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<知音>

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 数日後、呂秀は体調が芳しくないのにも関わらずに柴桑の家にと立ち帰る。魯粛や甘寧、姜珂が体調を慮り難色を示して止めたがそのどれをも聞き流し我意を通したのだ。

 そして案の定、魯粛らの心配は的中する。

 家に着いた呂秀は以後病床に臥すことになった。日ごとに痩せていく彼に姜珂は毎夜通っては滋養のある物をと色々置いていく。時には彼の上官や主公の参謀と共に来ることもあった。今まででは考えられないほどの心配を向けられ、呂秀は治らなくてはと思うようになる。しかし反面、自らの身体が一日一日蝕まれていくのを感じていた。

 そして冬にしては暖かいある晴れた日、呂秀は天寿を全うする時を迎える。

      *      *     *

 その日は朝から調子が良かった。しかし呂秀は、治ったかもしれないと楽観することはない。己の体は己が一番良く分かっている。一時期の回復は、今日という日が呂秀という蝋燭が消える最期の瞬間、というだけのことだ。そうと分かったから、呂秀は世話になった者達一人ひとりに手紙をしたため、久し振りに胡弓を弾くことにした。

 魯粛がせめてと勧めてくれた常居の医者すら断ったために一人きりで寝て過ごした我が家は、産まれた時から住んでいる所だとは思えないほどがらんとして見える。

 その空虚感を満たそうとするかのように、呂秀は己の知る限りの、自他の曲を弾き続けた。

 そして今、この時期に合った冬の曲が奏でられる。

 それは過去呂秀が作った即興のもの。彼に、出会いと満たされた時間を与えてくれた、きっかけの曲。

「――――早いものだ、お前と会ってもうすぐ四年が経つぞ」

 語りかける声音はかつてないほど穏やかだ。

「それなのに、お前も私も、こんな中途半端な時期に逝ってしまうのか。なんともすっきりしないな」

 苦笑は、かつて向けられるべき者がいないために表情のなかった顔に乗せられている。

「まぁ、それも天命か――」

 口を動かしている間も手を動かし続ける。それでいて音の一つも乱れないその腕は正に見事。それを褒める者は数多いたが、その音を正しく理解した者は一人だけだった。

彼とは真逆に真っ直ぐで、単純と言えるほど素直な青年の顔を思い浮かべ、呂秀は優しげに微笑んだ。長い年月の間、すっかり忘れ去られてしまっていた笑顔だ。

「知音なし。さらば逝くも恐れなし。今行こう、待っていてくれ。我が友よ――」

 玲瓏たる声で不思議に思えるほどはっきりと紡がれた言葉を最後に、胡弓の音は途切れる。
 白い冬の陽が大地に降り注ぐ、昼下がりのことだった。














 さざ波の音がする。

 深く目を瞑っていた呂秀はゆっくりと瞼を持ち上げた。黒い視界が一転、満月に皓々と照らされた世界が映し出される。

「ここは――……」

 見覚えがあった。道を作るように左右に立っている木々にも、その間から見える月の光を反射する長江の水面にも。長江の方へと木々を抜ければ、岩肌が露になった岩場が続いていた。呂秀はそこを下流に下っていく。気が付けば、手には胡弓が握られていた。歩く道は同じでも、これだけはあの時と違う。寒いと言うよりは涼しさが心地良い江のほとりをしばらく歩き通した呂秀は、進行方向の先にある岩鼻の上で視線を止めた。
 月光の中に輪郭を保つ影が一つ。月を背負い、その影を生じさせている人物はつまらなそうに酒を飲んでいる。予想を裏切らないその姿を認め、呂秀はわざと足音を立てて近付いて行った。すると、彼は音に気付き振り返る。次いで浮かべられた心底嬉しそうな笑顔に変化がないことに安心し、呂秀も唇を引き伸ばして笑い返した。待ちわびていたらしい友人は酒瓶を掲げ示す。

「早く来い伯真、飲むぞ!! あ、お前はそれを弾きながらな」

 朗々とした誘い声には変わらない力強さがある。おかしな出来事だと頭の隅で考えたが、呂秀はこの邂逅を素直に喜んだ。

 長江の香りを胸いっぱいに吸い込み、相好を崩す。

「ああ俊応、すぐ行く。酒を飲み尽くしたりしたら許さんぞ」

 歩き出した呂秀の後ろを風が通り抜けた。そのまま森を駆け抜けた一陣の風は、再会を果たした二人の男を照らす蒼い月まで若い葉を運んでいく。

 冴えた月の光を反射する長江は、悠々と流れ続けている。





 流れる音楽は

風の如く

水の如く

炎の如く

緩やかな江を映し

そびえ立つ泰山を映す

その真実の姿は

かけがいのない友の元に

明らかになった




                了





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