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<知音>

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 昼も大分過ぎた頃、昨夜から一睡もしていない呂秀は凱歌を奏じて戻って来た呉軍の船を高台から眺めていた。昨夜涙を吐き出し尽くしたせいか、心は凪の海のように穏やかだ。


 外を眺めてそのまま時を過ごして約二刻(約一時間)。予感していた来訪者は、予想外の人物を連れてやって来た。





「甘将軍――これはお久しゅうございます。戦果のほどは魯大人より聞き及んでおりますよ」

 いささか驚いた顔をして寝台から起き上がろうとした呂秀を鎧姿の甘寧が肩を押さえて止める。

「寝ていろ伯真。下手にお前に起きて対応させたら俺が子敬殿に叱られちまう」
「は……では失礼して。――甘将軍」

 素直に再び寝台に身を沈めた呂秀は疲れた声で甘寧に呼びかける。甘寧も、それを予測していたらしく低い唸り声を上げると意を決して口を開いた。

「……ここに奴が来ていない理由は、頭の良いお前なら分かってるんだろうな。病床にある者に話すべきではないと止められたんだが、隠さずに知らせるのが奴の一番の友であったお前への誠意だと俺は思う。それに、言わずにいても勝って帰ったのに奴が来ないことが一番雄弁に事実を語るしな」

 無念そうな声だ。呂秀はそう思いながらもどこか自分が冷めていることを感じる。甘寧は一呼吸置いて、大きく息を吸った。

「俊応は死んだ。我らの勝利を見届けた、その後だ」

 きっぱりと、しかしどこか重い響きのある声で言い切った甘寧から、呂秀はふいと視線を逸らした。それはどこともない空虚を彷徨っている。その彼に痛ましげな目を向けながら、甘寧は顎をしゃくった。それに応えたのはもう一人の訪問者、姜珂だ。姜珂は重く頷くと、一歩前に出る。

「俊応様は、敵兵に腹を刺されました。そしてその傷にろくな手当てもなさらずに己の誇りをかけて戦を続け、最後まで武人として在り続けました。亡くなられたのは、勝ち鬨を上げた後です。勝利が決したと分かると誰よりも大きな声を上げ、そのまま、立ったままで、剣を、放す、こと、なく――――っ!!」

 唇を噛み締め、拳を握り締め、姜珂は俯く。小刻みに震える身体がその無念を、怒りを、悲しみを、表していた。甘寧は小さく息を吐くと、その言葉尻を拾い上げる。

「俊応は、剣を放すことなく倒れた。立派な奴だよあいつは。俺もあいつが倒れて季元に聞くまで怪我していたなんて気付かなかったからな。――ああ、仇は俊応が刺された時点ですでに季元が討っているから安心しろ」

 姜珂が、という言葉に呂秀は少し安心した。逃していたり誰とも知れぬ相手に討たれるより余程周考も喜んだことだろう。

「それで、亡骸を故郷に送るかどうかで話が出てるんだが――」
「そんなことをしたら野晒しにされるだけではありませんか?」

 驚いて尋ねると甘寧も驚いた顔をした。どうやら知らないらしい彼に周考の父母兄弟がすでに亡いことを教えてやる。

 結果、周考は他の引き取り手のない兵たちと共に国で葬られることとなった。

「――――伯真、手向けては、やらんのか?」

 躊躇いがちに甘寧が尋ねると、呂秀は微かに俯き首を振る。

「生憎、持ち合わせておりません」

 零れ落ちた言葉には疲労困憊の色がありありと浮かんでいる。同様に色を無くした横顔を見て、いつもならここで憤慨してもおかしくない甘寧すら口を閉ざしそれ以上は何も言わなかった。

「――そうか。では俺達はここで失礼する。よく休め伯真。季元、行くぞ」

 言下に踵を返す甘寧。頭を深く深く下げた姜珂がその後に続いて小屋から去る。一人残った呂秀はシンとした空間に大きく息を吐いた。

「――――この、大莫迦者め。私は、死者に手向ける楽の音は知らんぞ――……」

 呟かれた言葉は、静かな響きを伴って何処とも知れる虚空へ消える。



      *      *      *



 小屋から出た時、内とは比べ物にはならないほどの寒さに戦の時は平気な甘寧も震えた。立ち止まると寒さが増すような気がして大股で歩き出す。しかし、結局二、三歩行ったところでまた止まらされてしまった。放っておけば良いものをと自分でも思ったが、それを為すには今は感傷的になりすぎている。甘寧は振り返った。向けた視線の先では配下の少年が立ち尽くしている。歯を食い縛り両拳を血管が浮かび上がるほど強く握り締め、心底悔しそうに顔を歪めて涙を流す彼に、甘寧は気付かれないように眉を寄せる。

 それは周考の死後少年が幾度となく繰り返す己を苛む行為。

 自分が気を抜いたせいで。力ずくでも止めれば良かったのに。

 そんな風に彼は後悔ばかりを感じ己を罵倒し続ける。仕方ないと、甘寧は哀れみすら感じていた。
 彼は亡き男と今出て来たばかりの小屋で臥している男を実の兄の様に慕っている。その片方を、止める機会があったのに死なせてしまったとあっては後悔をしない方がおかしいだろう。しかし――。

「姜季元!」

 甘寧は姜珂の前に仁王立ちになって大声でその名を呼ばわる。びくりと身体を跳ねさせた姜珂は反射的に声を張り上げて返事をした。

「いつまでめそめそしてるつもりだ?お前は俊応の一番近くで奴の生き様を見届けたってのに、それが通じなかったのか!!」

 叱咤する甘寧の声に姜珂は手の甲で目元を擦る。しかしその唇からはついに嗚咽まで伝わって出て来てしまった。だが甘寧はそれに苛立たしげな声は立てずに目を細める。

「――辛いだろう、だが耐えろ。乱世にて死ぬことなど生きることより常識に近い。嘆いてもはじまらん」

 その言葉に反発するように姜珂が反論したようだった。引きつり涙の影に妨害されたため非常に聞き辛かったが、甘寧はなんとかそれをつなぎ合わせる。曰く

『人の死に慣れろというのですか』

 そう解釈した甘寧は涙が枯れぬ双眸で自分を睨むように見据えてくる配下に軽く首を振る。

「耐えろ。だが慣れるな。乱世が幕を引けば世を担うのはお前達若い連中だ。そんな奴らが戦に慣れるもんじゃない」

 長江からの風が凍えそうな冷たさを孕んで長く吹き荒んだ。それはすでに東南の風とは逆の風だ。

「季元、忘れるな。確かに慣れる方が耐えるよりずっと楽だ。事実俺は慣れた。耐えるには、俺には根性が足らんかったらしい。だがお前は慣れるな。慣れたら――俺の様に平穏の世では満足できなくなる。そうにはなるな」

 言下に手荒く姜珂の頭を撫で、甘寧は再び踵を返す。

「俊応の志はお前が継いでやれ。強く、でかい男になって、成り上がれ。――お前にはその権利と義務がある」

 権利と義務――……、小さな呟きの後、それよりもほんの少しだけ大きな声の返事がされた。

 甘寧は振り返らずに歩き出す。

 甘やかさないためにと体裁を整え、その実、今の自分の顔を部下に見せないために――――。

 吹き下ろして来る風は変わらずに冷たかったが、それでも彼等は、濡れた頬を乾かすのに都合の良いそれを、更に望んだ。






                             





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