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<江東恋歌>

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 冬の日差しとはいえ昼の明るいそれは寝不足の目には大層()みる。仙星は長く伸びた自分の影を見下ろして目を擦った。

「結局遅くまで付き合わせてしまったけど……子義殿大丈夫でしょうか……ふぁ……」

 欠伸が零れる。睡眠時間は恐らく約一時と半時(約三時間。一時は約二時間で半時は約一時間)程。戦の最中なら気が昂ぶっているのであまり気にしないが通常職務の日はきつい。雑務だけの自分がこれでは警備の太史慈はもっと辛いことだろう。付き合わせてしまったことを申し訳なく思いながらももう一度小さく欠伸をしてしまった。はしたないとは思ったがここは建物の死角だし木々に囲まれているから大丈夫だろうと高をくくる。ここはよく仕事を休憩する時に利用するが、一部例外を除けば誰も来ない。そう――――。

「あれ、珍しいですね仙星様が欠伸なんて」

 ―――一部例外を除けば。

 仙星は驚いた声を出しながらひょっこり茂みから出てきた少年の指摘に口元を覆った。今更遅いが全く何もしないよりは気が救われる。

「へへ、なんか得した気分だな」

 少年は年相応の明るい笑顔を示し仙星に近付いてきた。仙星は困ったように少年に笑い返す。

()(とう)殿。また忍び込んできたんですか?お父上に怒られますよ?」

 父、と言われて少年はうっと詰まるが、すぐになんてことのないように笑った。その強がりな所に、仙星は懐かしさを伴った愛おしさを感じる。

 彼は(りょう)(とう)。呉の将が一人・(りょう)(そう)の息子だ。今年で十二となる少年はやんちゃ盛りで、仙星がいくら注意しても何度も何度もこの城内に忍び込み遊びに来る。その彼の主な目的は恐らく兵達の練武を見ること。それと、歳が近いため幼馴染同然の呉の姫―――孫権の妹・(そん)尚香(しょうこう)と会うことだろうと仙星は踏んでいる。本来は主公の妹君と臣下の子息が対面することなど有り得ないのだが、孫尚香は孫家の血を濃く引いており、御歳九つの少女でありながら自ら武技の鍛錬に励んでいる。凌統が彼女に会ったのもその最中のことだったと聞いた。

 しかしそんな風に考えている仙星は、彼らが顔を付き合わせる度に喧嘩している本当の理由、そして少年が自分に向けている眼差しの意味を知らない。

「あら、怒られるのが怖くなくてもお勉強はしなくちゃいけませんわよ?」

 視線を合わせるためにしゃがみこんだ仙星の優しい窘めに、凌統は怯んで小さくなる。

「凌操殿がお嘆きでしたよ?「(せがれ)がまっったく勉強をせん!」って」

「そ、そんなに強調しなくても……!」

 しかもこの人に言わなくたっていいじゃないか。凌統は内心で父に向かって「ひどい」と叫んだ。

 拗ねた顔をする凌統に、仙星はまた懐かしさを感じて覚えず頬を緩めた。

「阿統殿は伯符様にそっくりですわ。伯符さまもお勉強が嫌いでいつも逃げてばっかりでしたから。追いかけるのに苦労しましたわ」

 クスクスと口元に手を当て可憐に笑う仙星に、凌統は興味を持って訊ねた。

「それって先代様のことですよね。そういう時はどうなさってたんですか?」

「あまりにも逃げ回る時は縛り上げてお勉強の先生のところに放り込みました」

 あっさりと柔らかい声での返答に凌統は笑顔のまま固まる。そして、顔の裏で滝の様な汗を流した。そうだ。楚々とした立ち居振る舞いについ忘れがちだが彼女は父よりも強い猛将なのだ。実力行使で出来る範囲は並の女性の軽く五十倍はあるだろう。絶対彼女は怒らせまい。凌統は幼心ながら頭にそれを深く刻み付けた。

「まあそれはさておき、お勉強は大切ですよ阿統殿。立派な武人になるのでしょう?」

 優しい問いかけ。凌統は考えるより早くに頷いた。

その眼差しの強さに、仙星は柔らかく笑いかける。

このひたむきで真っ直ぐな覚悟。彼と共に戦場に立つ日が今から楽しみでならない。

 遙か未来を見つめていると、突然凌統が大きな声を上げた。何事かと驚く仙星の腕を、凌統は指差す。

「そこ。青くなってる。どうなさったんですか?」

 指差された場所を見れば左腕が青くなっている。そこは確か昨夜太史慈と手合わせした時に打たれた場所だ。痛いなとは思っていたのに気付かなかった自分の鈍感さにいっそ呆れてしまう。

「実は昨夜子義殿……太史慈将軍と―――」

「太史慈将軍!?ひどい、女性に手を上げたんですか?許せない。よし、待っててください仙星様!俺が仇討ってきますね!!

「ええ?あっ、ちょっと待ってください阿統殿!」

 言うなり駆け出した凌統を仙星は慌てて追いかける。違うと言っている声も熱くなっている少年の耳には届いていないらしい。全く、猛将・太史慈に向かっていこうとする彼のこの剛胆な所は魅力的だが短絡的過ぎだ。

いつかこの性格が災いしないか案じながら、とりあえず目先の危機を避けるために仙星は足の速い凌統を全力で追いかけた。







                             





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