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<江東恋歌>

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 仙星は自室の窓際で冷えた空気に触れながら外を眺めていた。室内には明かりひとつ灯ってはおらず、ただ満月と星の光だけが彼女を照らしている。

「……三撃」

 ずっと黙っていた仙星の口から突然言葉が零れた。それは先程から頭の中で行っていた亡き孫策との試合で彼女が完全に捌き切れなかった彼の攻撃の回数。そして彼女が彼に完全に入れることが出来た攻撃の回数でもある。他は全部相打ちだった。確か最後に手を合わせた時は自分の方が二撃程多かったはずだと思い出し、ふっと優しい笑みを零す。だがすぐにそれは内に引っ込んだ。代わりに、やるせない表情が浮かぶ。

 気分が晴れない時は、孫策が懐かしくなる。彼とはほぼ毎日打ち合って過ごしてきたから彼が死んでから相手がいなくて習慣が崩れてしまったのだ。それでも一年。ようやく彼がいない生活に慣れてきた。だが、こんな風な夜は誰かと手を合わせたい。実力伯仲、または自分より強い相手がいい。余計なことを考える暇を与えてくれないぐらい戦うことに熱中させてくれる人と、戦いたい。

「――――伯符様と、手合わせしたい……」

 決して叶うことのない望み。窓枠に突っ伏して呟いた言葉は虚しさを募らせるだけだった。

 しばらくして、そのまま夜の冷たい風に身を晒していた仙星の耳に侍女の声が届く。答えれば伝言だと言われた。それだけなら驚くことはなかったが、それが呼び出しであること、そしてその呼び出し主に仙星は驚くこととなる。珍しい。そう思いながら、仙星は呼び出された場所へそそくさと出かけた。

 満月の照った夜道は手燭など必要ないほど明るい。夜目が利くことも助け仙星はそれを使わずに歩いていた。呼び出し主の男性と、二人で並び立って。

「いきなり呼び出してすまなかったな」

 仙星よりずっと背の高い男は真実言葉通り申し訳なさそうに謝ってきた。仙星はその彼に笑んで首を振る。

「お気になさらないでください()()殿。ちょうど暇をしていましたから」

 柔らかい微笑に、男も笑い返す。

 この男は太史慈(たいしじ)、字を子義という。孫策の元に降る前に彼と壮絶な一騎打ちを演じた猛将だ。といっても、普段の彼は礼儀をわきまえた好男児である。

「今夜はどうも寝付けなくてな。……どうだ?」

 言葉と共に親指で示された場所を見て、仙星はあらと驚いた声を上げた。裏手から入ったから今の今までここがどこか分からなかったが、ここは練武場だ。しかもここは―――ここは、孫策とよく手を合わせた場所だ。

「子義―――」

「やるか?やらないか?」

 決断を迫る声は強く。普段の彼ではなく戦場に立つ時の彼に非常に近い目をしていることが分かった。正直まだ彼の真意は分からない。だが、折角の気を晴らす機会。存分に相手をさせてもらおう。なんと言っても彼は孫策と同等の武将。自分とも、ほぼ同等な相手だ。天が与えたもうたこの好機。生かさずにしてどうしよう。

 仙星は不敵に笑う。それが答え。二人は練武場の上に上がり、その奥にある稽古用武器の置き場所からお互いに一本ずつ、先に丸く布を当てた棒を取ってきた。

 そして、練武上の中心で、物言わず相対する。

 沈黙は一瞬。先んじたのは太史慈だった。

 棒が真正面に突き出される。仙星は身体を傾けそれをギリギリで避けると、開いた懐に向けて下から棒を突き上げた。しかし太史慈は左手でそれを掴むと強引に捻り上げる。手から棒が捩じり取られそうになったが、仙星はむしろ地面を蹴りその回転を利用した。棒を軸に風車の様に縦に回転して太史慈の顎に蹴りを入れようとする。だがそれは掠めるだけで留められてしまった。危険と察した太史慈が大きく後ろに飛び退いたからだ。

 空を切った足を大きく伸ばし無事地面に着地した仙星はその瞬間に棒を大きく横に薙いだ。近付こうとしていた太史慈はその攻撃に強制的に足を止められてしまう。その隙に仙星は連続して突きを繰り出した。足を地面に縫い付けられた様な状態で応戦する太史慈。しかし仙星のその正確無比な攻撃に次第に応対が追いつかなくなる。これは何とかしなくてはとやや強引に棒を絡め取り、空に跳ね上げた。

「もらったっっ!!」

 大きく棒を振り上げ、太史慈は間髪入れずにそれを仙星に向かって振り下ろす。肩口を捕らえたそれに太史慈は勝ちを確信した。だが、それは当たる者なく地面に叩きつけてしまった衝撃によって破られる。驚愕する太史慈の太い腕を二つの細い手が掴んだ。しかしそれは押さえつけるためではない。一瞬の、支えとするため。次の瞬間、細い身体が前転したと思うと右の肩を蹴られる。それが彼女が空に飛んだ反動だと前方にたたらを踏んだ太史慈が気付いたのは、空を振り仰いだ時だった。

月を遮った白い花の姿が双眸を埋める。

その手には跳ね上げたはずの棒がしっかりと握られていた。まずいと、思った時にはすでに遅い。仙星の落下の速度を加えた一撃は防御に回した太史慈の棒を叩き割り、そのまま太史慈の胸を打ちつける。思ったより衝撃がなかったのは仙星の棒も太史慈の厚い胸に当たった瞬間に折れていたからだ。二人の攻防に武器がついていけなかったための決着となった。

 折れてしまった棒を見ながら、仙星は込み上げる物足りなさを追い払う。短い時間とはいえ願い通りそれ以外考えられないほど真剣になれたのだ。満足しなければ。

 無理やり自己完結した。するとその前で、太史慈がいきなりゴロンと仰向けに転がる。今にも大声で笑い出しそうな満足そうな顔。それを見ると少し心が軽くなった。孫策も、こんな風に笑う人だった。

 ふっと相好を崩した仙星を首元に浮かんだ汗を拭いながら見上げ太史慈はほっとする。どうも連れ出した時は元気がなかったが、少しは元気になったらしい。これで周瑜に言われたことは果たせただろう。いきなり伝言―――と言うより伝令が来た時には驚いたものだ。周瑜の達筆な手跡で一言。

『仙星と手合わせをしろ』

 これに『亡き先代はよくそれで気を晴らしていた』と備えられていなかったら一体何なのか本気で分からなかった。だがその一言のおかげでとりあえず仙星の気を晴らせと言われたのだけは分かったので実行して、現在に至る。思いがけず、ではないが自分も楽しめたので文句はない。

 久し振りに孫策と手合わせした時のことが思い出される。あの時ほど白熱したことはない。さすがに仙星とあそこまで激しく拳を交えることは出来ないが、この手強い感じ。これだけは孫策と仙星、そのどちらも変わらない。焔の様な激しい武将であることと水の様な静かな武将であることの差はあるものの、この二人は間違いなく戦いの天才だ。

今では太史慈は素直にそれを認められる。

呉に来る前の、孫策と仙星の手合わせを見る前の自分であったならば『女』というだけで仙星を軽んじていただろう。その力を認めず意固地になっていただろう。だが今はその考えこそ馬鹿らしく思えた。馬鹿馬鹿しいと思えるほど、この二人の武技は抜きん出ている。

「子義殿。もう、終わりにします?」

 躊躇(ためら)いながら尋ねつつ、仙星は太史慈の胸の上の木屑を払った。

「仙星殿はどうしたい?まだやるなら付き合うぞ」

 そのさり気ない気遣いに感謝を込めて笑いかける。折角なので自分はまだやりたいが、今日は仙星の意志を尊重するつもりだ。仙星は少し考えてから、太史慈の片手を両手で掴んで引き起こした。

「お願いします。まだ寝れそうにありませんわ」

 これだけの猛者でありながら所作の女性らしさと笑みの優しさを忘れない女性に素直に感嘆して、太史慈はその珍しいわがままに付き合うことにした。

 空気は切り裂かれそうなほど冷たく澄んでいたが、その夜剣戟の交わる音が絶えたのは翌日になるその直前であったという。







                             





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