第7話 「嵐の前の不協和音」 3
それまで聞くことの叶わなかったレティシアの声。自分と同じで、自分とは、やはり違う声だった。
一体どうして聞こえたのだろう。
今まで不可能だったことを可能にしてまで、彼女は何を伝えたかったのだろう。
朝の清々しい空気の中を歩きながら、ティナは左手を口元に当て人差し指を噛んだ。ジワリと痛みが広がりだした頃、その背中に声をかけるものが1人。振り返ったティナの目に映ったのは、ハート隊のA(エース)に任命されている老齢の騎士だった。
「おはようございますスペード大隊長。よい朝ですな」
「おはようございます。……武装なんかしてどうしたんですか?」
皮の胸当てと肩当てと腰当て――つまりは皮の軽装武具に身を包み、左の腰に剣を、右の腰に弓を携えている老騎士の姿を見てティナは心底不思議そうに尋ねる。すると、彼は年を感じさせない快活な笑みを向けてきた。
「今日は調査団の警護に当たるので。本日は北の森の調査とのことですから我々の隊が担当なのです」
説明された内容にティナはああと頷く。トランプ騎士団領は広く、各方向に団舎が分布している。個別団舎はスペード隊が南、クラブ隊が東、ハート隊が北、ダイヤ隊が西、というふうに場所が決まっている。そのため、東西南北全ての森林を調査するという団体の警護も方向が合っている隊が請け負うことになっているのだ。今日北の森の調査に出るのなら彼らの護衛がハート隊に回ってくるのは自明の理。納得は出来たが大隊長の位にありながらシフトを掌握していない自分にティナは心底呆れる。
「そちらへ行くのでしたらご一緒しても構いませんかな、大隊長?」
「ええ、もちろん。行きましょう」
並んで歩き出し、2歩も行かぬうちに、ティナは顔を強張らせ振り返る。手の内の狼籐を構えることも忘れない。突然の少女の行動に老騎士はつられて剣の柄に手をかけるが、あまりに周囲が静かなために何事かとティナを見下ろす。気付かないのかティナが何の説明もしてくれないので言葉に出して訊き直してみた。まだ臨戦態勢を崩さずにいたティナも、その問いから呼吸2つ分開けてようやく構えを解く。
「……今、凄い嫌な空気が流れてきた気がするんです。魔者が発するのと同じ、凄く嫌な感じの――」
しかしそれもすぐに消えた。あまりの素早さに、まるでわざとティナに存在を教えようとしたのではないかと錯覚してしまいそうになる。老騎士はしばらくじっと周囲を見据えていたが、ややあって視線をティナに戻した。
「今は、消えたようですな。ですが最近領内にも多数の魔者が確認されております。気を抜かれませぬように」
生真面目な老騎士の言葉に、ティナは深く頷く。その内心では魔者の存在を危惧する反面、ティナの異様な行動を馬鹿にすることなく真面目に応じてくれることに嬉しさを感じていた。レティシアの夢を見た後だからなおさら、スペードとしてティナを信頼してくれることに異常なほどに安堵を覚えたのだ。
(――でもさっきの、なんか獣みたいな動きしてた気がする……)
軽く振り返り、微風に揺られている木々を見つめる。静かな、"静か過ぎる"林からは鳥の声すら聞こえなかった。