を敷くのを手伝うよう頼まれた。
「アドルフさん、これ布団いっぱい……」
 何で、と言外に込めて言葉を途切れさせると、1組目の布団を持ち上げたアドルフはにっと笑う。
「せっかくだし、今日はここでみんなで寝ようってことになってね。寝るまではちょっとうるさいかもしれないけど、寝てからはみんな静かだから安心してくれ」
 差し出された敷布団を受け取ると、ずしりと腕に重みがかかった。その重さが、これが夢ではないと実感させる。じわぁ、と涙が浮かんだ。今にも大泣きピャアアしそうな常勝に気付きマーシャとボニトが慌てて近付こうとしたが、それより早くアドルフの大きな手が彼の頭を撫でた。言葉なく笑顔を差し向けられ、一拍置いて常勝も笑い返す。瞬いた瞬間涙が頬を伝ったが、涙はそれで止まった。
 その後てきぱきと布団を敷き終わると、ミスカ家と常勝はすぐに就寝の準備に入る。明日の準備も完全に終わったことを確認したアドルフは電気の前に立って布団の中の一同に視線を向けた。
「消すぞー」
 はーい、と三方から答えが返る。3組並べられた布団には奥から順にマーシャ、ボニト、常勝がすでに寝ており、アドルフは一番手前側の布団にもぐりこんだ。就寝の挨拶を交わし合い、僅かな間は沈黙が落ちた。が、気がつけばすぐにボニトと常勝が喋りだす。最後にはマーシャに怒られ2人もついに口を噤んだ。そしていつの間にか、本当に眠りについた。