同日の夜、光典は翁の家にいた。出会ったその時から何やら翁に気に入られた光典は度々この家を訪れている。最も多いのは翁との世間話だが、ほとんど同じくらいかぐやの稽古にも付き合わされていた。そのためか、ふたりは随分と仲良くなり、男女の云々というよりも悪友のような付き合い方をするようになっている。
今光典は翁の家に居るが、いつもならこんな遅い時間まで邪魔にはなっていない。では何故か、というと、至極簡単な理由である。ただ単に光典が寝てしまい、人のよい翁がそれを起こさずにおいた、という、ただそれだけのことだ。幸い翁が、同じくいつの間にやら同じく仲良くなっていた光典の主に使いを出してくれていたので怒られることはない。
起こさないどころか寝やすいように周りの環境や音まで気を遣ってくれたので転寝は夜の睡眠ほどしっかりとしたそれに変わった。しかしおかげで中途半端な時間に光典の目はすっかり冴えてしまっている。とはいえ今更家に帰れるはずもないので、光典は寝てしまっていた部屋のすぐ前にある庭に出て剣を振るうことにした。
何度も何度も繰り返し基礎的な動作を繰り返していると、次第に汗の玉が体の表面に浮き上がってくる。もう少し若い――幼い頃は派手な技ばかり覚えたがっていたが、いい加減嫁をもらえとあちこちでしつこく言われる年になってくると基礎の大切さというのが理解出来てくるものらしい。最近は基礎を磨くことが趣味になりつつある。以前かぐやにも「基礎が出来ているからなかなか崩せない」と感心された。
「16、17の小娘にあっさり負ける日が来るとはなぁ……」
初めて手合わせした日のことを思い出して光典はぼそりと口に出してしまう。強いのは分かっていたのだが、ある程度自身の腕に覚えがあった光典としては、立ち会い後数分で地に伏せさせられるとは想像だにしなかった。確かあの時は、呆然としていた光典に翁と嫗が真っ青な顔をして平伏しひたすらに謝ってきたのだ。
「いやはや、誠に光典殿にはご無礼の数々をいたしておりまして」
「そうそうこんな感じに――えっ?」
驚きばかりが印象に残っている思い出に浸っていた光典は、思わず相槌を打ってから声の主を振り返る。そこには記憶と同じ相手――翁が、縁側に腰掛けていた。
「つっ、造麻呂殿? 申し訳ない、うるさかったでしょうか?」
剣を腰に納めて光典は柔和な笑みを浮かべる翁に頭を下げる。身分としては光典の方が高いのだが、得た財を惜しみなく人のために使い日々徳を重ねるこの家の老夫婦には頭が上がらないのだ。
「ほっほっ、とんでもない。今日のような日はどうも眠れませんでな。むしろ無聊を慰めていただきましたぞ」
穏やかに微笑んだ翁に、光典は安心した様子で笑い返す。すると、翁は良い事を思いついたと言わんばかりに手をぽんと打った。
「おお、そうだ。今日は家の者が皆沐浴をしたので湯が残っております。光典殿、よければこの老骨に背中の一つ流させてはくれませんかの?」
今日は、と言っているが、この家はほぼ毎日湯が沸かされる。原因は言わずもがな、毎日汗をかくほど暴れ回っているじゃじゃ馬を綺麗にするためだ。本人は水でもいいらしいが、周りがそれを許さない。
現在同じ理由で湯を浴びたい光典としてはありがたい申し出なのだが、翁に背中を流させる、というのが気が引ける。そしてそのまま遠慮を口にするが、翁に何度も誘われ、ついに折れて湯殿まで同行することになった。
人が増えたため改修したのだという湯殿には直前まで人がいたのか湯気が満ちており、心地よい温かさに思わず短いため息がもれる。
「よろしいですかな?」
「はい、かたじけない」
桶に汲んだお湯が背に流された。もったいない使い方だと思わないでもないが、この家では当たり前なのならば光典がとやかく言う話ではない。それに、正直な話気分がいい、というのも口を噤む理由ではある。
お湯で濡らした手ぬぐいで背中をこすり始めると、同時に翁は口も軽く喋り始めた。この老人は存外お喋り好きだ。
「そういえば光典殿はご結婚はされないのですか?」
……たとえばこんな話題。
「……ごほっ。あー、考えぬわけではないのですが、何分不調法者でして。女性との関わりはあまり」
いつもならはぐらかして終わりなのだが、この状態では逃げづらい。仕方なく本音に近い答えを返す。
「おやおや、ではこの老骨ではなく若い娘の方がよかったですかな?」
「なっ、つ、造麻呂殿ご冗談を――!」
年少者をからかうような色をにじませた発言に、まさか翁からこのような発言が出るとは思っていなかった光典は動揺した調子で振り返り――言葉をなくす。
その視線の先にあるのは翁の胸元。老体を包む薄く白い着物は湯気の熱とかかったお湯で透け、その下にある大きな傷の存在を明らかにしていた。
「――造麻呂殿、その傷は……?」
思わず問いかけると、翁は胸元に手をやり、顔の皺を濃くする。
「私の、名誉の勲章です」
それ以上翁は何も言わなかったが、その優しい眼差しから、光典は何となく、彼の愛娘の姿が頭に浮かんだ。
「――失礼ついでにもうひとつ伺いますが、先ほど『今日のような日はどうも眠れない』と仰っていましたが、それは、どのような……?」
気にはなっていたが訊くべきではないと飲み込んだ質問を、光典は改めてぶつける。すると、翁は今度は寂しげな表情を浮かべ、格子のはめ込まれた窓の外に目をやった。
「……今日のような、満月の日は、です」
呟くような返答に引きずられるように光典は窓越しに空を見上げる。そこに煌々として浮かぶのは、今昔の人々が風流な夜の標と愛する満月だった。