戻る

<                             



<江東恋歌>

 序                  


 永遠に届くことのない想い。

それでもあの人を想って、私は江に恋を歌う。

 彼女と最初に会ったのはまだ幼い頃のことだった。

彼女は上の兄・(そん)(さく)の練武の相手として父・(そん)(けん)に連れてこられた。初めて手を合わせた時、彼女を女と侮った兄は彼女に負けたと聞く。本来なら誇りを傷付けられたと避けるか追い払うかしてもおかしくないというのに、兄はそのどちらもしなかった。逆に、彼女の武技を気に入り積極的に手を合わせるようになったのだ。

そこに男女の別は無かった。

ただ魂のまま対等な二人がそこにいたのだ。

 また彼女は、戦場でも兄の隣にいた。身につける具足(武具)の純白なことから「白雪の戦乙女」と呼び称されるその活躍に、父の代から仕える古参の将達も彼女を気に入っている。そのくせ頭の固い幕僚達にまで気に入られているのだから感心してしまう。しかし納得もしてしまう。彼女は、礼儀と立場をよくわきまえた人だから。

 主の最も近くにいながら、信を一身に受けながら、見事な武を誇りながら、回転の早い頭を持ちながら、その持ちうる才は余すことなく主のため、国のために使われる。決して驕らず身を正す。政に余計な口を挟まない。そしてその謙虚な姿勢故に、彼女は女の身ながら文武の者達に受け入れられたのだ。その白き花を思わせるたおやかな姿のまま。降る雪のように白き心のまま。彼女は自分を偽ることなく人々の心を掴んだのだ。

 やがて父が死に、兄が死んだ。そして父に仕え兄に仕えた白き花、白き雪の乙女。彼女は今、私の隣で、兄に向けたそれと変わらぬ笑みで笑っている。

阿権(あけん)様」

 戸口の所で立っているたおやかな風情の女性。浮かべられているのは柔和な微笑。孫権(そんけん)はそれに同様の表情を向けた。

 穏やかな微笑に、愛しさを込めて。

(せん)(せい)、『阿権』はやめてくれないか?私はもう子供ではないぞ」

 『阿』とは子供の名の前に付ける小字(しょうじ)であり、成人を疾うに過ぎた者には本来使わない。微笑を苦笑に変えて軽い不満を口にすると、女性――鄭仙(ていせん)(せい)はあっと小さな声を出して両手で口元を押さえる。その所作が、孫権にはなんとも愛らしく思えた。それは単に所作の女性らしさによるものだけではなく、彼女に抱く想い故でもある。

 それは初めて言葉を交わした時のこと。

向けられた笑顔は優しく、差し出された手は暖かく、胸が高鳴ったのを今でも鮮明に覚えている。今思えば、あれは一目惚れの上に初恋だった。

 以来、孫権は一途にその恋情を貫いているのだ。もっとも、彼女には一切伝わっていない思いだが。

「申し訳ありません(ちゅう)(ぼう)さま。まだ直らなくて……」

 孫権は恐縮する仙星に軽く手を振る。

「よい。まだ私が呉の主となってから一年しか経っていないのだ。十年以上続けてきた呼び方をいきなり変えろと言うほうが無理だろう」

 気長にやるといい。そう言ってやると、嬉しそうに微笑んだ年上の女性を見やり、孫家の若虎は静かに笑った。








<                             





風吹く宮(http://kazezukumiya.kagechiyo.net/)