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<知音>

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 柴桑に移住し呉の兵となった周考が暇を見付ける度に呂秀を訪れるようになって三年。はじめは相手にすらしなかった呂秀だったが、他の誰もが解し得なかった自らが奏でる音の表すものを寸分違わず当ててくる彼に、次第に会話を交わすようになっていった。生来より口数が少なく言葉を発しても冷たいものになってしまう呂秀にとっては、単純と言えるほどおおらかな周考は適した友人であったと言えよう。

 そして二人の友情の在り方が多少変化したように、世もまた少しずつ動き始めていた。それまで国内の政に目を向けていた呉主孫権が、ついに外に目を向け始めたのだ。時を待ち続け、そして立ち上がった虎の最初の獲物は、長江の上流にある()(こう)の地。その地の太守である黄祖(こうそ)なる男であった。この男は、孫権の父孫堅(そんけん)を殺した仇、つまり国仇である。

『呉が天下に名乗りを上げるにはまずこの地を落とし黄祖を討たぬことには始まりませぬ』

そう孫権に進言したのは彼の兄・(そん)(さく)の義弟であり美周郎(びしゅうろう)ともて(はや)される周瑜(しゅうゆ)という男だった。孫権はそれに従い、夏口を攻めることを決意。近々出陣だという話が国中に広まっている。

「孫健公も必死であろうよ。何せ父君(そん)(けん)公の仇討ちであらせられるのだから」

 茶を音も控えめに啜りながらの呂秀の言葉に、こちらは豪快に音を立てて茶を啜り周考は感心したように頷いた。

田舎に引っ込んで学や世情に全く興味を示さずに農作と武芸に勤しんでいたゆえにその辺りのことは何も知らなかった。なので友人に説明を頼んだところ分かりやすく教えてくれた。

感心はそこからだ。

「てことは黄祖めを討てば大した手柄だな。これは気を抜けん」

 やる気を燃やしてぐっと両拳を握り締める周考。それを傍目に、呂秀はそう簡単にいくものかと内心一人ごちた。素直に口に出して諭してやるのもいいのだが、この周考という男はどこまでも前向きなために『無理だ』という言葉を決して聞かない。付き合いが始まって一ヶ月もしない内にそれを理解した呂秀は以降そういう類の注意はしないことにした。それに、わざわざ心配する必要はないことも同時に知っている。

この男は生来(いくさ)(かん)が良いらしく、危険だということは本能から回避してきた。それは会話の端々からも伺われる。

「ところで伯真、話を変えるんだが」

思い出したと手を打って周考が顔を上げる。呂秀は顔も上げず答えもしなかった。しかし周考も心得ているのでそのまま気にせずに続ける。

()大人(たいじん)にお前を官に誘えと言われた。どうだ?」

「断る」

 にべもない返答に周考は首を傾げた。

「何でだ? 魯大人といえば殿の側近くお仕えしている方ではないか。そんな方からお声をかかったのだから、男なら喜んで出仕するべきではないのか?」

 出世欲の強い周考には道を用意されながらそこを歩こうとしない呂秀の考えが分からなかった。自分ならば即飛びつく。いや、たとえ泥にまみれようが掴み取ろうとするだろう。この男は何が不満でそれをなさないのか。

正直に疑問を表に出す周考に呂秀は深く息を吐く。

「私は生来体が弱い。父が残した財もある。それだけで生活に難しいことはない。ならば不必要に命を縮める真似をしようとは思わん」

 言われ、周考は黙った。友人が虚弱であることはこの三年で嫌と言うほど知れていたのだ。訪ねて来た時彼が床に臥していることなどざらではない。その度に呂秀が鬱陶しがるのを承知で看病もしてきた。そして呂秀は周考のその押し付けがましいとも取れる気遣いを、しかし知らず受け入れてきている。

「それより俊応、あの降将の下に配属されたと聞いたが?」

 重くなりかけた空気を追い払うように手を払いながら呂秀は別の来客から聞いた話について尋ねてみる。尋ねられた周考は自分の得意な話に顔を輝かせた。

「甘将軍か? ああ、そうなった。どんな方かと思っていたのだが、これがまた俺と気が合う方でな!訓練の時も目をかけていただいている」

 その様子を語り出す周考の話を半分聞き流しながら、呂秀は彼と甘将軍  (かん)(ねい)という男が気が合うというのに納得していた。甘寧、字を(こう)()というこの男は元は各地の川や湖を荒らした海賊の頭であったが、ある時荊州(けいしゅう)(りゅう)(ひょう)に投降。後にその配下である夏口の黄祖の元につく。しかし、働きに相応の報いを得られずについ先日孫権に投降してきた。その見事な武芸の腕と任侠を好む性格を買われ、此度の夏口攻めでは副将の任につくこととなる。やや粗暴なところのあるこの男は、確かに周考とは気が合うことだろう。

「でだな――おい聞いてるのか伯真」

「聞いている。いちいち訊くな」

 勘よく聞き流している呂秀に気付くも臆面なく嘘を言ってのける彼にあっさりそうかと引く周考。この単純さだけはやはり三年経っても変わらなかった。成り上がろうとしている男がこれでは困るのだが、今はこれで良いと呂秀は敢えてそれについては何も言わなかった。将ともなれば武だけではなく学も必要となる。しかしその器もないまま下手に(さか)しくなるのは利益以上の危険があった。中途半端に利口な者は策を弄する者にとって何よりも利用しやすい。逆に利口過ぎる者や全く利口でない者は扱い辛く何をするか予測するのが難しいので利用されることは少ない。だから早くから物を知ろうとするのが必ずしもよいとは限らないのだ、特に周考のような男は。そして何より彼はあの裏表のない性格ゆえに人に好かれる。それが得難き才だと言える以上、それを下手に消す真似をするのは呂秀としても避けたかったのだ。

 今一つ理由があるのだが、それは呂秀の心より外の出ることはなく、彼がそれを思考の網に捉えるのは更に時が過ぎてからとなる。






                             





風吹く宮(http://kazezukumiya.kagechiyo.net/)