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 カーテンを閉め切った薄暗い部屋の中、若太はベッドの上で布団を被り音のないヘッドフォンをつけて丸まっていた。

「……俺最低……」

 小さく小さく呟くのは自己嫌悪。心配してずっと来てくれている友人たちをあんな形で追い返すなんて、自分でも嫌になる。けれどどうしようもないのだ。彼らと仲良くいたいからこそ、今は彼らの顔を見たくない。もし今彼らの顔を見てしまったら、若太はきっと妬ましさに負ける。地元の大会社に就職を決めた隆臣、東京の大手に就職を決めた来良、将来の夢のため今なお勉強中の青雲。誰も彼も、今の若太には目映過ぎた。

 そんな暗い気分で会いたくない。大事で大好きな友人たちを、そんな目で見たくない。そして、こんな自分を彼らに見て欲しくない。

 自己嫌悪、自己否定、自己憐憫。黒い感情と暗い思考が止まらない。閉じた目蓋の間から涙が滲んでくる。拭う気力すらわかずそのままにしていると、不意に階下が騒がしい気がした。何だろう、とヘッドフォンを外しながら半身を起こすと、それと同時に部屋の扉が酷く乱暴に叩かれる。いや、蹴られたのかもしれない。

 隆臣が戻ってきたのか、と思ったのだが、外から聞こえる声は彼の者ではない。もっと年かさの――老人の声。しかも、その声には聞き覚えがある。

「おいこら若太ぁ! とっとと出てきやがれ。じゃなきゃ扉蹴破るぞ!」

「ちょっ、爺さん、爺さん落ち着けって」

「人んち壊さないでくださいよ」

「喧しいわ小僧ども! よしちゃん、よしちゃん鍵持ってきな」

 老人は制止する声を振り払うと若太たちの母である良恵(よしえ)を呼ぶ。母は戸惑いながらも返事をして部屋の鍵を取りにいくべく部屋の前を離れたようだ。

 無理やり入って来るつもりだ、と気付いた若太は何か物を扉の前に置こうとするが、焦った状態ではどれを動かせばいいのか判断が出来ず、結局自分の手でドアノブを握り締めた。

 すると、見計らったように母が戻ってくる。老人は母から鍵を受け取ったらすぐに鍵穴に差し込み、躊躇なく鍵を回した。若太は扉を開かないようにその場で踏ん張る。一度はその思惑通り開くのを阻止できたが、若太が抑えていると相手に教えてしまったようだ。

「家の中でごろごろしとる小僧が、今も現役で店の仕事しとる俺に勝てると思っとんのか」

 腹から出した声がすると同時に、老人がひとりで押しているとは思えない力で扉が押された。耐え切れずに若太は前のめりに転び、扉は弾かれるように開かれる。

 恐る恐る視線を廊下に向ければ、そこには予想していた通りの老人が仁王立ちしており、その背後には心配そうな表情の友人達と母と兄が立っていた。

「……柊のじーさん」

 若太は眼前の老人を呼ぶ。彼は祖父の友人で、3丁目に柊屋という店を構えている柊 敏清(ひいらぎ としきよ)という人物だ。若太も幼い頃から世話になっているが、最近では滅多に顔を出さなくなっていた。

「かっ。なんつー辛気臭い顔してやがんだ。こんな空気悪い部屋にいっからだ。おい竜也、カーテンと窓開けな」

 敏清が顎をしゃくって命じると、兄は丁稚のような返事をして敏清の脇を通り若太を跨ぎ言われた通りにカーテンを開け、続いて窓を開ける。3月とはいえ、まだまだ空気は冷たい。

 寒い、と思わず身を縮めた時、敏清は若太の眼前までやって来て彼を見下ろした。

「100+150は?」

「へ?」

「へ、じゃねぇ。100+150の答えはって訊いてんだ」

 突然の小学生レベルの足し算。一体何かと思いながらも、若太は「250」と答えを出す。

「じゃあ100+50+180は?」

「えっと、330」

「1000−627は?」

「……さ、373」

「1254+105+320+412は?」

「ちょ、ちょい待っ。もう一回」

 全ての数字を聞き取りきれず若太が乞うと、敏清は肩眉を上げた。

「何だ分かんねぇのか。じゃあ数字が書かれてりゃ分かるのか?」

「そりゃ、口頭で聞くよりは……」

「計算は? どれくらい出来る?」

「さ、さっきのレベルだったらほとんど出来るし、もっと難しいなら電卓とかあれば」

「出来んだな?」

 念を押すように尋ねられ、腰が引けてしまっている若太は静かに頷くしか出来ない。敏清はその回答を見届けてから視線を部屋中に行き渡らせ、机の上に無造作に置きっぱなしにされているバッグを掴んだ。そして、若太の前まで戻ると近くに中身をぶちまける。

「これに中身入れてみろ」

 言下、敏清は空になったバッグを若太に押し付けた。意味が分からないままだったが、逆らうのも怖かったので若太は素直に鞄に今出されたばかりの物をしまいこんだ。

 そして全て拾い終わると、「これでいい?」と敏清に差し出す。敏清はそれを受け取ると、若太の周囲を見回し入れ残しがないかを確認し、次に鞄の中身を眺めた。それらが終わると、敏清は腰に手を当て「何でぇ」と肩を竦める。

「計算も袋詰めも出来るじゃねぇか。じゃあ問題ねぇ」

 一体何の話をしているのか、若太も他の者たちも皆怪訝な表情で敏清を見つめた。それらの視線を意に介せず、敏清は年を感じさせない若い笑みを浮かべる。

「他に就職先がねぇならうちに来な。倅に社長も譲ったし、そろそろ俺も暇な時間を作ろうと思ってたところだ。新しい社員が欲しかったところだ」

 さらりと言ってのけられた言葉を、若太はすぐに理解できなかった。

「………………え?」

 思わず出たのはその一言。敏清は怒りと呆れが交じった表情でその前にしゃがみ込む。

「耳クソでもつまってんのか。うちで雇ってやるって言ってんだ。来るのか来ねぇのか」

 耳を強く引っ張られた。痛みに耐え切れず訴えるが、敏清は放そうとしない。どうなんだ、と繰り返され、若太は顔をゆがめて老人のしわの多い顔を見上げる。

「けど、俺、左目もう、見えな――」

「関係ねぇ。計算できて袋詰め出来て接客出来りゃうちには十分なんだよ。んな余計なもんはいいから、とっとと答えろ。来るか、それとも来ないかだ」

 言うや否や敏清は手を離ししゃがみこんだまま若太と視線を合わせた。片方だけの視界に映るのは、嘘偽りを述べない真正直な男と有名な老人の真摯な表情。若太は目頭が熱くなるのを堪え切れなかった。双眸を涙に濡らし、若太は顔をくしゃりとゆがめる。

 欲しいと言ってくれた。誰もがいらないと言ってきた自分を。

 関係ないと言ってくれた。何人も何人も否定してきたこの目を。

 迎えてくれようとしている。立ち止まり向き合うことから逃げていた心を。

 風が吹く。少し長い髪を揺らす。背中を押す優しい追い風は、若太の言葉を乗せた。

「〜〜っ行きたい。じいちゃんとこで、働かせて……っ」

 言葉にした瞬間、ぼろぼろと涙がこぼれる。かっこ悪い、恥ずかしい、そんなことを考える余裕は今の若太にはなかった。今はただ、光を失った暗い世界にもう一度差した光が嬉しかったから。ちゃんと必要としてもらえるのだと思えたのが嬉しかったから。

「おーし、んじゃ世間様が春休み明けるくらいから正式にうちの社員だ。俺のことは会長と呼べよ」

 豪快に笑うと、敏清は若太を抱き寄せ子供にするようにあやし始める。若太はそれに抗わず、その肩口に顔を押し付け敏清を抱き締め返した。

 そんな様子を見て、母や来良は安堵の涙を浮かべ、兄や隆臣、青雲は喜びを浮かべる。

 


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