ルーシアの家で宣言通り着替えと金だけまとめた一同は、次にベイルの家にやって来る。記者らしく多くのメモや新聞、写真が整理された家の中を順に回って、ベイルは生活に必要な最低限の荷物をまとめた。元々取材のため遠出することも多かったので、その手際は二度とこの町に戻ってこられないとは思えないほど鮮やかだ。
「こんなところか。もう結構だ。門まで連れて行ってもらえるかい?」
大きなリュックに荷物をまとめて背負ったベイルが言うと、自警団たちはルーシアを引き連れ外に出て行く。面白いことに、付き添っている自警団たちは何か引っかかるのかそわそわしている者、本当に出て行くのかと苦い顔をしている者の二通りに分かれていた。ベイルのすぐ前に歩いているのは昔からの顔なじみで、彼は後者の顔をしている。
「……爺さん」
小さくベイルが声をかけたのはベイルのすぐ後ろを歩く隊長だ。殿の彼と目の前の男にしか聞こえないほど小さな声。隊長は返事をしないが、聞こえているのは分かっているのでベイルは同じ声音で続けた。
「後で俺の仕事机の一番下の引き出しの中見てくれ。金庫が入ってる。鍵は2階の窓際の植木鉢の下。……俺が調べてきて、黙ってきた、この町にある罪だ」
顔なじみの男がぴくりと反応するが、流石に何年も自警団として働いているだけあって目に見えて取り乱すことはしない。後ろの老人とは言いがたい男の反応は分からないが、きっと不機嫌な顔の皺を少し深くしていることだろう。
「そして、罪を隠さないというルールを破った俺の罪でもある。だから俺が追い出されても仕方ないことなんだよ。……あんま気負うなよ。爺さんも、お前も」
その言葉を最後にベイルは口を閉ざす。顔なじみも隊長も何も言わない。だがきっと伝わっていることだろう。そう信じて、ベイルは不安げな顔で家の外に立っているルーシアに微笑みかけた。
夜も深い頃、ルーシアたちは正義の町を追われる。町から追い出される者は後を絶たないが、この日異例だったのは、深夜にも関わらず多くの町民が集まったことだ。「夕告げの舞姫」と「英雄の息子」という有名人が町を追い出されることが早くも噂になったらしい。中には「何かの間違いだ」と騒いでいる者たちもいる。誰も彼も、ルーシアとベイルの友人や救われた経験がある者であった。
多くの者に見送られ、ルーシアはベイルに誘われながら夜の道を歩く。鍛えられている体は多少の夜歩きなど堪えず、正義の町が丘陵の向こうに消えた辺りにある湖のほとりで彼らは野宿をすることになった。
天には満月が輝き、星たちも騒がしく踊っている。その光は大地に降り注ぎ、湖は受けた光を跳ね返していた。
「……綺麗……」
幻想的な風景を眺め、ルーシアはほぉと感嘆の息を吐き出す。
「これからはこういう景色もたくさん見せてやれるな。……それとも、どこかで定住したいか?」
火を起こし終わったベイルが隣に立った。軽く見下ろす位置にある彼の顔を見返すと、優しい笑顔を向けられている。その笑顔と言葉の意味にルーシアはどきりとするが、勘違いに決まっている、と誤魔化すように笑った。
「ふふふ、そうね、どっちがいいかしら。あなたのお勧めは? ベイル」
きっと平和に生きろと言われる。あの時言われたのと同じように。
ちくりと痛む胸の内を隠すように作った笑顔を浮かべていると、不意に手を取られ、正面から向き直られた。月と星と炎の揺らめきで顔に浮かぶ陰が、まるで違う人物のような表情をベイルの顔に刻んでいる。高鳴る心臓と熱くなる頬に戸惑い出したその時、ベイルはようやく口を開いた。
「俺のお勧めは、俺と結婚する、だな。旅をして生きたいならそうするし、どこかで定住したいならそうする。身の程知らずかもしれないが、ルーシア、お前を愛してるんだ。お前の人生に俺を付き添わせてくれないか?」
低く聞き心地のよい声が耳朶を打つ。何年も望んで、けれど言えなくて、いつか彼が所帯を持つ頃には側から離れなくてはいけないのではという不安に苛まれていた。その不安を、一瞬にして彼の言葉は吹き飛ばす。
「……いいの? 私、私で、いいの? だって、私元々娼――」
「ルーシア」
口にしかけた過去をベイルの肩口が塞いだ。
「いいんだ。そんなことは。俺は、全部まとめてルーシアが好きなんだよ」
抱き締める力が強くなる。少し苦しいが、今はその苦しさが心地よい。包み込むぬくもりが心地よい。
視界が歪んだ。長いまつげに叩かれ、透明の雫が頬を濡らす。幾筋も幾筋もこぼれるそれはベイルの肩に落ちてしみを作ると、ベイルは落ち着かせるように優しく背中をさすった。その優しさが今度はルーシアから嗚咽を引き出す。
しばらくの間ベイルの腕の中で泣いたルーシアは、ようやく人心地ついてから息を整えてベイルに向き合った。が、すぐに顔をそらす。
「ルーシア?」
不思議そうにベイルが声をかけると、ルーシアは恥ずかしそうに顔を隠しながらぽそりと理由を口にした。
「……だって、絶対化粧落ちて酷い顔してるもの」
言うや否やルーシアは湖まで走って行ってしまう。残されたベイルは一瞬ポカンとし、次いで笑った。一体どんな重大な理由があるのかと思えば、と。
少し待っていると、化粧を完全に落とし、素肌の状態でルーシアが戻ってくる。その頃にはすっかり落ち着いたルーシアは、水の冷たさや泣いた以外の理由で赤い頬でベイルと向き合った。
「……私も、ベイルのこと好きよ。出会った日からずっとずっと、大好き。あなたの奥さんになることをずっと夢みてたわ。あなたと一緒なら旅の日々も定住の日々もきっと幸せよ。だから」
一旦言葉を切り、ルーシアは深呼吸をしてから、何年も一番言いたかったことを告げる。
「私をあなたの隣において。愛してるの。あなたの奥さんとして、あなたの人生の隣を歩かせて」
ようやく言えた言葉に胸が熱くなる。また涙が浮かぶが、それはまたもベイルの肩口に吸い込まれた。夢みたいだと呟く彼の声は震えていて、本気で覚悟をして告げてくれた想いなのだとルーシアは心から感じ取る。
それから数ヵ月後、しばらくの間旅を続けていたルーシアとベイルは、ルーシアの懐妊と共に正義の町からは遠く離れた町に定住を決めた。ランダルたちが町を追われたこと、同時期に明かされた様々な罪≠前に、正義の町が変わったこと。それらを、偽名を使って友人とやり取りした手紙によって彼らが知るのは、もう少し先の話である。