<知音> |
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序 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 終
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「これでいい。これで呉はまだ滅ばずに済むかもしれん」 呂秀の考えは、それに尽きた。きっぱりと言い切った呂秀に、周考のみならず姜珂も大きく首を傾げる。言っている意味が分からない事を前面に押し出し、周考がどういうことかを尋ねた。 「もしあの地を取っていれば劉皇叔がどこへ行かれていたか分からない。そうなると曹公の進軍にろくな対抗も出来ずにここは呆気なく飲み込まれていただろう。劉皇叔が率いる軍が、この呉を救う鍵となる」 理由を語っているようだがやはり確たる姿を現さない真意に周考は頭を抱える。代わりに、姜珂が思い当たったように小さく声を立てた。 「同盟、ですか?」 なかなかに冴えている少年に呂秀は茶碗を取りながら頷く。 「どういうことだ?」 まだ要領を得ない周考が姜珂に尋ねる。部下にものを聞く奴がどこにいると言いたくなるのを呂秀は必死に堪えていた。 「伯真様は、劉皇叔と力を合わせれば勝てるけど合わせないなら勝てないと仰ってるんです。でも夏口を呉が取っていたら合わせる合わせないの前に皇叔はいらっしゃらなかった。つまり負けが確定していた。だから夏口は手放して良かったということです」 呂秀とは違い丁寧な説明をしてくれる姜珂に感謝しつつ、周考はようやく彼らの言葉の意を汲み取ることが出来た。正直呉軍だけでは勝てないという発言には腹が立たないでもなかったが、呂秀の大きなことに対する予想は周考の知る限り一度も外れていない。ならば何かしら負けてしまう理由があるのだろう。そう思って、それに関しては忘れることにした。 「何で劉皇叔一人でそう変わるんだ? こう言ってはなんだが、話に聞く限り戦に長けた方とは言えんだろう」 「劉皇叔自身はな。だがその軍勢は魅力的だ。幾度の死線を乗り越えた兵達の結束は強い。それにかの御仁の配下には人材が揃っている。猛将と名高い関羽殿、張飛殿、趙雲殿の三将。そして――」 「伏龍先生ですよね! 天下に名高い名軍師の!!」 呂秀の言葉尻をひったくって姜珂が高く声を張る。熱を帯びたところを見ると、この少年もかの軍師殿の智謀に心服する一人なのだろう。言葉を遮られたことにいささかの不快感も感じずに、呂秀はまた頷く。 「彼らを統べるのは劉皇叔だ。かの方との同盟が適えば猛将三人と名軍師が一気に手に入り、加えて兵も増えるから戦力が上がる」 「ふん……成程なぁ。あの万夫不当と謳われる御仁達がいるのは確かに心強い。――だがそう簡単に同盟が進むのか?」 心配そうに呟く周考に、しかし呂秀はあっさりと 「杞憂だな」 と返す。周考のみならず姜珂までが疑問と驚きをない交ぜにした声を立てて言外に説明を求めてきたが、呂秀はそれをまるで気付いていないように無視して茶を口に含んだ。 安い茶は、とうに冷め切ってしまっていた。
* * *
その夜、薄笑いの月が空の半ばまで上がった時分に一人の男が呂秀の家を訪ねて来た。柔和な顔をした壮年の男性。呂秀の父、そして彼自身にとっても年の離れた友人である魯粛だ。 「杞憂、とは?」 孫権の命で明日夏口の劉備の元へ向かうことになった魯粛は、考えの整理口になっている若い友人に同盟が上手くいくかどうか悩んでいることを打ち明けた。その彼に、呂秀はそれは杞憂だと告げたのである。その一言で済まされ、魯粛は訳が分からずそのまま鸚鵡返しをしてしまった。瞬時に青年の機嫌が悪くなると思ったのは、彼が理解しようとせずすぐに他人に答えを求める者を嫌う傾向があるから。しかし、呂秀はあっさりと言葉を紡いで魯粛を驚かせる。 「あちらも呉と連合したがっております。特に、伏龍殿が」 「孔明殿が?」 「あの御仁は劉皇叔に信服なさっているとの由。主のために尽力するが臣下というものであれば、伏龍殿は必ずこちらと同盟を結ぼうとするでしょう。恐らく魯大人があちらに赴けばそれを好機と飛びついてくるはずです。故に杞憂と申し上げました」 伏龍。それは諸葛亮、字を孔明という男の、世に知られる名である。誰にも仕えていない時分からその智謀が天下に知れ渡っていた彼は、劉備の三度の訪れとその誠意ある態度、そして高き志に心惹かれてその下に付いた。劉備という魚は孔明という水を得た、と劉備自身から言われるほどに彼に重宝されている諸葛亮が主を見捨てるはずがない。それに彼は主と仰げる人物を探し当てるまでに苦労したのだから。 つまりそう言っている呂秀の言葉に安堵と納得を覚え頷く魯粛。そしてその一方では彼の智謀に舌を巻いていた。世情や人々の口から伝わる話を冷静に分析しここまで見通した判断をするのはなかなか難しい。それを呂秀は容易くこなしている。個人的な思い入れもあるかもしれないが、魯粛は彼も世に名を知られるに相応しい才人であると思っていた。 「ところで伯真、最近随分物腰が柔らかくなったじゃないか。俊応の影響かね?」 呉の臣の顔から旧友、あるいは叔父の顔になってそう言った魯粛に、呂秀はしばらく何も言わなかった。そのまま窓に近寄り、何とはなしにそれを押し開ける。涼やかな秋風が吹き込んできた。ふっと体が冷まされる感じに思わず目を閉じた魯粛は、しかし風に乗って届いた言葉に目を開き、ついで微笑んだ。 窓の外に顔を向けこちらを見ない青年。彼は確かに囁いた。 『そうかもしれん』 と。魯粛は良い方へと変わり始めている旧友の息子でありまた一人の旧友である青年の背中を見つめ、年長者の笑みを浮かべている。
再び吹いた秋風は、今度は長江のさざ波を連れて訪れて来た。 |
風吹く宮(http://kazezukumiya.kagechiyo.net/)