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 常勝は目の前の家を見上げる。自宅として案内されたのは、住宅街の少々築年数の経った一戸建て。元々はアドルフの日本の友人が住んでいた家だったが、引越しの際「手放すよりは」と貸してくれたらしい。そのためか、表札には元の住民の名前が書かれ、ミスカ家の名前はその下にかけられた手作りのボードに表記されている。
「どうぞ」
 改めて招かれて家に入ると、廊下は外とは比べ物にならないくらい暖かかった。どうやら廊下に石油ストーブが置かれているらしく、それが赤々と燃えている。アドルフとボニトは大きな声で「ただいまー」と家の奥に声をかけた。答えるように家の奥からはぱたぱたと軽い足音がする。
「おかえりなさい、アドルフ、ボニト。……あら?」
 柔らかな笑顔で迎え入れてくれたのはボニトと同じ銀色の髪をしたショートカットの女性だ。銀というより灰色の目は、夫と娘の他にもうひとり見慣れぬ人物を見つけてぱっちりと開かれた。常勝は慌てて帽子と眼鏡を取って彼女に頭を下げる。
「は、はじめまして。飛鳥 常勝です。えっと、サッカー選手してます。そこの公園でアドルフさんとボニトちゃんと会って」
「ほら、元日本代表で現グリモワールの。年末年始にひとりぼっちだっていうから連れて来たんだ。いいかいマーシャ?」
 常勝の顔と自己紹介、そしてアドルフの補足を受け、女性――マーシャは再び笑顔を浮かべた。胸の前でぽん、と手が合わせられる。
「飛鳥選手! まぁ嘘みたい。こんな優秀なサッカープレイヤーがうちに来てくださるなんて。ええ、もちろんよ。ゆっくりしてらして。私はマーシャ・ミスカです。よろしくね」
 さすが英国人。改めて頭をさげながら、サッカープレイヤーという単語の発音のよさに常勝は内心で軽く感動した。
 2、3言葉を交わしてからマーシャに案内されてリビングに向かう。部屋に入ると、廊下を更に上回る暖かさに迎えられた。室内は8割ほどが洋風で、残り2割が和風になっている。元の家主の趣味なのかミスカ家の趣味なのか、部屋の端にフローリング用の少し厚みのある畳が置かれていた。その上にはコタツが置かれ、お約束のみかんも籠で配置されている。その途端に常勝の視線はそこに釘つけになった。ちょーだいって言っていいかな、駄目かな。そんなことを迷っていると、隣のマーシャが見上げてくる。
「お昼にするつもりなんですけど、飛鳥選手お昼はまだかしら? 今日は野菜スープとミニサンドイッチとミニハニートースト、それとベイクドポテトよ」
「あ! は、はい。食べてないです。……いいんですか?」
 控えめに尋ねると、マーシャは「もちろん」と微笑んだ。ミスカ家の人たちはみんなあたたかく笑うな、と常勝はじんわりと胸に広がる優しさを噛み締める。
「じゃあ、上着を脱いで一緒に手洗いうがいに行こうか」
 アドルフに誘いかけられ、常勝はそそくさと上着を脱ぎ示された場所にそれをかけた。同じく上着を脱いだアドルフとボニトと共に手洗いうがいを終えて帰ってくると、食事用だろうテーブルに先ほど示されたメニューと取り分け用の小皿、ピッチャーに入ったジュースとグラスが並べられている。
「さ、座って」
 アドルフにぽん、と背中を叩かれ、常勝は机に向かう。ボニトが子供用の椅子に座るのを手伝い、その横に座ると、アドルフとマーシャがそれぞれ常勝とボニトに食事を盛り始めた。
「アドルフさん、俺自分で出来ますよ」
「いいからいいから。お客さんはゆっくりしていなさい」
 慌てて腰を浮かしかけるが、笑顔で留められたのでそわそわしながら再び席に着く。少しして常勝、ボニトの分を盛り終わると、アドルフはマーシャの分を、マーシャはアドルフの分を盛り始めた。
「ボニトちゃんのお父さんとお母さんは仲良しだね」
 ボニトに視線を向けて声をかけると、ボニトは「うん!」と満面の笑みを咲かせて元気に頷く。その屈託ない笑顔が、仲がいいと即答かつ断言出来ることが、常勝には痛いほど眩しく――羨ましい。自然と胸の底に苦い感情が湧き出た。すると、突然アドルフがくしゃりと常勝の髪をかき混ぜる。驚いて顔を上げると、にこりと笑みを向けられた。
「さ、食べよう。うちの奥さんのサンドイッチは絶品だよ」
 何事もなかったようにアドルフは手を合わせる。イギリスでもそうやるのか、と常勝が目を軽く瞠ると、アドルフは苦笑した。
「日本人と食事する時や日本の日はこうしてるんだ。ああ、日本の日ってのは、うちで日本語を使う日のことだよ」
 郷に入りては郷に従えということだろうか。納得した常勝にボニトが「手を合わせてください」と、声をかけてくる。小学生の時代を思い出しくすりと笑って、常勝は手を合わせ「合わせました」と答えた。見ればマーシャも手を合わせている。
「いただきます」
「「「いただきます」」」
 ボニトの合図に続き、常勝、アドルフ、マーシャの声が重なった。常勝はまずスープを口に含んだ。続けて、サンドイッチ、ハニートースト、ベイクドポテト、と順番に口に運ぶ。オレンジジュースでポテトを喉の奥に流し込むと、またサンドイッチに手を伸ばした。空腹だったというのもあるが、舌を大いに喜ばせる味に手は止まらない。きらきらとした目をしている常勝を見てアドルフとマーシャはくすくすと笑う。
「おお、良い食べっぷりだな。さすがサッカー選手」
「そんなに美味しそうに食べてもらえると嬉しいわ」
「マーシャさんお料理上手だね! 全部美味しいよ! サンドイッチ本当にすっごく美味しい!」
 ぱっと顔を上げて本心から褒め称えてから、常勝はごほんと咳払いした。
「マーシャさんお料理上ですね。全部美味しいです」
 少々棒読み気味に先の言葉を敬語で言いなおすと、アドルフとマーシャは揃って噴き出す。
「あらあら、いいのよ飛鳥選手。喋りやすいように喋ってちょうだい。そっちの方が仲良くなれたみたいで嬉しいわ」
 常勝に気を遣わせないようにするためか、マーシャ自身も砕けた喋り方になった。仲良く、という単語に常勝はぱぁっと日が差したように表情を明るくし、アドルフにも目を向ける。
「ああ、俺もそっちの方が嬉しいよ飛鳥君」
 アドルフにも笑顔を返してもらい、常勝は更に笑みを深くした。
「うん、ありがとうマーシャさん、アドルフさん!」
 子供のようにはしゃぐ常勝に、ミスカ夫妻もまたにこにことしている。すると、常勝は何かを思い出したように「はいっ!」と高々と手を上げた。隣のボニトが「はい、あすかくん」と指名してくれたので、常勝は肩の前に持って来た両手をぐっと握り締める。その目を輝かせているのは――希望。
「もしよければ俺も名前で呼んで欲しいな! 外国の人って名前で呼び合うんだよね?」
 外国でも親しいもの同士が一般なのだが――と思いはしたが、否定したらまた大泣きさせてしまう。そう考えたアドルフは笑みを浮かべた。別に名前を呼ぶことに拒否感などない。彼は明るく良い青年だし、アドルフが以前聞いたあの話≠ェ嘘でないのならば、拒否しようとも思えなかったのだ。
「もちろんだよ、常勝君」
 さらりとアドルフが名を呼ぶと、常勝は口元を緩ませる。続いて彼が視線を向けたのは口元をもごもごさせているマーシャ。もしかして何か食べていたのか、と気遣った常勝はそのまま隣のボニトに目を向けた。
「とぉきぃむぁ……?」
 何とか呼ぼうとしているようだが、日本固有の名前はまだ舌が動かなくて言いにくいのか、苦戦しているようだ。それでも期待を込めて見ていると、ボニトは何か思いついたように両手を挙げる。
「とーきんますぁっ」
「そう! 出来たねボニトちゃ――」
 凄い、と褒めようとした言下、アドルフが盛大に噴き出した。見れば、机に肘をついて額を手で覆うように笑っている。
「ボ、ボニト。適当な英語で誤魔化すのやめなさい」
 くくく、と体を震わせているアドルフからそろそろと視線をボニトに移すと、「ばれちゃった」というように舌をぺろりと出して悪びれない笑みを浮かべていた。
「ひどいよボニトちゃんんん、アドルフさん、ボニトちゃん今何て言ったの?」
 目に軽く涙を浮かべながら問いかけると、アドルフは指を1本ずつ立てて行く。
「『Taking』と、『mouth』と、『up』だね」
 Taking mouth up。何の意味もないというその言葉をアドルフが流暢な英語でなぞると、なるほど確かに先ほどボニトが口にしたような音に、常勝の名前のように聞こえた。
「もおおおおっ! ボニトちゃん適当駄目なんだからね!」
「えへー、ごめんねー」
 ボニトの柔らかいほっぺを両手で挟んでぷにぷにしながら文句を言うと、遊んでもらっていると思ったボニトはけらけらと笑いながら謝罪してくる。通じてないーと涙目になる常勝に、アドルフは「それなら」と問いかけた。
「常勝君は何か別の呼ばれ方とかないのか? 名前の短縮形とか、あだ名とか」
 問われ、常勝は顎に手をあて過去に呼ばれた名前を次々に思い出していく。モミー、もみちゃん、あすちゃん、もやし(ひどいんだから!)、ツケマ(つけてないのに!)、おみかんの妖精、etc。どれがいいか、と思っているうちにもうひとつを思い出した。
「知り合いの子に『常にいちゃん』って呼ばれたことあるよ」
「あ、じゃあね、じゃあボニトは『ときくん』って呼ぶ! いーい?」
 呼びやすい名前が来たことにボニトは喜んで自分流の呼び方を決める。年齢問わず男性を「君」付け、女性を「ちゃん」付けで呼ぶのは両親の影響だ。
「うんいいよー!」
「あら、いいわね。じゃあ私もとき君って呼ぼうかしら?」
 マーシャが便乗すると、常勝はそちらにもOKを返した。こうして呼び方としゃべり方が決まったところで、常勝の本領は発揮される。食べながらも寮のこと、チームメイトのこと、普段の日常のこと、練習のこと、友達のこと、と、最終的にアドルフに宥めるように止められるまで、様々な事を話し続けた。
 やがて昼食の皿が全て空になると、常勝とボニトはこたつで某ポケットなモンスターで対戦をはじめ、アドルフとマーシャは食器の片付けと今日の夕飯、そして明日の朝食の仕込みを始める。常勝とボニトも手伝おうとしたが、常勝は「ボニトと遊んでやって」と、ボニトは「お客様をもてなして」と言われ、それぞれ引いた。
「それにしてもとき君凄いわね。ちょっと作りすぎちゃったかと思ったけど食べきってくれてよかったわ」
 食器の泡を洗い流しながらマーシャが感心を口にすると、隣で野菜を切っていたアドルフが何かを思い出したように小声で話しかけてくる。
「ところで俺の可愛い奥さん?」
「何かしら? 私の素敵な旦那様」
 語調も軽く応じるが、マーシャは愛しの夫から視線をそらしていた。アドルフがにやにや笑っている意味を察したからだろう。
「君も常勝君の名前言えなかったね?」
「…………日本の男の子の名前って難しいわね」
 質問の答えではないが明らかな肯定。アドルフは「そうだね」と噴き出す。
「ピャッ?」
 こたつでゲームをしていた常勝が驚きを孕んだ声を上げた。若干涙声なことにアドルフとマーシャは少々驚いて対面キッチンからこたつが置いてある一角を覗き込む。
「ボニトちゃん対戦強くない? 俺全負けしちゃったよ?」
 手加減はしていたし、自身のベストメンバーではなかったが、一勝も上げられないとはとても思わなかった。衝撃を受けている常勝に、キッチンからアドルフがフォローを入れる。
「細かいことはおじさんも分からないけど、ボニトそのゲーム強いらしいぞー。6年生の男の子と対戦して勝ったらしいから、常勝君ももうちょっと手加減カットして大丈夫だと思うよ」
 食事中の雑談でボニトが5歳ということは聞いている。その彼女が、6年生――つまり11歳か12歳の少年に勝った。件の少年がどれほどの腕前なのかは分からないが、小学校にも上がっていない娘が勝ったという事実はそれを些細なことだと思わせる。何せ初代の頃と違い、今のポケットなモンスターは色々と頭を使う要素があるのだから。
「よーし、俺も相棒連れてきちゃうよー」
 ぺろりと唇を舐め、常勝は手持ちのモンスターを交換した。さすがに全部を変えるつもりはないが、一体だけ変えるというならこのモンスターを入れなくては始まらない。
「あー、クルミルだー」
 再び始まった対戦で早速出てきたモンスターを見てボニトが意外そうに声を上げる。自分よりずっと年上の男性が相棒だというのだから、きっと見た目も強そうなモンスターだと思っていた。
「大天使クルミルだよ! この子はまだ育て中だけど十分強いよー」
 星を飛ばしそうな明るさの常勝に、ボニトは一瞬可愛いから使っているだけかと思う。しかし、レベルは可愛げがない。
「よーし、いくよー!」
 気合を入れ直したボニトが戦闘開始を宣言した。どうやら無事に遊びは続くようだ、とアドルフとマーシャはほっと安堵の息を吐き出してそれぞれ作業に戻る。ボニトが「あーっ!」と大きな声を出し、3戦目が開始されるのはそれから十数分後のことであった。