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<江東恋歌>

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 西暦二百年。小覇王(しょうはおう)孫策を亡くした江東の国・呉は、孫家の若き次男孫権、字を仲謀を新たな主とした。

孫権は若干十八歳でその一身に一国の命運と一族の誇り、そして多くの臣下達の命を背負うこととなる。

 だが、一年経った西暦二百一年現在、呉は孫権の元に順調に回り始めている。無論文武の臣下達の助けがあってこそであり、彼もそのことを忘れてはいない。

 そしてその徐々に安定しつつある状況の中、あるひとつの提案が評定の中に浮かび上がった。

「妻を(めと)れ?」

 突然の提案に思わず鸚鵡(おうむ)返しをしてしまうと、提案主の(ちょう)(しょう)・字を()()は頭を下げたままはいと答える。

主公(との)も御歳十九。妻を取ってもおかしくは無い御歳でございましょう」

 きっぱりとした態度の重臣に孫権は少々戸惑いながら反論した。

「しかし国はまだこれから―――」

「だからでございます」

 孫権の言葉を半ばで遮り張昭は顔を上げ、真っ向からその目を臨んでくる。その迫力のあること。年を感じさせぬと言うべきか年の功と言うべきか。孫権はこの男を頼りにしていたが同時に苦手でもあった。

「だからこそ、より強固な礎が必要なのです」

 言葉少なに告げられた張昭の真意を、孫権はきちんと汲み取ってしまった。彼はつまり、有力な豪族の娘を妻に取り(よしみ)を結べと言っているのだ。確かにすぐ近くにいる力は、剣戟を交えるよりも懐に囲んだ方が利口と言うものだろう。それに、後継者も残さねばならない。これは国の主の当然の義務であり責任である。それは孫権とて例外ではない。政略結婚にしても、為政者の婚姻はそう在るべきであると幼い頃から言われてきた。そのため孫権もそれが当然だと思っている。

 ―――否。思って、いた。

 孫権はちらりと立ち並ぶ臣下の列の、武官が並んでいる側に眼球だけを動かして視線を向ける。眼差しの先にいるのは、本当ならもっと上座にいてもいいのに自ら中位辺りにいる仙星。こちらの視線には気付いていないらしく目は合わない。もっとも、合ったところで何か出来るというわけでもないが。

 数瞬だけその姿を見つめ、孫権は深く瞑目した。

 馬鹿馬鹿しい。自分は何を期待しているのか。そう内心で自分を嘲笑し、瞼を押し上げる。

「その件はしばらく待ってくれ。近日中に答えは出す」

 孫権がそれだけ言うと、張昭は主をじっと見て、それから恭しく頭を下げた。それを最後にその日の評定は終わる。最初に場を辞した孫権は、通路を歩きながら小さく苦笑した。どうにもあの切れる重臣には全て見透かされている気がしてしまい、苦笑をこらえられない。

「主公」

 後ろから声をかけられる。と同時に後ろから引っ張られた。引っ張った太い腕の持ち主の胸に頭が当たる。さて一体何事かと目をぱちくりさせた孫権の視界に最初に入ったのは間近に迫った柱だった。どうやらぼんやりしすぎて柱に激突しそうになっていたらしい。

「すまない(よう)(へい)

 顎を反らし危機一髪で自分を救ってくれた護衛隊長に礼を述べる。それに、男は軽く頭を振った。

 彼は(しゅう)(たい)。字を幼平といい、孫策存命の頃より孫権の護衛隊長を勤める男だ。過去、孫権が守備する城を襲ってきた賊から、全身に十二の傷を負いながらも彼を守り抜いたという功績は輝かしい。

「評定の間から出て来てから放心しておいででしたが、どうしました?」

 孫権をしっかりと立たせてから放し、尋ねる周泰。心配しているのが高い所にある双眸から伝わってくる。孫権はそれに苦笑を返した。

 言える訳が無い。

 国を栄えさせる利があることが前提の国主の婚姻に疑問を持ってしまっているなど。

 彼女を想う度全てを捨ててしまいたくなるなど。

 親愛以上の感情を抱いているなど。

 言える訳が無い。

 孫権は小さく息を吐いて、高く澄んだ空を見上げた。季節は冬。江東の大地にも、もうすぐ雪が降る。

     *     *     *

 同日の夜、孫権の参謀(さんぼう)()(しゅく)・字を()(けい)という男は、呉の国で最も国主一族に近しい男の元を訪ねていた。

「子布殿も酷な事をなさる。そう思わんか?公瑾(こうきん)殿」

 差し出された酒を杯に受けながら尋ねると、机を挟んで真正面に座る美丈夫は曖昧な笑みを浮かべる。彼は周瑜(しゅうゆ)。字を公瑾(こうきん)。孫策の義兄弟であり前部(ぜんぶ)大都督(だいととく)(前線総司令官)である呉の若き重臣だ。物腰の雅やかさと容貌の端麗さより美周郎(びしゅうろう)(美しい周家の若様)とも呼ばれている。ちなみに、仙星とも幼馴染である。

「確かに、人としては情が足りぬでしょう。ですが臣下としてはあれで当然なのですよ子敬殿」

 周瑜はそう言って杯の酒に口をつけた。人情論を説いてはいるものの、魯粛も国主の在り方など分かっているはずだ。ただ彼は優しい男だから。まだ若き主公を哀れに思ってしまうのだろう。もちろん周瑜もそう感じないわけではない。孫権は彼の義兄の弟であり、彼にとってもまた弟の様な存在だったのだから。そう思えるほどに、近くにいたのだから。―――だから、彼の心にも、恐らく彼自身より早くに気付いていたと思う。そして気付いているからこそ、余計哀れでならない。

「誰も彼もが君主に甘い顔をしていたら国として成り立たない。まして子布殿は内々のことを伯符―――先代殿に託されているのですから。余計でしょう」

 それでも、それを表に出してはいけない。自分もまた、国のことを亡き義兄に――親友に、託されているのだから。自分もまた、彼を甘やかしてはいけないのだ。

「まったく、公瑾殿もまた冷たくいられるものだ」

 小さく息を吐いて、しかし当然の事を聞いたというような顔で、魯粛は杯の酒をちびりと飲んだ。やはり彼も分かってはいるらしい。ただ心が痛むのだろう。

 それからしばし沈黙が落ちる。

 すると、周瑜が何か思い出したように侍女を呼んだ。魯粛が何事かを見ている内に、彼は持ってこさせた竹簡に見事に迷いない手跡()で何事かを書き始める。詩でも詠ずるのかと思っていたのだが、書き終わったそれを周瑜は侍女に渡した。とある人物の名を上げ、彼に、と。

「いきなり何を……?」

 不可思議そうに尋ねると、周瑜は曖昧に笑って酒を仰いだ。それでも何か言うと確信して答えを待ってみると、予想通り、周瑜は静かに口を開く。

「何、我等ではどうにも出来ぬことをやってもらうだけですよ。こういう時の彼女(・・・・・・・・)の相手は、あれ(・・)に一番よく似ている彼がやるべきだと思いましてね」

 要領を得ない答え。魯粛は首を傾げたが、周瑜の横顔を見て言葉を飲み込んだ。ひどく懐かしそうな顔をしていたので、口出しするのが(はばか)られたのだ。

 そのまままた沈黙になるかと思われた空気は、周瑜の明るい声で払拭される。

「そうだ、例の貴殿のお気に入りという青年のことを教えてはくれまいか?以前は少し聞いただけでとまってしまったからな」

 明るい笑顔を向けられ、魯粛はそれが話のすり替えだと分かりながらも敢えて乗ることとした。

「ああ、伯真(はくしん)のことですな。あれは姓名を呂秀(りょしゅう)といいまして―――」

 そして、魯粛は旧友の息子であり若き旧友でもある青年のことを話し始める。

 窓の外では、白い月が皓々と光を放っていた。







                             





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