戻る

                             



<江東恋歌>

                 8  

 凍るような空気に叩き起こされた孫権は、侍女が温めておいた衣を纏い眠る謝夫人を置いて部屋を出た。

階段を下る途中で周泰が後に付いたのに気付く。気だるげに挨拶する孫権に挨拶を返し、周泰は窓の外を示した。

何かと見て、孫権は軽く目を瞠る。

 世界が、純白に包まれている。

 すぐに外に出た孫権は、途端に体中の血が熱を帯びたのを感じた。外気は冷たく、未だ降る雪は身体を芯から冷やすというのに、それでもその姿を見た途端に全てを忘れてしまった。この熱は羞恥だろうか。それとも後悔?それとも――――。

 立ち止まってしまった孫権に、気付いたらしい彼女は笑いかけてくる。

「おはようございます仲謀様」

 何気ない一言が、嬉しくて悲しい。複雑な思いに巻かれながらも、それでも孫権は笑った。愛する君へと向け。

「おはよう仙星。早いのだな。まだ夜も明けてないぞ?」

 そう言いながら東の空を見るが、日はまだ差してはいない。仙星も東の空を見るが、孫権も起きているではないかと茶化すように笑う。その笑顔に一瞬覚えた違和感は長く続かなかった。吹いた風に煽られ突然濃くなった雪が仙星の姿を覆い隠すから。

 思わず伸ばした手が、冷え切った仙星の手を掴んだ。

 風がやんで白い壁が無くなる。と同時に、東の地平から朝日が差し込んできた。目映い朝日に照らし出され、はっきりとした仙星の眼差しを見つめ返す。

 自分はこの眼差しに恋をした。この優しさに恋をした。この温かな心に恋をした。この人に―――恋をした。

 けれどそれは言えないから。けれどその思いは告げられないから。愛の約束は、何一つ出来ないから。

だからこの約束をしよう。あなたが最も望んだ未来を。

 孫権は仙星の手を掴む力を強くする。真剣な面差しの彼に、仙星は静かに言葉を待った。

「仙星。今ここで、改めてお前に約束しよう。父や兄の志を継ぎ、必ずや天下に覇を唱えると。民に笑顔を与えると。だから、見守っていてくれ。お前のその目に、平穏が映るまで」

 それは果てない約束だ。もしかしたら自分の子供の代まで続くかもしれない。けれど、自分が彼女と交わせる約束はこれしかない。

 真摯に見つめ続けると、仙星が空いていた手でもう一方の手を掴んでいる孫権の手に触れてきた。心臓が跳ね上がったのは、同時によこされた優しい笑顔のせい。

「―――はい!私はずっとずっとあなたの傍で、あなたを支えますことをお誓い申し上げます。仲謀様」

 白き不香の花が舞い散る中、黎明の約束が交わされる。

それは『愛』の名の下には永遠に交わることのない二つの心が、お互いを見つめ続けるために交わした、悲しくも、優しい約束。

 江東の大地すら、白く染まる季節のことだった。







                             





風吹く宮(http://kazezukumiya.kagechiyo.net/)