戻る

                             



<知音>

                   9  10  


 炎が曹軍の船を飲み込んでいく。

 その炎に照らされながら、周考はそれよりも赤い血の海の中で剣を振るっていた。側には姜珂をはじめとする配下の兵卒達。上官たる甘寧は曹軍本陣のある烏(う)林(りん)にいる。周瑜の策で黄蓋とは別に降伏と偽ってあちらに行ったのだ。その際人が居過ぎては怪しいと周考達伯長が率いる小隊が数隊残された。ゆえに今は他の将の下にあるということにされている。

「落ちるなよっ! この酷寒に水に入ったら死ぬぞっ!!」

 波に揺蕩(たゆた)う船の上で見事に均衡を取りながら周考は周囲に大声で注意を促す。その言葉の間にも二人が斬り伏せられていた。ばらばらに、強い語調で返された声に、周考は満足して頷く。

 この船はもう終わりか。周考は周囲を見渡し敵味方なく転がっている死体の山を眺め、自分達以外に動く者がいないことを認めて剣にこびりついていた血を払う。だが数え切れない敵兵の血を啜った剣は、それでもしつこく赤い光沢を保っていた。

 その少し後ろで、姜珂もまた手にしていた槍の血を払うべくそれを大きく横に振り抜く。こちらの方にまで届いてきた灰色の煙の中に穂先が消えた。すると、一瞬の衝撃の後手に伝わるそれの重さが激減する。乾いた落下音。間も開けず、煙の中から刃こぼれした剣が振るわれた。
 咄嗟にしゃがみ込む姜珂。高い音と共に被っていた兜が弾き飛ばされる。その音に周考が素早く振り返り煙の中の襲撃者に向けて剣を振り下ろすと、剣がぶつかり合う音が場違いなほど澄んだ音として響いた。
 炎の起こす煙を挟み二人の男は激しく切り結ぶ。しかしどうしたことか、相手の剣技はそれほどではないというのに、そのがむしゃらな打ち込みには周考の膂力(りょりょく)を以ってしても鍔迫り合いに勝つことが出来なかった。小さな舌打ちと共に呂秀と男は剣を振りほどいて飛び違う。

 迸る緊張感の中、周りの呉兵が男を取り囲もうと動き出した。それを感覚で感じ取った周考の集中力が微かに揺れる。

 それが、まずかった。

 その時突如吹いた一陣の風。周考と男を隔てていた煙が一気に吹き払われる。明瞭になった視界。動いたのは、解けた髪を振り乱し生に妄執した鬼の様な形相の曹兵だった。ぞっとするほどの気迫に押されて剣を構えるのが一瞬遅れる。

 獣の様な咆哮がした。

 そう思った瞬間に、周考は腹部に冷たく鋭い痛みを感じ、呻き声を上げて顔をしかめる。そのまま片膝を付くと、曹兵は表情を緩めてその横を抜けようと駆け出した。しかしそれは適わずに終わる。真正面の低い位置から突き出された硬質の何かに喉を貫かれたために。

 断末魔の悲鳴を上げることなく男は血を吐いて絶命する。首の後ろからは、鋭く尖った物が突き出ている。

 噴き出す血の真正面にいるのは、満面に怒りを、双眸に涙を浮かべた姜珂だった。手にされ、男の喉を貫いていたのは、先程この男が断ち切った彼の槍。切った角度が鋭角であったためにそのまま武器として使用されたのである。
 姜珂は男の体を横に突き飛ばし、隣で片膝を付き唇を噛み締めている周考の傍らに慌てて両膝を付いた。

「俊応様、お怪我の具合は――っ?!」

「……見事じゃないか季元。驚いたぞ」

 およそ質問の答えとは言えない返答をしてくる周考に苛立ち姜珂はその名を強く呼ぶ。しかし、周考はキッと強い目で彼を見つめると軽く首を振り立ち上がった。

「次に行くぞ、準備しろ」

 近くに転がっている死体の一つから衣服を剥ぎ取りきつく傷口付近を縛りながら周考が命じると、周囲に集まって来ていた兵達は異口同音に反対を口にする。だが周考は構わず歩き出した。足跡の代わりに船の床に残ったのは血の跡だ。それを見て姜珂は周考の肘の辺りを無遠慮に掴む。通常なら姜珂の方が引きずられておかしくないのに、その時は姜珂にすら周考を止められた。

「季元、放せ」

 低く命じる周考の言葉を、しかし姜珂はきっぱりと拒絶した。

「駄目です俊応さまっ、その傷で戦を続けたら死んでしまいます!! 一度お退きくださいっ!!!」

「ふざけるなっ!!!」

 姜珂の訴えを掻き消すほどの怒号が発せられ、一同はシンと静まり返る。周考はその一人ひとりを見回した。

「俺は位低きといえど己を武人と自負している! 武人であるならば最期まで戦場に立っているものだ。死ぬ? それがどうしたっ、戦で死ぬことを何故恐れることがあるっ?! 戦場で死ぬることこそ武人の誉れだろうっ!!!」

 未だ兵の身であっても、周考の在り方は将のそれであった。その強き双眸を真っ向から受けながら彼を止められる者など、その場にはいない。呉兵達は黙り込み、そして闘志を燃やした。徐々に呟かれ出したのは『武人の誇り』という言葉のみ。周考の単純な、しかし恥じる所のない心からの言葉は確かに男達の心を揺さぶったらしい。配下達の目に宿った気概に、周考は満足そうに笑うと身を翻した。

 その時ふと耳に甦った聴き慣れた音は、ともすれば重くなりそうになる足取りを、軽いものへと変える。

 戦場へと踏み出す武人達の背を、立ち昇った炎が舐めるように覆い尽くした。



      *      *      *



 そこは高台に建てられた古い小屋だった。突然やって来て迷惑をかけた者に使わせるには豪華すぎる気もするが、かと言って高位の者や将達が使うにはおんぼろ過ぎる。そんな小屋だ。淡い明かりが灯され十分に暖を取られた中でゆっくりと正気を取り戻した呂秀は、激しい嘔吐感を覚えながらも上半身を起こす。ぐらぐらと視界が揺れたのに耐えて側の窓に手をかけ、間も置かずに開け放った。吹き込み突き刺さって来る冷たい風に全身は一気に冷やされ、一瞬で粟立つ。しかし呂秀はじっと長江の沖合いを見つめた。
 暗い夜空が赤く焦がされ、水上に轟々と燃え盛る炎の柱が立っている。

 聞こえてくる歓声は、錯覚かもしれない。だが下の方から聞こえてくる声は現実のものだ。

 曰く、連合軍の勝利はもう決まったも同然、とのこと。

 喜ばしいことだ。

 なのに、呂秀の目からはその意思とは関係なく雫が零れ落ちた。

 訳の分からないそれに、呂秀はしばらく付き合わされる。







                             





風吹く宮(http://kazezukumiya.kagechiyo.net/)