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<知音>

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 満ちた月が雲ひとつない空で誇らしげに輝いている夜、呂秀は突然の客人に招かれ長江のほとりに訪れていた。

滔々(とうとう)たる長江の流れを眺めながら歩いていると、前を歩いていた男はここだここだと弾んだ声を立てて駆け出し、突き出た岩の前にどかと座り込む。見ればすでにそこには酒の瓶が数本と酒盃が二つ並べて置いてあった。男――周考は杯を一つとりトクトクと酒で満たしていく。そして、立ち尽くしている呂秀に気付いて手招きした。

「なんだ、そんな仏頂面してないでこっちに来てお前も飲め」

 気楽な誘いに、しかし呂秀は不愉快そうにむっと眉を寄せる。

「この顔は地だ。それより私の胡弓を返せ」

 春の夜の月は美しいが、呂秀は決して好き好んでそれを肴に酒を飲むことはなかった。今まで幾度かは無理やり引き出されたこともある。だがそれが今夜自分の足で自らの意思で歩いて来たのは、大切な胡弓を周考が持って行ってしまったからだ。追わずとも捨てはしないだろうが今日に限ってはこの浅はかな策に乗ってやることにした。呂秀は今日が彼にとって喜ばしい日であると知っている。

「ああ、すまんすまん。ほれ」

「ふん。……良かったなと言えばいいのか?」

 胡弓を受け取り横に座りながらの言葉に、周考は満面の笑みを浮かべ並々に満たした杯を呂秀に渡した。

「なんだもう聞いていたのか、相変わらず早耳だな」

「昼に魯大人がいらした。若いながらも見事なものだと大層褒めていらしたよ」

 興味なさ気に告げられたにも関わらず周考は気をよくして酒で喉を潤していく。

魯大人こと()(しゅく)、字を()(けい)という男は孫権に使える文官の一人で、呂秀の亡父とは古くから親交があり、彼亡き後も度々呂秀を訪ねて来る。いつものように家にやって来た彼から呂秀は周考が昇進したのだということを聞いた。

一兵卒から伯長へ。

結局兵士の立場から抜け出してはいないが兵卒を束ねる立場に立つ者の内の一人となったのだ。彼の出世欲がようやく少しだけ満たされたことになる。が、その出世を喜んでくれる者はすでにこの柴桑にしかいない。去年の暮れに彼の母が世を去り、追うように父が逝ったのだと聞く。しかし疾うに天涯孤独の身である呂秀はそれが哀れであるとは思っていなかった。特に相手が周考のように自立した男であるならば尚更だ。

「おい、何してんだ? 弾いてくれって」

 太い指で肩を叩かれ呂秀は何のことだと首を傾げる。周考はそれにあっけらかんと笑って見せた。

「めでたいことがあったんだ。それの音で祝ってくれ?」

「――それが目当てで胡弓を持ち出したな?」

「おお、当たり前だ」

 不機嫌に睨みつけるも全く応えた様子を見せずに笑われて、呂は諦めて胡弓を弾き始める。それを周考はさっと止めた。

「なんだ?」

 弾けと言ったり止めろと言ったり迷惑な。不満をたっぷり込めて尋ねると、同じくらい不満を込めた声で周考が主張する。

「黙って弾くな。お前なら喋りながらでも出来るだろ。俺はお前と話すつもりで誘ったんだぞ?」

 子供の様に拗ねた顔をする周考から目を逸らし、呂秀は呆れた様子で深く息を吐いて胡弓を抱え直す。

「今から一曲弾く。それが何か分かったら付き合ってやろう」

「おう、何でも来い!一発で当ててやる」

「一度で当てねば口は開かんよ――」

 言下に胡弓が音を紡ぎ出す。とっつきづらいがどこか温かいそれにじっと聞き入っていた周考は、弾けるように声を張り上げた。

「梅だっ!」

 間違っていないはずだという自信に満ちた友人の表情に、呂秀は皮肉気に片頬を上げる。

「? なんだ?」

「他に頭が回らぬくせに何故こういうことに関しては耳が利くのかと不思議に思ってな」

 遠慮なく皮肉ってくる呂秀になんだととむっとした顔を向けて、しかし周考はすぐに鼻を鳴らしてそっぽを向く。

「けっ、勝手に言ってろ」

「では兵法の一つでも語ってやろうか? 魯大人にそろそろ教えろと釘を刺された」

 今日魯粛が訪ねて来た用向きはそれだった。

 田舎にいた頃や兵卒の一人であった頃は要らなかった知識も伯長ともなれば必要になってくる。幸い書をよく読む呂秀は兵法にも通じていたので、それを覚えていた魯粛が教えるように勧めてきたのだ。それを了承すると、今度は呂秀自身に話が回ってきた。再び、今度は孫権に仕えぬかとの話だ。

 実は呂秀、過去一時期だけ柴桑のとある役所に勤めていたことがある。しかしそれも長くは続かなかった。その原因としては体調が一つ、いま一つの理由は人間関係で生じる苦痛による。

 官吏であった頃、生来の性格も手伝い呂秀は己の才を隠そうとはしなかった。そのため周囲には彼は(けん)(かい)な才人として知られることとなる。そして同時に表では口のいいことを言っておきながら裏では彼を罵る者が増えた。人は――特に知識をひけらかす者は、自分に出来ない事をする者を妬み(ひが)む。それを敏感に感じ取ってしまう呂秀は、この場合不幸としか言えなかっただろう。彼が任を下り以後頑として官に就かなかったのは、勘の良さと判断力の良さ、そして要領の悪さ。その全てが同時に働いてしまった結果だった。

 過去を思い出して苦い顔をしていた呂秀は、ふと眉根を晴れさせる。頭に浮かんだのは隣にいる友人。

 そういえば、この男といることには苦痛がない。

 改めて、酒盃を傾けている周考に何故かと目をやる。手は止まっていなかったが、やや音にずれが生じた。わずかな違いだが、それでも周考はそれに気付いてこちらに眼を向け、視線が合うと機嫌良さげに笑う。いつも変わらない笑み。どこで見ても、いつ見ても、それは変わらない。いつもならば気楽なと呆れるところだが、しかしその夜の呂秀はそれを思わずに目を細めた。

(ああ、だからか――)

 気付いた。何故彼といるのが苦でないのか。

 並んで、何故彼に知識を与えようとしなかったのか。

 彼といるのが苦でないのは、彼が偽りを呂秀に向けないからだ。単純とすら言える正直な男だから、口先だけの言葉を紡がない。二言を用いない。腹立たしいほど、素直に思ったことを言う。だが腹立たしいのと同じくらい、彼との会話の後は驚くほど心がすっきりする。彼が真っ向から向かってくるから、つられて真っ向からぶつかってしまうのだ。だから心は腐らず苦痛は耐えた。そしてそれに心地好さを感じたから、周考に下手に知識を与えなかった。それを学んで、彼が自分に偽りを向けることを嫌ったのだ。

「――いつの間にやら、懐いたものだ……」

 ポツリと呟くと、耳聡く聞きつけた周考が何か言ったかと聞き返してきた。呂秀がそれに答えることはなかったが、それでも周考は満足そうに笑って視線を長江に投げ杯を傾ける。

 その横では、呂秀が穏やかな微笑を浮かべていた。

 微かと言えど、確かな笑み。周考と会ってからどころかそれ以上の年月の中はじめて浮かべた素直なものだ。

 満月の下の酒宴。飲み交わす二人に言葉はなかったが、流れる音楽がその代わりに何より雄弁に彼等を結んでいた――――。





                             





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