それから数年後。
「くぉるぁぁ若太ぁぁぁ! 寝るんじゃねぇぇ!」
年を感じさせない怒鳴り声と共に、店内に鈍い音が響く。
「うぎゃっ! じ、じーさん拳骨は酷い……」
固めた拳を容赦なく振り下ろされた若太は、痛む頭を撫でながら涙目になって拳の主を見上げた。左目を蓋うのは、医療用ではないシンプルな茶色の眼帯だ。
「うるせぇ仕事しろ! あと会長だ。ったく、犬猫の方が仕事してんじゃねぇか」
怒りと呆れで若太を見下ろす敏清がそう言うと、彼の足元にいる白い雑種の犬と若太がいるカウンターの机の端に座っている茶縞の猫が「何?」と言いたげに鳴く。彼らは若太よりも先にこの店に勤めている番犬と看板猫である。若太は反駁するでもなくへらりと笑った。
「いやー、さすが先輩たち」
「おーし、お前の給料半分こいつらの餌代だな」
反省しない様子に敏清がきっぱりとそう言うと、さすがに若太は慌てた様子を見せる。
「ちょっ、待って! ごめんなさい会長真面目にやります」
「当たり前だ!」
「お父さんも若太君もほどほどにね〜」
店の奥――柊家の住居スペース――から声をかけてきたのは敏清の息子であり柊屋の現店主(社長)である柊 善博(ひいらぎ よしひろ)だ。
「俺だって怒鳴りたくて怒鳴ってんじゃねぇ。こいつめサボり癖つけやがって」
「はは、若太君が寝るのはお父さんがいる時だけだけどね。いない時は真面目だよ〜」
「んなもん知ってらぁ! だから俺がいる時にもその働きぶり見せろって言ってんだよ。この目で見ねぇと安心して店離れられもしねぇ」
「あだだだだだっ」
左右から頭を手で挟まれた若太は老いを知らない力強さに敵わず痛みを訴える。
すっかり高校時代の眠り癖を再発させてしまった若太と、それを叱りつける会長、そのやり取りを笑って済ませる柔和な社長、そして番犬と看板猫。ご近所になくてはならない柊屋のなくてはならない名物たちだ。
敏清や善博は知っているだろうか、それとも知らないだろうか。若太が眠り癖を再発させたのは、この一角である元気な社長をいつまでも元気でいさせたいがための行動だと。
若太が入ったばかりの頃、一旦敏清は店に出なくなった。しかしそれと同時にはじめて体を壊したのだ。張っていた気が緩んだせいだろう、と聞いた若太が取ったのは、彼を休ませることではなく彼を店に戻すこと。
あるいは恩知らずとも言われる行動だが、実際、敏清は再び元気を取り戻し今もこうしてしゃきしゃきと行動している。
「……はは」
お仕置きから解放された若太は思わず笑った。何年経っても変わらない。それどころか、もっと強くなる。
「俺、この店ホント大好き」
若太がもう一度世界と向き合うためのきっかけをくれた、宝物の場所。
「……かっ。知ってんだよそんなの。せいぜいきびきび働け」
そう吐き捨てると、敏清は軽く若太の頭を叩いて店の奥へと入っていった。その背中に明るく返事をし、若太は改めてカウンターに座りなおす。
決して大きくはない店舗内に所狭しと並ぶ商品。生活用品、食品、駄菓子にその他諸々。方向性なんて決めないで色々なものを仕入れるのが先代と当代の変わらない共通点。何でも受け入れるのが、柊家。
「こんにちはぁ」
入り口から聞こえてくる来客の声。若太は口元に笑みを浮かべ、いつもの挨拶を返す。
「いらっしゃいませー」
この小さくて広い店が、若太を世界とつないでくれる。
子供の頃何にでもなれると思っていた俺は、半分の光を失ったあの日になれないものばかりになってしまった。そのために負った過去の傷は、まだ癒え切ってはいない。今でも時々夢に見る。今でも時々不安になる。
けれどあの頃よりもずっと心は楽になった。それはきっと、時間が経つごとにこの半分の世界に慣れ、この半分の世界を認めてくれる人たちに出会い、この半分の世界の綺麗さが分かるようになったから。
俺は今日も、半分だけどいっぱいで、明るい世界に生きている。