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第15話 「《スペード》の目覚め」 3
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 急に腕が何かに纏わりつかれたように重くなる。ティナはハッとしてハイネルを突き放して両腕を自由にすると、まだ空で円を描いている狼籐を引き戻そうとした。行きよりずっと速くそれは戻ってくる。しかし、瞬き一回分の時が足りなかった。瘴気に纏わりつかれた右腕が爆炎に灼やかれる。痛みに高い悲鳴が短く上がった。短く済ませたのはスペードの意地。しかしその意地すら、この魔者は踏みにじる。追い討ちをかけるように彼女の腕を力任せに掴んだ。今度こそティナは耐えられずに悲鳴を上げる。

 その声と姿を戻した狼籐がちょうど倒れていた背に直撃した痛みに、ハイネルはゆっくりと意識を取り戻していたのだが、誰もそれに気付かない。

「ティナッ!!」

 誰かが叫んだそれを心地良さそうに聞きながらジャズベリンはその名の少女の胸倉を掴んで高々と片腕で持ち上げる。引きつった笑い声を喉からこぼし、魔者はニヤリといやらしく笑った。そしてもがくティナに眉尻を垂らすと、ジャズベリンは空いていた手をその腹部に当てる。触れられたところから全身に広がる悪寒。それは生理的なものではない。騎士の――戦う者の勘が告げる危機の前触れ。ティナは必死に腕から逃れようとした。しかし、遅い。わき腹を、鋭い爪が突き刺す。

 高く上がった悲鳴を、ジャズベリンは心地よさ気に聴いて目を細めた。

【くかかっ、随分あっさり策にかかったな《スペード》。やはりただの小娘か】

 ティナは苦しそうにもがいて声を発しない。ジャズベリンはそれに気を良くしたらしく調子に乗り出した。

【よくぞここまで耐えた。だが、これで終わりだ。ここで喰らってくれる!!】

 脅すように鋭い歯を剥く。すぐに食いついていれば少しはマシだったかもしれない。だが、もう遅い。その余裕が命取りだ。

 ティナの小さな足がジャズベリンの肩につくのと同時に、大きく後ろに振りかぶられていたもう片方が勢いをつけて魔者の下あごを蹴り抜く。悲鳴を上げたくなるほどに襲ってくる腹部の痛みにも、ティナは歯を食いしばって耐えた。潰れた声でジャズベリンは悲鳴を上げ、たまらずにティナを放り投げる。地面に投げ出されたティナは体重の軽さもあいまって長い滞空時間の後に地面に叩きつけられた。痛みに悶えたが、口からダラダラと黒い血を流してのた打ち回っているジャズベリンにいい気味だと思うとそれも帳消しにされる。

 ティナはふらつく足で立ち上がると、それでも堂々と胸を張った。その前髪の奥ではぼんやりと赤い光が輝きだす。

【キ……サマァ……ッ! 《スペード》の力も存分に使えぬ小娘の分際でよくもこの私に――ッ!!】

 しかしそれに気付けぬジャズベリンがいっそ哀れと言いたくなるほど惨めにわめいた。ティナの絶望が消えた今、彼は通常より少し強いだけの魔者に成り下がっており、最初に感じた威圧感はもう欠片も残っていない。

 ――そう、絶望は消えたのだ。



「力は、使える」



 朗々と、ティナは告げる。ジャズベリンは隠しようがないくらいに動揺を示した。

【う、嘘をつけっ! ならば何故使わなかった!? 使えぬからだろう!!】

 必死に紡ぐ言葉は真実であるというよりも彼自身を慰めるためのものでしかない。彼自身も気付いているのか、じりじりと後ずさりはじめている。

「使える。けど《スペード》の力はいつでも使えるわけじゃない。《スペード》の力は浄化の力。――その場に血と死が溢れた時にしか、使えない」

 とても悲しい条件。これは、習ったことだ。他の誰でもない、先代《スペード》に。

「そしてここには血が、死が、あふれている。――何より」

 それでも《スペード》を継いでからただの一度も使えなかった理由はそれではない。

「私は、ディストレスも、"彼女"も、受け入れた」




 

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