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第3話 「『ティナ・レシィ』の誕生」
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「おじいちゃんっ!」
 『彼女』に《スペード》を託したセルヴァは、今まで止まっていた時が一気に動き出し、たった5年で、約60歳近くの年をとった。この日、齢86の老騎士の人生の幕が下ろされることになる。
 寝台に横たわり目を瞑るセルヴァの手を握り締めながら、『彼女』は泣いていた。今は本当の肉親より近いところにいる彼が、もうすぐ絶対に手の届かないところへ行ってしまう。考えたくないことばかりが頭にへばりついて離れなかった。黙って泣いていた『彼女』の手を自分の手からゆっくりと解くと、セルヴァは『彼女』の頭に手を置いて優しく撫でてやった。
「笑っておくれレティシア。私は最期に見る愛孫の顔は笑顔の方がいい。その方が、安心して逝ける」
 笑わなきゃ。祖父の願いに『彼女』は溢れる涙を必死にこらえようとした。それでも涙は止まらない。笑おうとしても顔が引きつり笑えない。こらえていた嗚咽まで始まってしまった。
 もう駄目だ。最期なのに、祖父に嫌われてしまう。
 たまらず俯く彼女に、セルヴァは優しく声をかけた。
「レティシア、私は幸せだったよ」
「――え?」
 顔を上げると、そこに祖父の優しい笑顔があった。
「本来《スペード》とは100年に1人生まれるか否かの存在だ。それゆえ、次代の者が見つかる頃には100の年を越える者など稀ではなかった。当代の者は次代の者にその力を渡した時から、止めていた分の時間をその身に受ける。そうすれば100を越える者は数日で生を全うし死んでしまう。だが私は、早くにお前を見つけられ、早々に引継ぎを済ませた。おかげで、私は普通の老人として、5年もお前のようなとてもいい子の祖父でいられた。《スペード》の運命を受けた者で、これ以上の幸せが他にあろうはずがない。私は、幸せだったよ。レティシア」
 言葉の終わりには、『彼女』の満面が涙で埋め尽くされていた。それは悲しみではなく、喜び。セルヴァが、大好きな祖父が、幸せだったと言ってくれた。わがままで泣き虫な『彼女』と一緒に過ごしてきたことを幸せだと言ってくれた。『彼女』は目を擦る。少しやりすぎて赤くなってひりひりしたけど、それでも何とか涙は消せた。
「おじいちゃん、『私』も幸せだったよ。いっぱいわがまま言って困らせてごめんね。大好きだよ、おじいちゃん……っ」
 『彼女』は祖父の手を握り直して、精一杯笑う。『彼女』の言葉に、祖父は目を細めて頷き、その目を閉じた。握り締めた手から力が抜け、先ほどまでよりも重くなった。段々と冷たくなっていくセルヴァの手を、『彼女』はいつまでも離せなかった。そこへ、ジョーカーがやってきた。騎士団設立当初からいるのではとひそかに囁かれている総隊長は柔和な顔の小柄な好々爺だ。ジョーカーは何も言わずにいた。ジョーカーは何も言わずにいた。見上げると、声もなく涙を流していた。
 ――この人も、悲しんでいるんだ。
 自分だけが悲しいわけではない。彼女ははっきりと理解した。ジョーカーがここへ来たということは、恐らく騎士団の者達は全員このことを知っているだろう。そのことを考えると、《スペード》として、そして大隊長スペードとしてこれ以上泣いているわけには行かなくなった。
「ジョーカー」
 呼びかけると、ジョーカーは問うように優しく『彼女』を見た。『彼女』は祖父の手をゆっくりと離し、立ち上がる。
「レティシアは今日死にました。私は、今日から『ティナ』と名乗ります」
 『ティナ』。スペードにとってもっともの縁(ゆかり)のある名。その名を選んだことが、『彼女』にとっては大きな覚悟だ。
 彼女が強くそう宣言すると、ジョーカーは彼女の目元を親指の腹でそっと拭った。彼女はその時、ようやく自分がまだ泣いていたことに気づく。
「分かったよ。でも苗字無しじゃあ格好が付かない。この子の姓を貰いなさい。ティナ。ティナ・レシィだ」
 優しく提案するジョーカーに向かって、彼女は深く頷いた。


 それが、『彼女』が彼女に変わった瞬間



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