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第3話 「『ティナ・レシィ』の誕生」
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「あの日レティシアは死んだ。私はティナ・レシィなんだ――」
 先と同じ言葉を湖の中の自分へと呟く。吐き出された息にせっかく静まった湖面がまた揺れた。すぐに収まると思われたそれは、だが次第に大きな波紋を生じさせていく。異変に気付いたティナはしまったと自分のうかつさを大いに罵った。傍らに転がしていた狼藤を取ろうと伸ばした手がそれを掴むより早く、ティナの顔のすぐ脇を通って鉄の棒が強く湖の中に突き立てられる。ジワリと水が黒く染まったのは、何も空が夜を迎えたためだけではない。
 それにしばし目を奪われていたティナは、自分の顔すれすれを通った鉄の棒が引き上げられるのと時を同じくして視線を上げる。薄暗い中目に入ってきたのはアズハの顔だった。ティナは隊長格3人の中で唯一自分の過去を知る男を見上げ苦笑する。自分を見下ろしてくる双眸に不機嫌を感じたからだ。
「……ごめん」
 先手必勝と言わんばかりに謝ると、無愛想な目に睨まれた。これは選択を誤ったかとティナは肩をすくめる。
「何を謝っている?」
「なんかこう、色々と?」
「その気がないなら謝るな。子供の時から変わらんなお前は」
 ふんと鼻を鳴らして茜日に取り付く水を振り払う。頬に飛び散ってきた水滴をぬぐいながら、ティナはまた過去を思い出した。
 まだ本当に幼い頃だ。ここに来た頃はティナは本当によく泣く子供で、度々セルヴァに不満をぶつけては泣きじゃくってあちこちに逃げ出していた。そのたびに迎えに来たのは隊長業の忙しいセルヴァではなく団員としてトランプ騎士団に所属していた若きアズハである。その頃から騎士団におり、しかも他に比べれば年が近いせいかティナのよき相談相手であったアズハは他の隊員たちよりずっと『レティシア』と《スペード》について知っていた。そのためか、かなり踏み込んだことも平気で口にすることがある。
「名乗り出たいんじゃないのか?」
「馬鹿言わないで」
 アズハの質問をティナはあっさり切り捨てる。そう、馬鹿なことだ。
「弱いレティシアは死んだ。ここに、今アズハの目の前にいるのはあの子よりずっと強いティナだよ。ハイネルはティナにとってなんでもないただの客人でしかないの。だから関係ない。変に心配しなくていいよ。平気だから」
 言い捨て森を抜ける道を早足で去っていくティナの小さな背中を見送り、アズハは馬鹿はどっちだと呟いた。
「関係ないならもっと平然としているはずだろう。あんな演技をする必要がどこにある」
 視線を巡らせ、まだ黒く濁る湖面を見つめる。
「魔者を呼び寄せるほど負の感情が高まっている状況の何が平気だ。自分の及ぼす影響力を、お前はまだ理解していないのか」
 聞く者のいない言葉は広がり続ける夜に取り込まれていく。存分に一人ごちたアズハは、納得出来ない表情のまま来た道をそのままに自分の団舎へと戻っていった。
 この時はまだ誰一人として気付いていない。この日を境に、時と並行し闇が蠢うごめきだしたことを。

 暗い夜の森を埋めた嘲笑うような声は、果たして木々のざわめきであったのだろうか。



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