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<江東恋歌>

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 婚礼のその日、孫権の居城では親族や臣下達に豪華な食事や酒が振舞われ、主公を祝うために楽の音が奏じられていた。

 やがて宴も終わりに近付いた頃、孫権は侍女に連れられ席を立つ。夫としての、また一国の主としての責を果たしに行くのだ。妻となった謝夫人は疾うに寝室に行っている。

 こちらです。ささやかな声で示された部屋の扉が開けられた。うっすらと漂う香の匂い。紗に遮られた寝台の上には、座る人影が一つ。

 孫権が部屋に入ると侍女は扉を閉め、その音を聞いた謝夫人がびくりと身体を跳ねさせる。

 近付き、紗を払って寝台を覗けば謝夫人が両膝をつき頭を垂れていた。何事か口上が述べられるが、孫権はそれを全て聞き流す。聞く気も起こらなかったのだ。

 言い終わったらしい謝夫人が面を上げると、孫権は彼女の肩を押して寝台に横たえる。しかし、傍らに灯った燭の光の下ですら赤くなっているのが分かるその様を見ても、孫権の心は騒がなかった。

あの人が相手ではただ触れるだけでさえ戸惑ったというのに、「女」として扱おうとしている彼女には寸分ほどの揺らぎさえ我が心から感じ取れない。

 孫権の目には、そこにいるのはただ子を生すための道具となる相手にしか、見えなかったのだ。

 こんなに冷たい、極端な男だと仙星が知ったらどう想うだろう。そんなことばかりが、頭に浮かんでいた。

     *     *     *

『おめでとうございます阿権さ―――仲謀様』

 笑顔で仙星はそう言った。誰よりも早く。頬を綻ばせて。孫権はそれに一瞬傷付いた表情をしたが、すぐにそれを押し隠し、微かに眉を寄せたままに笑い返し、その返礼をした。

 その様を脇から見ていた周瑜は、宴も果てる頃、孫権が退出してすぐに仙星に声をかけた。

我が家で昔話でも、と。

 周瑜の妻であり孫策の妻・大喬の妹である小喬(しょうきょう)は、夫に連れられ訪れてきた仙星を笑顔で迎える。そして、一室に通し、夫と二人きりにさせた。

 本来無関係の男女二人だけにすることは好まれない。しかし彼女は夫と仙星を信頼しているし、亡き孫策も含めた彼ら三人の男女の別を超えた友情を知っている。

そして何より、一人の男を愛する女の身として、小喬は彼女の心に気付いていた。それ故今がどれだけ辛いかも。

しかしその心の(おり)を取り除いてやれるのは今の所彼女の夫だけ。常に対等の友人であった彼だけが、彼女を慰める権利を有する。

だから今は夫に任せることにした。自分はその後、彼女に微笑んでやればいい。元気を出してくれと、言葉にはせずに、微笑んで差し上げればいいと、そう考えて。

「小喬様に、気を遣わせてしまいましたね……」

 静かに部屋を出て行ってしまった小喬の背を見送り、仙星は申し訳なさそうに呟いた。しかし周瑜は軽く笑ってそれを否定する。

「いや、あれはこれくらいなら気を遣っているわけではない。気にしないでくれ」

 そう言いながら周瑜が勧めた酒を杯で受けながら、仙星は笑った。自分を気にしてくれていて、同時に妻の美徳を聞かされるとは思っていなかった。

なんとなく、彼と亡き孫策が大喬と小喬を娶った時のことが思い出される。あの時は半ば強引に連れて来たも同然だったから焦ったものだ。

 小さく笑いを零して、仙星はふとそれを引っ込める。

「――――公瑾殿、少し、愚痴を聞いてくれますか?」

 杯に注がれた透明な酒を見つめて、訊くというより確認し、仙星は返事を待たずに口を開く。待たずとも彼の返答を分かっていたからだ。彼がどういうつもりで家に招いてくれたのか、そんなことも分からぬほど浅い付き合いではない。

「いっそ、この身の卑しさが憎く思えます」

 はっきりと、しかし寂しげに呟かれる言葉。吐息に杯の中で酒が震える。

「いっそ、あの方の高貴な血が疎く思えます」

 瞑目し一瞬沈黙して、仙星は一気に杯を仰いだ。空になった杯にすかさず周瑜が酒を注ぐ。仙星はそれを素直に受けた。

「もしも同じ立場だったのなら、私があの方に告げるのはたった一言なのに―――」

 それきり仙星は黙った。それでも今日の彼女はお喋りだと思う。ことこの想いに関しては、彼女は誰にも口にはしなかった。鉄の自制心を持つ彼女がこれだけ口にするだけでも、その辛さが伺われる。

 周瑜は己も杯を傾け、手酌でまた酒を注いだ。

 口元に持ってきたそれを見つめ、周瑜は暗然たる思いに囚われた。本当は彼女にこんな風にしてやる資格は自分にはないのだ。自分は孫権が余計逃げられなくなるのを知って「愛情を大事にしろ」と言ったのだ。この二人の道をそうして閉ざしたのだ。それなのに平気な顔で同情して見せる。己の性格の悪さに吐き気がした。

しかしそれを顔にも口にも態度にも出せない。自分は、呉を支える臣下だから。自分は、感情的になってはいけないのだ。親友(とも)との約束を守るためにも。

 一口仰ごうとして、周瑜はふと先の仙星の笑顔を思い出し、次いで一瞬で消えてしまった孫権の傷付いた表情を思い出した。あんなにもすれ違っている二人を見ると感情的になるなと言い聞かせた心にも痛いものがある。

 しかしそのすれ違いの原因を周瑜は分かっていた。その場面にのみ焦点を当てるなら、仙星の言葉に心が麻痺した孫権が気付かなかったことだ。彼女の笑みが、真に喜んでいる時のそれと外れていたことに。彼女が全てを押し隠した時のそれと酷似していたことに。彼は、気付かなかった。

 ぐっと杯を傾ける。偶然同時に杯をあけた仙星と目が合う。どちらからといわずお互いの杯を満たしあっていると、不意に仙星が口を開いた。

「公瑾殿。後悔は、しなくていいです。あなたが孫呉を思ってしたことなのですから」

 ぴたりと酒を注ぐ手が止まる。少し視線をずらすと、仙星の射抜くような眼差しと交わった。

 見抜かれていた。そう理解すると、情けなさが浮かぶよりも何故か安堵を感じてしまう。自らの女性としての問題であるというのになお冷静な言葉を紡ぐ仙星に、ひどくほっとした。彼女は信頼出来ると、改めて感じている自分に周瑜は苦笑する。

「私も伯符も、君の強さに甘えてばかりだな」

 そう言って杯を差し出す。意を汲んだ仙星もまたそれに己の杯を寄せた。

 小さくそれらがぶつかると、澄んだ音が沈黙の中に響いて刻まれる。







                             





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