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<江東恋歌>

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 練武場に響く規則的な打ち合いの音を聞き、打ち合う兵達を見ながら、孫権は悩んでいる。内容は無論張昭の提案だ。考えたことがないわけではなかった。ただそれはいつも漠然としたもので、いつも最後にはどこかに消えてしまう。そしてたった一人、心焦がす彼女ばかりが頭と心に姿を残すのだ。

「……兄上……」

 あなたならどうしますか。

もしもあなたが大喬(だいきょう)義姉上を(めと)った時、実際ほど自由でない立場であったなら。

あなたはそれでも、あの方を妻にしていましたか。

 孫権は亡き孫策に思いを馳せる。兄の妻は大喬という名の月も(はじら)う美女であり、二人は恋愛結婚であった。

もしも兄が死なずに今も呉の主であったなら、兄はどうしていただろう。今は問うても栓無きことを、孫権は心の中で何度も繰り返す。

 深く思考に沈んだ孫権。その隣に、ゆっくりと一人の人物が近付いてきた。

「主公。そんなに睨み付けておられたら兵達が恐縮してしまいますよ」

 からかう色が覗かれる声。正気に戻った孫権はすぐ隣に視線を走らせる。見慣れた美丈夫がそこに立っていた。

孫権はほっと息を吐く。

「公瑾か。驚かさないでくれ」

「失礼。あまりにも真剣なご様子でしたので声をおかけする機を失しておりました」

 笑みを浮かべたまま謝ると、周瑜は足下の練武場に視線をやった。特に気負った様子もない横顔を見て孫権もまた練武場に視線を流す。

 しばしの間沈黙に場を譲っていたが、ややあって周瑜はここに来た時と同じ声音で喋り出した。

「お悩みの内容は嫁御の事ですか?」

「………………公瑾、いきなり核心を突くな」

 せめて声の抑揚をつけるぐらいの気遣いを見せて欲しい。孫権はとことん気負わない重臣に頭を抱える。

しかし主の心を表も裏もしっかり把握している周瑜がわざとそうしたのは言うまでもない。下手に長々しくや重々しく切り出して逃げられたのでは困ってしまうからこんな切り出し方をしたのだから。

「そんなに深く何を考えますか。気に入っている者がおられるのでしたら召されればいい。愛情は大事になさいませ、主公」

 それは張昭の意思を裏切っても構わないという意味。なんということはないように、淡然とした様子で微笑んだ周瑜。その顔を一度見返して、孫権は再度練武場に目を戻した。深く思考の淵に向かっていくその横顔を、周瑜は微かに顔をしかめて見つめる。その眉根が曇る理由(ワケ)を、彼の若き主は気付かない。

 その時、(にわ)かに練武場で兵達がざわめき出した。何事かと正気に戻った孫権と周瑜が見下ろす。すると練武台の上に場にそぐわない少年がいるのが目に入った。

「太史慈将軍!尋常に勝ーー負!!」

 などと叫んでいるのは刃を潰した練武用の薙刀(なぎなた)を手に練武台の中央で仁王立ちする凌統。薙刀は兵士の一人から奪ったものらしい。後ろで一人伸びている。

「ああああ阿統ーー!何やっとんじゃお前はぁぁ!?」

 人垣から男が一人飛び出してきた。凌統の父の凌操だ。

「父上は黙っていてください。今俺は男として太史慈将軍と戦わなくちゃいけないんです!」

 勇む凌統に聞く耳なし。慌てた凌操が引き摺り下ろそうと練武台に上ろうとするのを何度も名指しにされている太史慈が笑って止めた。

「どうやら阿統なりに一大決心らしい。折角だ。久しぶりに相手をしてやろう」

 宥められ、凌操は穴があったら入りたい気分で頭を埋め尽くされる。そうなのだ。この馬鹿息子は以前にも同じように忍び込んで来てあろうことか太史慈相手に挑んでいった前科を持っている。その時も彼にこうして迷惑をかけてしまった。あの後こってり絞ったのに、まだ反省していない。

 息子の愚行に頭を抱える凌操とは逆に、周りでは思わぬ余興に沸きあがっていた。

「凌統今回は一発くらい入れろよー」

「将軍相手でも十秒はもたせろー」

「記録更新だー」

「言われなくても!てやああああ!!」

 声援に応えるように凌統は薙刀を振り上げて太史慈相手に大振りで打ちかかる。無謀なと誰もが思った。

それは突然の闖入者(ちんにゅうしゃ)を上方で見守っていた孫権も同じである。しかし、彼の視線は偶然動かした先で止まった。肩で息を切らすという珍しい様子を見せる、その姿に。

「どうした阿統!遅いぞ」

 凌統の攻撃を軽くいなして正面から胸を棒の先で押す。昨晩仙星と手合わせした時と同じ形状の物だ。結局あの後二人してそれぞれ十本相当折ってしまったというのに全く懲りない。

「うわっ」

 衝撃に後ろざまに倒れる凌統。しかしすぐに起き上がってまた向かっていく。その根性や見事、と喝采するは見ている者達。太刀筋と繰り出す速度を賞賛するは相対する太史慈。そして練武場の近くまで来ていたもう一人。

「まだま―――わあ!」

「ほら、これで十六回。ここが戦場だったらもう十六回死んでるぞ阿統」

 足元を掬って転がらせ喉元に先端を当てる。そろそろ諦めてもいいのに、凌統はなおそれを払いのけて構えた。太史慈は感心した様に笑いながら少し待つように手を真正面に伸ばす。

「阿統、今日はどんな理由で来たんだ?」

 問いかけると、凌統はなんてことを言うんだと言いたげな顔をした。

「何言ってるんですか将軍!仙星様のことですよ」

 急に白雪の戦乙女の名を出されて太史慈は首を傾げ、周りの将兵達は凌統の後ろに視線をやる。凌統はそれにも、その視線を浴びている人物が何か言おうとしたのにも気付いていない。

「仙星様の打ち身は将軍のせいなんでしょう!?ひどいですよ。いくら仙星様が怒ると鬼の様に怖くても化け物みたいに強くても狐狸妖怪みたいに知恵が働いても一応女性なんですか――――!!」

「阿統殿、ご遺言はその辺りでよろしいですか?」

 ポン、と優しく肩に置かれたはずの手からはかつて感じたことのない重圧感が寄越される。凌統はびくっと身体と顔を引きつらせた。周囲の温度が一気に冷えた気がする。固まった首を絡繰(からくり)の様に動かし背後にいる人物を恐る恐ると見上げた。そこにはいつもの優しい笑み。

だが……。

「め、めめめ、目が笑ってませんよ仙星様……?」

「あらそうですか?きっと目が疲れてるんですわ。それより今度は私とお稽古しましょうか」

「いや俺これから勉強が―――」

「遅れた分は私が教えて差し上げますわ。なんといっても狐狸妖怪並みですから」

 聞かれていた。勢いで言った言葉とはいえいたく怒らせてしまったらしい。先程絶対怒らせまいと心に誓ったのに、誓ってからさして経っていないというのに。

 かくなる上は―――。

「三十六計逃げるに如かずーー!!」

「あっ、待ちなさい!」

 ばっと仙星の腕を振り切って逃げ出す凌統。仙星はすぐにその後を追いかける。周りに人垣があるために凌統に逃げ場はない。将兵は下手に凌統に加担して仙星の怒りを買うことを恐れて一切の隙間をなくしていた。その中凌操は満足げに、練武場に取り残された太史慈は邪魔にならないように端に寄り面白がって笑っている。

「わーーっ、ごめんなさい仙星様ぁ!悪気はなかったんです!」

「分かってますよ。ええ、ええ。分かってますとも。でも女性に向かって言うことじゃありません!!」

 言い合いながら練武台を駆け回る仙星と凌統。先程はどこに行ったか分からずあちこち駆け回ったせいで息が切れたが、対象が見えている以上仙星の方に分がある。凌統がお仕置きされるのも時間の問題だ。

 その微笑ましい様子を眺め下ろしていた周瑜は思わず声に出して笑いを零してしまった。

 懐かしい。十年くらい前にも同じことをしている二人を見たことがある。あんな風に少女に追いかけられ、最後には勢いに勝てずにいつも負けていた親友の顔が思い浮かんだ。

 するとその横で、小さく息を吐いた気配がした。はたと隣を見れば、孫権の背中に視線がぶつかる。黙って歩き出した孫権に何も言わずただ頭を下げ見送る周瑜。

その横を、気を遣って下がっていてくれた周泰が簡易な一礼をして通り過ぎていった。

 周瑜はその二人の姿を見送り、小さく小さく、息を吐き出す。それは一瞬空気中で白く染まると、一瞬で見えなくなってしまった。







                             





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