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<知音>

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 出陣の用意はすでに整っている。後は東南の風が吹くのを待つだけだった。中型船の内の一つの中、窓際で椅子に腰掛けている周考は、船が上下する度に起こる小さな波音に耳を澄ませている。

(伯真の奴め、無理しやがって――)

 暗い長江の水面を見つめていても、浮かんでくるのは数日前柴桑で見た咳をし続ける友人の顔だけだった。自分が見た時はまだ顔色に変化はなかったが、あれはしばらく経てば青白く変わっただろう。周考はそう予測していた。医術の覚えはないが呂秀の体調の変動には大分慣れている。彼はまず咳から体調の異状が始まるのがほとんどだ。大体咳をすると彼はすぐに寝込むほどの熱を出す。と、そこで周考ははたと思い至る。

(しまった、誰かに看病を頼んどくんだったか?)

 恐らく呂秀の元に訪れる者はいないはずだ。唯一の頼りである魯粛は幕僚としてこちらに来る手はずとなっていると甘寧に聞いたのを思い出し、周考は今更ながら焦り出す。

「季元に行かせるか? ――いやだが俺の勝手であいつの出世の道を閉ざすのも悪いし、俺が行ったらアイツは逆に怒りそうだしなぁ……だがどうにか手は打っとかんと……」

 立ち上がり落ち着かない様子で部屋の中をぐるぐる歩き回る周考。上官を通して魯粛に人を使わして貰えば早いのだがどうやらそんな考えは一切浮かばないようだ。ちなみに余談だが、周考ほど出世欲の強くない姜珂なら事情を聞けば夜を徹してでも柴桑に戻ったことだろう。

 うろうろとし続けた周考は、やがて唸って髪をグシャと掻き毟る。しっかりと結われていたそれはすっかり乱れてしまった。

「あ〜、ったく。おかしい! こういう時にこそあいつの楽の音を聞くべきだろー……」

 それが矛盾であることはさすがに気付いているようだ。大きく息を吐いてしゃがみ込み自己嫌悪に陥る。

 直後、周考はパッと顔を上げた。

 表情を彩るのは驚愕。同様に湧き上がるのは嬉しさ。

 しばし言葉を失っていた周考は、やがて前髪を掻き上げ、微妙な困惑交じりに相好を崩す。

「〜〜っ。アイツは、本当に無理しやがって――……っ!!」

 心配なのは本音だ。だがそれを耳にして喜んでしまうのもまた本音。ゆっくりと立ち上がり、瞼を下ろす。風と波の音に混じって聞こえてくるのは聴き慣れた音色だ。

「俊応様! 俊応様これ――――っとと、失礼しました」

 賑やかに部屋に駆け込んで来た姜珂は、しかし壁に寄りかかり俯き気味に目を閉じている上官に慌てて自分の口を塞ぐ。周考はそんな彼を笑って手招きした。最初恐縮した姜珂もすぐに一礼してその隣、彼の足元に座り込む。そして、先の周考同様壁に寄りかかり目を閉じた。

 同じ調子のはずの音は、少年には見守る優しいものとして、青年には鼓舞する勇ましいものとして、それぞれの耳に届けられる。





 同じく呉軍の船団、その内の一つ。そこで戦の開始の合図となる風を待っている鎧を纏った美丈夫は、ふと聞こえてきた音に顔を上げる。傍らに控えていた一人の武官がそれに気付いてどうしたのかを尋ねた。

「――音が――」

「音……? ああ本当だ。やめさせて来ましょうか、周大都督?」

 無粋な質問をしてくる武官に余裕の笑みを浮かべ周瑜は首を振った。そうですかと意外そうな顔をする武官を尻目に、傍らの窓に手を置き目を瞑ったその横顔に月の蒼い光が差し込む。

「――良い、音だ」

 満足そうに聴き惚れていた周瑜の顔を風が撫でた。今までとは吹き込む方向がまるで違う、東南の風だ。

 それまで優しげな光の灯っていた双眸が一変し、厳しい戦人(いくさびと)のものへと変化する。すっと手が上げられると、控えていた武官が駆け出し大声を張り上げた。



      *      *      *



 戦の、時だ。



 髪を包んでいる布を縛っている細い布紐が風に乗って前に向かって揺れるのを眺めながら、呂秀はなお笛を拭き続ける。手はかじかみ体は震え、頭痛すら起こっていた。それでも質を損じない音を紡ぎ続ける。やれと言われた訳ではない。何故かやらなくてはいけないという気になっただけだ。言うなれば単なる自己満足だろう。だが、戦に出られぬ呂秀にとってはこの行動が、この瞬間が、その代わりだった。

 戦場に立つことは出来ないが、送り出すことなら出来る。

 彼が望んだこの音で。

 ゆっくりと出陣していく船団。鳴り響く出陣の鉦に紛れ、細いが強い笛の音が鳴り響いている。

 音はしばらく続いて、やがてやんだ。

 代わりにどっと湧いた数人の焦り声の中で、細い体が助け起こされているのを、満月にはまだ足りない月の光が照らしていた。






      *      *      *







 魯粛は自分の浅慮に頭を抱えた。

 ただでさえ体調を崩しかけていたのに加えて車での長旅。そして到着早々長江からの寒風が吹く中を出かけたために、呂秀は船団を見送った後に倒れてしまったらしい。念のために付けておいた者が血相を変えて彼を運んで来た時には流石に肝を冷やされた。まるで死人の様に青い顔をして気を失っている彼の体は冷たく、だが額は火を焚いたかの如く熱い。魯粛は慌てて近くの小屋に暖を取らせ休めるように用意させ、また医者を一人側に付かせる。そして自分はそのまま軍の諸事を処理するべく本陣内を奔走した。







                             





風吹く宮(http://kazezukumiya.kagechiyo.net/)