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<江東恋歌>

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孫権は背の低い立木の太い枝の上で幹に身体を預けて座っていた。周泰は命じていくらか下がった所にいさせている。寒空の下一人でぼんやりとしていると昔のことが思い出された。

 それでもそれはあの人の―――仙星のこと。

 仙星が呉の国に来たのは十二年前。まだ父が健在だった頃のことだ。地方の反乱を収めるべく兵を出した父は、帰って来る時に良き戦果と彼女を得て帰ってきた。

孫権が知ったのはずっと後であったが、仙星もまた、乱世に運命を翻弄された一人なのだ。一族の在った里を賊に襲われ、帰る場所を無くし彷徨っていた所を父が見つけ保護したと聞いている。

 当時十三歳だった彼女は兄・孫策の練武の相手として連れてこられたが、二年後、十五歳になった彼女は兄と共に初陣を迎えた。彼女の天賦の才を見込んでの英断だと将達は父を称え彼女を受け入れたという。実力主義の彼らに認められたというだけで彼女の力量を疑う者は少なかったそうだ。

 そのことだけでも十分なことだというのに、彼女の名を更に広めさせる原因となったのは、彼女が「白雪の戦乙女」と通り名を与えられた理由による。

 その、純白の具足だ。

 本来白とは死者の色。葬儀の時にだけ着用する。縁起が悪いと何度言われても、それを仙星は自らの誇りとして使用し続けていた。

 結果、「白雪の戦乙女」は死を運ぶ冥府の使者として敵に恐れられ、逆に死を退ける天帝の命を受けた者と味方に慕われている。

 その彼女を孫権は誇らしく、同じくらい悲しく思っていた。あの優しい人がその手を、その身を、血で染めることの意味も分からぬほど、孫権は子供でも暗愚でもない。いっそ兄のように武で交じれたならば、もっと分かってやれたのにと、そう思うと悔しさがこみ上げる。

 ぼんやりと白い息を吐き出した。すると、下の方から何やら音がする。そして、少し身体を傾けて見下ろした先に、孫権は白い花を見た。

「仲謀様」

 ほっとしたような声の呼びかけはこちらを見上げて柔らかい微笑を向けてくれる仙星から。

「仙星―――?いつ……それに何故ここが?」

 戸惑い尋ねると、仙星はあらと笑みを深める。

「阿権様は昔から考え事をなさる時いつもここにいらっしゃいますから。ちゃんと仙星は見ているんですよ」

 その優しい笑顔に、胸が締め付けられた。

 この笑顔が愛おしくて仕方ない。

 一つ一つの所作が、差し伸べてくれる手の暖かさが。

ずっとずっと、愛おしかった。

 不意に周瑜の言葉が頭に浮かび上がる。

『愛情は大事になさいませ』

 ―――いいのではないか―――?

 あの周瑜がそう言ったのだ。あの深謀遠慮の周瑜が、それでいいと言ってくれたのだ。そうだ。きっと張昭も仙星ならば文句は言わない。いざという時はきっと周瑜も味方してくれる。それなら怖いことはない。

 この思いの行き着く場所に、手が届く―――。

「あっ。ちゅ、仲謀様ゆっくり降りて来てください!小さい頃そこで落ちたことが―――」

「え?」

 間抜けた声を出してしまったと、後悔する時間もない。降りようとしていた孫権は忠告された次の瞬間に足をもつれさせてしまう。気が急いていたせいもある。早くこのことを言いたい、と。

 しかしこの醜態を晒した後でそんなことを言っていいものか。体裁を考えながら、孫権は息を吐き、落下の際に咄嗟に閉じた瞼をそのままに突っ張っていた腕の力を抜いて地面にうつ伏せた。

「仲謀様大丈夫ですか?お怪我は?」

 気遣わしげな問いかけに孫権は恥ずかしさを覚えながら大丈夫だと答えようとして―――止まる。なんだか妙に声が耳に近い気がする。そもそも冬の地面が何故こんなに暖かいのだろう。それに、妙に柔らかい―――?

 恐る恐る、孫権は瞼を押し上げてちらと声のした方に顔を向けた。そして後悔する。何より落下した自分に。

「どこか痛みますの?!」

 沈黙を負傷の意味と勘違いした仙星の焦り顔は、自分の顔の真横。落下した時に受け止めてくれたらしい彼女をそのまま下敷きにし、挙句その首元に顔を埋めていたのだと気付き孫権は慌てて身体を起こす。

「す、すまないっ! 大丈夫だっっ!!」

「! 仲謀様、お風邪でも召されましたか?お顔が赤いですよ」

 それは赤くもなるだろう。最近は触れることさえ躊躇う相手なのに、不可抗力とはいえこんな―――。

間近に見た可憐な顔を、香ってきた彼女の香りを、全身で感じてしまった肢体の柔らかさを思い出し、孫権は一層赤くなった。顔を隠すように腕を口元に当てる。

 かつてないほど激しく震える心臓の音が彼女に届かないことだけを祈った。

 その彼の額に手を伸ばそうとしていた仙星は少し上げただけでそれを引っ込める。今は払いのけられそう。そう判断して。代わりに仙星はじっと孫権のこちらを見ない双眸を見つめた。

 海の様に深く、空の様に澄んだ蒼。

 それは孫堅の子供達の中でただ一人彼だけが持つ形質。彼が碧眼児と呼ばれる所以。孫堅は人物相を見る人物が高評価した息子に現れたこの特異な色彩を喜んだという。

 彼は蒼の目を持つ。そして、紫がかった髪を持つ。

 紫とは古来より天子のみに許された色。孫権は生来より天からその色を下賜されたのだ。彼こそ天下に覇を唱える人物と天命を授けられたに違いない。

 だから――――。

「仲謀様」

 呼びかけ、仙星はさっと孫権の空いた手を両手で握り締める。慌てかけた孫権を、仙星の射抜くような真っ直ぐな瞳が縫いとめた。

「私は、我が武を以って最期まであなたをお守りします。ですからどうか、天下をお()りください」

 必ず守り抜こう。亡き孫堅・孫策の高き遺志を継ぐこの方を。民草に、平穏な日々をもたらしてくれるだろうこの方を。

 ――――その為なら、私は――――。

 強く握り締めた孫権の手に額を当てる形で俯いた仙星は、その時の孫権の泣きそうな微笑を見ることは出来なかった。

 冷たい風が、吹き抜ける。







                             





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