流れる音楽は
風の如く
水の如く
炎の如く
緩やかな江を映し
そびえ立つ泰山を映す
なれどその真実の姿を知る者はない――――。
時は西暦二百五年。舞台は古代中国江東の国呉国。
その日都柴(さい)桑(そう)の外れで、小さな出会いがあった。
呂(りょ)秀(しゅう)、字を伯真(はくしん)という男は、幼い頃に母を、数年前に官吏であった父を亡くし、今は喧騒を離れた町外れで一人暮らしていた。呉公孫権(そんけん)の参謀魯(ろ)粛(しゅく)より直々に傘下に加わらぬかと誘いを受ける程の才人だ。しかし彼は病弱を理由にそれを拒否。しがな一日音を奏でる気楽な生活を送っていた。
そしてその日もまた、呂秀は楽器の弦を爪弾いていた。
* * *
春の柔らかな風を開け放した窓から引き込みながら、呂秀は椅子に座り胡弓(弦楽器)を弾いていた。奏でられる音楽は美しく、しかしどこか冷たく世に放たれていく。
父の蓄財のおかげで生活の心配をすることもなく、気の向くままに音を紡ぐ。それが彼の一日(普通)であった。
その日も当然何事もなく時間だけが静かに過ぎる――――はずだった。
「よい音だな」
日常が壊されたのは活気の溢れる声によって。呂秀は微かに眉をひそめて視線だけをその声のした方へと向けた。視界に入るのは汚れた旅装を身に着けた一人の若い男。年の頃は二十四・五歳、恐らく自分と同じ程の年であろう。無遠慮に窓から身を乗り出し笑っている男を目の隅で不快そうに睨みながら呂秀はそんな推定をした。
「なんだ? 口が利けないのか?」
嫌味が微塵にも見えない男の言葉に、呂秀は呆れた顔をする。
いきなり見知らぬ人物が勝手に家に顔を出して、挙句声をかけられたら誰でもしばしの逡巡はするものだろう。この男はそんなことにも頭が回らないのか、と。
「――無礼極まりない男だな。勝手に人の家を覗くなど、どこの田舎者だ?」
楽器を傍らの机の上に置き、呂秀ははじめて男にちゃんと顔を向けた。整ったとは言い難いが、目鼻立ちがすっきりとしていて男らしい顔立ちで、体躯はがっしりとしている。どこか女性じみた細身の呂秀とは正反対の容姿だ。恐らく内面も違うだろうというのはその喋り方でなんとなく予想が付く。
剣呑な視線を向ける呂秀に、しかし男は快活に笑った。
「越との境にある小さな村から来た田舎者だ。すまんな、今日来たばかりだから都の礼儀にはまだ慣れてないんだ」
あっさりと笑って田舎者を肯定する男に、呂秀は少々疲れた顔をする。どうにも自分とは合わない人種だと感覚的に判断したのだ。すぐに追い出そうと窓に近付き戸を閉めようとする。が、この男何を勘違いしたのか、呂秀が話をするために来てくれたのだと思ったらしく顔を輝かせて矢継ぎ早に話し出した。
改めて、今日――というか今ここに着いたばかりだと。
ここへは兵士になるために来たのだと。
村に残る家族のため、自らが成り上がるために、と。
確かに乱世深まるこのご時勢。兵士になって上へ上がっていくのが最も手早い道であることだろう。無論、死という危険も当然民である時以上になるが。
そんな身の上話を水が流れる様に続ける男に、呂秀は頭が痛くなっていた。とにかく押しの強いこと。口を挟む暇すらない。しかもこちらが聞いているかいないかも気にしていない節がある。恐らく長らく一人旅をして来たので言葉が溜まってしまっていたのだろう。しかしそう判断しても、呂秀は素直に聞いてやろうとは思えなかった。そもそも見ず知らずの人物の身の上話や愚痴や志を聞いてやらねばならない理由も義理もない。
最後に実力行使と窓に伸ばしたその手が戸の端に着いた時、男はそう言えばと話題を変える。
「どうして春に冬景色を奏でていたんだ?」
覆い隠さない言葉が振ってきた。頭一つ分高い所から見下ろしてくる男を見上げた呂秀は、久々に物事に驚くことになる。
先ほど奏でていたのは、確かに冬の曲。この江東の地にすら雪が降る極寒の時期を表現していた。それは普通春に奏でられることはない。なぜならそれは譜のない呂秀の即興曲であったから。そして即興とは通常眼前のモノを見ることではじめて奏でることが可能となるもの。すなわち、これは呂秀が自分の好きな時に好きな曲を弾くという性分をしていたからであって、この暖かな季節に冬の曲を弾くなど他にあるはずがない。つまり今弾いていた曲を『冬だ』と判断する方法は聞き分けるしかないのだ。この無骨な男がそれを為したことに、呂秀は驚いていた。だがそんなことはおくびにも出さず呂秀は憮然と男を見上げる。
「――弾きたいと思ったからだ。お前には関係ない」
「そりゃそうか、だが確かに良い音だったぞ」
冷たく突き放し怒らせてでも帰らせようとしたというのに、男はそれでも難なく受け流してしまう。ここまで来るとおおらかというより単純、もしくは抜けてるとしか言えない。褒められたというのに不快感が溜まるのは何故なのか。そう考える呂秀が自分にない素直さに当てられたからだと気付くのはそれからずっと後の話だ。
「俺は周考(しゅうこう)、字を俊応(しゅんおう)という。お前は?」
男――周考は快活な笑顔で聞いてもいないのに名乗ってきた。
ここで返答しなければこの二人も今日限りの付き合いであっただろう。しかし、何の気の迷いか、はたまた本能的な反射か、呂秀は憮然として名乗ってしまったのだ。
「呂秀、字を伯真」
その日、柳絮(りゅうじょ)(柳の綿)の乱舞の中、江東に一つの友情が始まった。
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