第14話 「ディストレス」 2
【ジャズベリン、余計な真似をするならあんた殺すよ?】
冷たい、氷のような声。だがそれを向けられたジャズベリンは軽く肩を竦めて見せるだけ。
【それはすまないな。だが、まどろっこしいんだ。見ててイライラする】
そうふかした瞬間、ジャズベリンの右の耳が肉片すら残さず消し飛ばされた。まるで高速の矢に抉り取られたかのように先をなくした場所から黒い血が噴き出る。痛みと突然の出来事に言葉を発することが出来なかったジャズべリンはそこを手で押さえてティナの影たる少女を睨みつけた。
【――何をするのかな、ディストレス】
丁寧だが殺気立った言葉に、影――ディストレスはそれ以上の殺気をぶつける。
【余計な真似すんなっつってんの。これで最後よ。聞こえないって言うならそっちの耳も消してあげるから言ってくれる?】
脅しではない。脅しでは決して済まない。力を手にしたとはいえ、ジャズベリンは未だ《スペード》から生まれたディストレスと対等であれるほどのものは持っていない。今回彼女がジャズベリンの下にいるのは彼女がティナ・レシィ以外に興味を持っておらず全体の指揮を断ったからだ。彼女が本気を出せばジャズベリンには御前で跪くくらいのことしかできないだろう。それは万が一ティナが持ち直して供給される力が減ったとしても変わらない。とにかく基本的能力がまるで違うのだ。それに彼女の弱体はそのまま自分のそれにもつながる。
【分かった。この先まだ大仕事が残っていることだし、これ以上は何もするまいよ。私もこのようなところで命は落としたくないからな】
露骨に息を吐いて数歩下がったジャズベリンを目の端で睨むように見送って、ディストレスは再びティナに向き直る。一方のティナは何故ジャズベリンが引いたのか分からなかったが、少なくともこの頭角の2体の仲が純粋な信頼関係ではないということだけは分かった。ならばそこが付けこむ隙になるはずだ。
ティナは必死にレティシアに呼びかける。だが、その答えが返るよりも早く、ディストレスはティナの胸倉を掴んで乱暴に引き起こした。微妙な高さで止まらされたので、足に力が入らないのも加わってティナは膝立ちにさせられる。
【――ねぇティナ】
ひんやりとした手が頬に触れた。真正面から向けられた双眸には深い嘆き(ディストレス)が浮かんでいる。
【何で、私を生まれさせたの?】
ティナにしか聞こえない小さな囁き。聞き返そうとした瞬間、頬に触れていた手が放され、次いで風を切って戻ってきた。高い音が響くと、ジンと頬が熱くなり耳鳴りがし、目の前に星が浮かんだ。意識とは裏腹に涙が浮かぶ。
【受け入れらんないくせに、何で? どうせ突き放すくせに何で!?】
押し殺した声は憤り。睨みつける眼差しは絶望。頬を張った手は悲しみ。力強く立っているようなのにひどく不安定に見える理由が何なのか、ティナにはまるで分からない。ティナが彼女を推し量ろうとしていることに気付かずに、ディストレスはきつくティナを睨んだ。
【ホントあんたって最悪。腹立ちすぎて頭痛いわ。甘ったれで泣き虫でぐずぐずしててあてつけがましい。いい加減にしてよ……!!】
「っ、うるさいっ!! それは私じゃない」
はじめて、ティナが反論する。しかしディストレスの二度目の平手打ちがその言葉を否定してきた。それでもなおティナが「そんなことない」と呟けば、ディストレスはうめくように告げる。ふざけるな、と。
【あんたもレティシアも同じよ。自分の弱い所何でもかんでも切り捨てたがる弱虫じゃないっ! あんた達がそんなだから私は生まれたんだっ。あんたもレティシアも、私は大っっ嫌いっっ!!】
叫ばれた言葉は、計り知れない悲しみを孕んでいた。ティナはその双眸を呆然と見つめて言葉を忘れる。なんということだ。魔者とは、本来負の感情だけを持ち合わせて生まれる。しかし彼女は違う。絶叫にも近い叫びを聞いて、苦しんでいると、手に取るように分かってしまった。
ディストレスはティナから生まれた、ティナの「嘆き」と「悩み」の塊。それはただの人からではなく魔者の敵である《スペード》から生まれたもの。魔者は大なり小なり自分を生み出した人間の影響を受けるものだ。ましてその人間が武器に選ばれるほどの性質を持つものならばその影響力はひとしおである。そして《スペード》から生まれたために、ディストレスは自らの存在に悩んでしまっているのだ。《スペード》の存在は彼女を揺るがす恐怖。しかし彼女はその《スペード》から生まれてしまった。だから持たなくてもいい嘆きや悩みを抱いてしまったのだ。他ならぬティナのせいで。
怨敵が存在のはじまり。
消滅(にんげん)と繁栄(まもの)。1つのことに関する相反する2つの思想にはさまれたディストレスの憤りも絶望も悲しみも、向けられたところで文句は言えない。彼女に苦しみを与えたのは他ならぬティナ自身なのだから。だがそれなら。いや、だからこそ思う。
彼女を、助けたいと。
自分の姿をしているからなのかもしれない。単に自分が可愛いだけかもしれない。しかしティナは確かに思った。憤りも絶望も悲しみも、全て解決してやりたいと。自分の存在に嘆く彼女が、あまりにも哀れだから。
だが、どうすればいいのだろう。激しく自分を罵倒してくるディストレスの言葉などもう耳に入らないほど真剣に、ティナは誰かに似ているその姿を見つめる。
その時、上から落下してきた目に見えない大きな力がティナを頭上から包み込んだ。世界中が白黒になり、音が消える。訪れた静寂の中、自分を呼ぶ声をティナは聞いた。それは先ほど罪の意識という泥沼に沈み込んだ自分を引き上げた彼女の声。
ティナの視界が暗転する。