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<知音>

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 最近訪ねて来る者が増えた。

 憮然とした表情をしながら、呂秀は土産だと渡された安い茶を三つの杯に注いでいる。その後ろでは手持ち無沙汰なのかそわそわしている少年が一人、呂秀が茶を入れ終わるのを待っていた。更に後ろの机では少年と共にやって来た男が何の気兼ねもなく席についている。

(この少年の十分の一でも良いから少し遠慮を学んではくれないだろうか……)

 急須を傍らに置き、呂秀は深く息をついた。前者の音を聞きつけた少年はほっとしてそれらに手を伸ばす。

「伯真様俺が! どうぞお任せください。さ、先にどうぞ」

 子犬を思わせる少年に押し負け、呂秀は素直に机に向かった。席に着く前に物のついでにと着物の袖から笛を取り出して悠々と座っている男の頭を殴打する。小気味よい音がした。

「伯真っ! 何するんだお前はっ!!」

 急な襲撃に咆えるように文句を言ってくる友人に、呂秀は席に着きながら平然と受け答える。

「頭に埃が付いていた。噛まれなくて良かったな」

「そこまであからさまな嘘をつくならいっそ正直に腹が立ったと言え! って自分でやっといてなんで笛を拭くんだお前は?!」

「あのー、俊応様伯真様ぁ?お茶冷めちゃいますよー?」

 温度の違う口調で言い合いを始める上官とその友人に向かい、少年は呆れた様な困った様な顔をして呼びかける。しかし両名とも言い合いに忙しく全く話を聞いていない。仕方なく、少年は一人先に熱いお茶を啜った。

 彼は姜珂(きょうか)。字を季元(きげん)。周考が率いる小隊の一人で彼を慕いあちこちに付いてくる。呂秀とは、その際に出会った。

 最初面食らっていた呂秀も、十五の年を数えたばかりの純朴な少年相手には厳しい態度を取ることはなかった。最もそれは、この三年で彼の性格が丸くなったためでもあるが。

「お、なんだ季元ちゃっかりしてるな。もう飲んでるのか」

「あ、も、申し訳ありません。やはり待つべきでしたか?」

「気にするな。これが口にすることの大半は脳を通していない言葉だ。まともに相手にするのは時間の無駄だぞ」

 冷言を吐きながら音を立てず茶を飲む呂秀を睨み、周考も不機嫌そうに音を立てて茶を啜る。その二人を見て、姜珂はくすっと笑った。その目に映るのは憧憬。一見仲違いしてしまいそうなぎりぎりの会話をしているように見える彼らは、しかし決して離れることはなく、その友情にひびが入ることもない。姜珂にはそれがとても羨ましかった。

(こう言うのを金石(きんせき)の交わりと言うんだろうか、いや、(かん)(ぽう)の交わりかな?)

 『仲の良い友人』という意味の言葉をあれやこれやと思い浮かべていく姜珂。その傍らでは、一変して二人の男が世情を語り合っている。――正しくは、一方が教えている。

「戦が始まるっ?!」

 ガタンと椅子を後ろに倒すほどの勢いで周考が立ち上がった。急な大声に姜珂は体を跳ねさせるが呂秀は落ち着き払って鷹揚に頷く。

「つい先日荊州が曹公(そうこう)の手に落ちたことくらいは知っているだろう。その時、唯一反抗した劉皇叔(りゅうこうしゅく)のこともだ」

 慌てず騒がずの友人の態度に頭に上った血がゆっくりと下がっていく。のろのろと椅子を起こし周考は座り直した。呂秀はそれを目の端で捕らえつつ顔を姜珂に向ける。

「季元、曹公と劉皇叔は知っているな?」

 急に話を振られて驚いたものの、姜珂ははいと頷く。

「曹公は河北(かほく)一帯を征圧した御仁で、今帝を擁している方ですよね。で、劉皇叔は帝の叔父上であらせられるとか」

 思い出しながら口にしたのか少々たどたどしい説明ではあったが、呂秀は満足そうに頷く。

 曹公こと曹操(そうそう)。字を(もう)(とく)は、姜珂の言う通り河北一帯を支配している優れた政治家であり有能な将でもある男として名を馳せる。帝すらも傀儡(かいらい)としてその手に納めている、現在最も勢いに乗っている人物だ。 対する劉皇叔こと劉備(りゅうび)。字を(げん)(とく)は、皇叔の名の通り皇帝の叔父である。かといって何の権力も持たず、乱世の始まりより御旗を立てていながら未だ自らの領地すら持っていない。一時期はその下に身を寄せていたこともあり、曹操とは因縁の間柄だ。
 そしてつい先日、河北を平定し終えた曹操がついに南下を始めた。目下の目標は要所荊州。その時荊州に世話になっていた劉備は前線に立って曹操に抵抗。しかし荊州の主は一度も刃を交えることなく曹操に降伏してしまう。前後に敵を抱えることになってしまった劉備は仕方なく戦線を放棄して逃亡を図った。

 ところでこの劉備という男、拠るべき地は持たないが高い徳を持つ人物として知られている。そのことが良く知れるのがこの逃亡劇である。この時圧倒的軍勢による圧倒暦不利な状況にも関わらず劉備に追従した荊州の民は数十万に上った。追いついた曹軍に殺される民が増えても、なお彼らは劉備に付き従ったという。そして、並み居る危機を乗り越えた劉軍と民達は、数日前無事に夏口に入った。

「どうも複雑だな。夏口を手放した時には惜しいことをと思ったが、数十万の民が助かったのならそれで良かったとも思える」

 大きく息を吐いて周考は唸り声を上げる。

 呉軍が夏口――黄祖を攻め取ったのはこの年の柳絮舞う春のこと。その時孫権は戦益である夏口の地を放棄して軍を退いた。その理由は、『守り難し』との意見が多数の重臣達から上がったからだ。そして放棄された夏口には新たな太守が置かれ、木々が見事に色付く今日、劉備達の寄る辺となっている。その戦いで勢いをつけた周考としては複雑な気分にもなるだろう。

 しかし





                             





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