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<知音>

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 二百八年十月、呂秀の予想通り、呉と劉備は連合した。

 そのまま開戦に至るのにさして時は要さず、乱世を揺るがすこの大戦は、すでに始まって二ヶ月が経っている。

 そして十二月。寒気吹き荒れる中、戦況報告の任を仰せつかった周考は、その任を終え、戻るまでのわずかな時間姜珂を連れて呂秀の元を訪れていた。


「それでですね、今陣中では伏龍先生が風を起こせるか起こせないかですごい騒ぎになってるんですよ」

 軍内の状況をやや興奮した様子で説明していく姜珂に、呂秀は頭の中でそれを整理する。

 話の元は軍上部の話し合いだ。なんでも、呉の大都督(だいととく)周瑜(しゅうゆ)、字を公瑾(こうきん)という男と諸葛亮が策を出し合ったところ、互いに火計を用いると提示した。しかし火を用いるには呉軍が布陣している(りく)(こう)は風下。下手をすると自軍が焼かれてしまうことになる。どうしたものかと考えるも風は天意によるもの。人の手ではどうしようもない。だがその時、諸葛亮はこう言ってのけたと言う。

『開戦の日、東南の風を起こして差し上げましょう』

 その言葉は瞬く間に軍中に広がり、かの名軍師は左道(妖術)まで使えるなどという話まで飛び回っているという。

どうやらその話を信じているらしい純粋な青年と少年に、しかし呂秀は真っ向から馬鹿らしいと告げた。

「なら風は吹かないのか?」

 それはそれで戦に支障が出て困る。言外の思いを正確に捉えながら呂秀は首を横に振る。

「風は吹く」

「〜〜、では伏龍先生は左道が使えるんですか?」

「それはない」

 清々しいほどきっぱりと否定される。

 風は吹く。しかし左道ではない。周考と姜珂は顔を見合わせて首を傾げる。ややあって、周考がその訳を尋ねた。

「あの地方ではこの時期一日だけ決まった日に東南の風が吹く。私の記憶にある限り少なくとも十七年間は同じ日に風が吹いている」

 あっさりと、しかし言い切った呂秀に、二人は口を開けて絶句する。それらから興味なさ気に視線を逸らし、呂秀は手元の茶を啜った。

「大方伏龍殿はその事を知っておられたか調べなさったかしたのだろう。お前の上官殿を通して周大都督に聞いてみたらどうだ? 恐らくかの方も知っておられるよ」

 そして恐らく周瑜が知っていることを承知で、諸葛亮は例の言葉を口にしたのだろう。遊んでいる。呂秀はそう思った。

「あー……それは、無理、だな」

 歯切れの悪い言葉を発しながら頭を掻く周考。その横では、姜珂も困った顔をしている。

「――何かあったのか?」

 眉をひそめその妙な行動が何を示すのか尋ねる呂秀。周考は苦い顔で茶を啜ってから口を開く。

「伯真、黄将軍を知ってるか? 先々代孫堅様からお仕えしているあの」

 黄将軍こと黄蓋(こうがい)、字を公覆(こうふく)とは、孫呉の宿臣である男のことだ。直接に言を交わしたことはないが遠目から見たことがある老将の顔を思い浮かべ、呂秀は軽く頷いた。

「その黄将軍が、つい先日の軍儀の際『もし今月中に曹軍を討てねば降伏するべきだ』と仰ったそうです。それでそのことにお怒りになった周大都督が黄将軍を死刑にせよと命じられて。幸い居並ぶ諸将方がお止めになって罰棒五十杖で済んだのですが、最初にお止めに入った甘将軍はその場を追い出されてしまったらしいんです。――俺は俊応様からお聞きしたんですが」

 ちらりと遠慮がちに姜珂は周考に視線をやる。でしゃばってしまったと思っているのだろうか。だが呂秀としては有り難かった。年少ながら、この少年は周考よりよほど説明が上手い。周考本人もそれは認めているらしく、助かったというように笑顔で頷くと、また真剣な面持ちになって呂秀を向く。

「それでこの間甘将軍は随分な怒り様で周大都督の文句を喚き散らしておられた。あの状態ではとてもそんなこと――」

 聞けない。消えた言葉尻を予測しながら、呂秀は顎に手を当てる。それからしばし深く考え込んでいたが、ややあって思い至ったように微かに顔を上げる。

「――――苦肉の計、か」

「え?」

「ほぼ間違いなくそうだな。周大都督は先見の明のある方と聞く。曹軍との決戦前に無駄に兵力を削ぎ士気を下げる真似はするまい。まして相手は孫呉の宿臣。下手をすれば兵の心が離れかねん。それを敢えてなさったのであればそれ以外ないだろう」

 自らを納得させるようにそう言うと、姜珂がおずおずと手を挙げる。

「あの、伯真様。つまりそれって、黄将軍の発言も周大都督が与えた罰も全て演技だったと……?」

「ああ、そうなるだろう。大方黄将軍に降伏の真似事でもさせるおつもりなのだろうな、周大都督は。恐らくは、火計の火付けの任をなされるはずだ」

「では甘将軍もっ?!」

 周考が机を叩き腰を浮かせて身を乗り出す。

「それも演技だな。確たる証明は出来んが、以前言葉を交わした時は多少のことで名君と認めた孫主公を見限るような方には見えなかった」

 それはこの戦いが始まる少し前。いつも通りやって来た周考と姜珂に付いて甘寧も呂秀の元に訪れて来た。さすがに面食らったが、存外彼は扱い易かった。元海賊の頭だけあり普通の将にない荒削りな在り方をしていたが、どこか周考を彷彿(ほうふつ)とさせる態度や雰囲気が嫌悪の一切を取り除いたのだとはすぐに気付くことになる。その時交わした会話で、呂秀は周考が甘寧と上手くやれる訳がよく分かった。成程と頷きたくなるほど、彼らは似ているのだ。ただ違う所を挙げるとするなら――。

「あの御仁は、武だけの男ではない」

 あの男には周考にない知恵がある。過去、誰にも負けなかった海賊を率いていたという事実は伊達ではない、ということだ。

「そうか……そうだよな、うん。甘将軍はそんな方ではないな。分かってるじゃないか伯真。なぁ季元」

 ほっとしたように息を吐き、隣に座る姜珂に周考は同意を求め顔を向ける。姜珂も嬉しそうにはいと元気の良い返事をした。

「これで安心だな。それで伯真――――」

 周考の言葉が途中で止まる。代わりにまだ音を放っているのは呂秀の喉だった。小さな咳が連続している。口元に手を当て俯き咳をする呂秀。周考はその彼に顔を向け、瞬間言葉を失う。

 それに気付いてか、呂秀は顔を上げた。

「なんだ?」

 咳の下からそれでも平然とした問いかけが放られる。黙るなり言い訳するなりするかと思われた周考は、しかし笑って首を振った。

「いや、もう帰ると言おうと思っただけだ。そろそろ幕舎に戻らないと今夜出発だというのに置いてかれてしまう。ほら季元行くぞ」

 言下に立ち上がりさっさと外に出て行ってしまった周考に、姜珂は慌てて立ち上がる。それから残っていた茶を一気に飲み干し、大きく息を吐くのと同時に首を傾げた。

「どうした」

 そわそわと自分と上官を見比べる少年に、呂秀は用の終わった茶碗を手にしながら尋ねてやる。

「え、あの、俊応様用事済ませてないのになと思って……」

「? 用事?」

「はい、伯真様の楽の音を聴くんだと言ってここに来たんです、俊応様。俺達も次は戦に参加するからって」

 戦に参加するのと自分の楽の音を聞くのとに一体何の関わりがあると言うのか。訝しそうに呂秀が眉をひそめると、姜珂が活発な目を輝かせて笑った。

「伯真様の楽の音は聴くと力が出るんです。俊応様がそう言ったんですけど、俺もそう思うし、甘将軍もそう言ってました!」

 言葉尻に力が入る。それに気恥ずかしさでも覚えたのか、姜珂は少し赤くなってわざとらしい笑い声を立てた。

「力?」

 それはまた予想外な。呂秀は目を見開く。

「はい。だから今日も聴いてから戻ろうという話だったんですけど、どうしたんでしょうね?」

 姜珂が腕を組み首を傾げると、外から彼を急かす大声がした。首を竦めた姜珂は同じくらい大きな声で返事をすると呂秀に一礼して外へ飛びだして行く。

 耳に木霊する姜珂の声と吹き込んで来る冷たい風、そして自らが出す小さな咳の音が、しばらく呂秀をそこに縫い付けた。





                             





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