第5話 「消えた存在」 3
湖のほとりで、ティナはそれを頼りに立っているかのように全身の力をこめて狼藤を握り締めていた。額に浮かぶ汗の粒は流れてはまた浮かんでくる。やがて深く息を吐き出すと同時、膝が崩れた。先ほどの稽古の疲れも取れていない身体で更に無理を重ねたせいか、呼吸は乱れ全身からはとめどなく汗が流れ落ちる。息苦しさに顔をゆがめながら、ティナは狼藤を睨みつけた。
「〜〜っ、今の持ち主は私よ?! どうしていつまでもおじいちゃんばっかり見てるの!?」
何度も何度も呼びかけているのに、狼藤は応えようとしない。それどころかティナを拒否して先代セルヴァのイメージばかりをティナに向かって放ってくる。ここまでにべもなく否定されると努力している自分が馬鹿らしく思え、また自分を認めようとしない意思ある我が武器が腹立たしく思えた。狼藤を使いこなせればいつまでも自分の中に居座り続ける『彼女』を追い出せるはずなのだ。狼藤が"目覚めれば"『力』を使える。『力』が使えれば彼女への劣等感に苛まれることがなくなる。ティナの中にはそんな理由のない確信があった。
「そういえば――」
ゴロンと横になりラムダの顔を思い出す。
「原点に返れって言ってたけど……本当に何のこと?」
恐らく彼が口にしたのはそれぞれの武器ごとにあるという覚醒の条件なのだろう。先代たち――適合者のいなかったダイヤ以外――が全員武器を目覚めさせその力を十二分に発揮していた以上、その一人であったラムダがそれを知っているのは明白だ。
しかしそれなら――――。
「……もうちょっと分かりやすく言ってくれてもいーじゃないよねー」
ぶちぶちと無口な先代に文句を連ね、ティナは深く息を吐いた。遙か頭上を見上げれば、昼下がりの陽光が木漏れ日となって降り注いでくる。きらきらと輝くそれに目を細め、ティナはまぶたを閉じた。疲れきった体と精神は、早々に夢の世界へと落ちていく。
* * *
『無意味ですよ』
嘲笑を浮かべそう言い放った少女の言葉が忘れられない。どころか深く心を揺さぶってきた。
『無意味』
そうなのだろうか。今更探すことなど、『彼女』にとって迷惑以外の何ものでもないのだろうか。だがそれなら、自分のこれまではどうなるのだろう。10の時から13年。もはや笑顔しか覚えておらず、声も思い出せなくなっても、ずっと忘れぬように心がけてきた。18の時にわざわざ森林調査団を仕事に選んだのも『彼女』を探すためだ。それが全て無駄だった。
ならば自分は――何のために頑張ってきた――?
「――い。おいってばっ!」
深く思案の泥沼に使っていたハイネルはぶっきらぼうな呼びかけにようやく正気を取り戻す。そういえば仕事中だったと慌てて謝ろうとしたその鼻先を、一陣の風が通り過ぎた。眼前には瑠璃色の双眸が怒りを感じさせる眉の下で強く輝いている。前髪の端が数本切り取られ風に舞ったのを見て、ハイネルはようやく武器を振るわれたのだと理解した。
「なっ」
何するんですか。そう言おうとした刹那、真横で黒い血飛沫が舞う。あまりのことに声にならない悲鳴を上げたハイネルを、警護の任につかされたため調査団に同行してたエルマが厳しく睨みつけた。
「あんたしばらく何も考えんな」
「へ?」
突然の命令に要領を得ずに反射的に問い返してしまうと、若いクラブは苛立たしげに「だーかーらー」と説明を付け加えてくる。
「周り見ろ周りっ。魔者が寄って来てんだよあんたが何かグダグダ考えてっから。何考えてっか知んねーし興味ねーけど、ここではこれ以上何も考えんな。まだ考えるつもりならぶん殴って気絶させてでもやめさせてやるからな!」
いいなっ、と指をびしっと突きつけてエルマはハイネルの服を掴んで自分の後ろに突き飛ばした。数歩前にたたらを踏んだハイネルは、興味本位でちらりと背後を振り返り――やめておけばよかったと心底後悔する。
振り返った先では人の形をした異形――魔者たちと騎士たちの死闘が繰り広げられる戦場だった。漂う血の匂い。湧き上がる血煙。響く雄叫びは果たして奮闘する騎士の威勢か魔者たちの断末魔の悲鳴か。定かならぬそれに包まれ、ハイネルは激しい嘔吐感に身をかがめてしまった。